第50話:新たなる戦端
池田屋での激闘から三日。新八は、押収した膨大な文書の分析を完了させました。
そこから浮かび上がったのは、長州藩による恐るべき計画の全貌。
剣ではなく、情報を武器とする新選組の「見えざる戦争」が始まります。
新八の知略が、血の宿命に抗うための新たな道を切り開きます。
後書き
池田屋での激闘から三日が過ぎた。
京の街は、一見すると平穏を取り戻したかのように見えた。しかし、水面下では、巨大な蜂の巣を突いたような衝撃が、さざ波となって広がり続けていた。新選組の名は、これまでとは比較にならないほどの畏怖と、そして一部の者たちからの賞賛をもって、京の隅々にまで浸透していた。
俺と山崎君は、あの日からほとんど不眠不休で、押収した文書の分析と整理に没頭していた。前世で培ったスキルを総動員し、膨大な情報を体系化していく作業は、血と硝煙の匂いが染みついた剣客の仕事とは、あまりにもかけ離れたものだった。
「……できました、永倉さん」
山崎君が、最後の墨痕も鮮やかな一枚を書き上げ、静かに筆を置いた。彼の目の下には濃い隈が刻まれていたが、その瞳は達成感に満ちていた。
目の前には、数十枚に及ぶ和紙の束が置かれている。それは、単なる書き写しではない。俺たちが「金」「モノ」「人」という三つの流れに沿って分類し、図や表を多用して可視化した、長州藩の対幕府工作計画の完全なる解剖図だった。
「ご苦労だった、山崎君。君の働きがなければ、ここまで早くは終わらなかった」
「いえ……俺は、永倉さんの指示に従ったまでです。これほどの情報を、これほど見事に整理する手法があるとは……驚きました」
彼の言葉に、俺は少しだけ誇らしい気持ちになる。剣の腕では、この新選組には化け物じみた連中がいくらでもいる。だが、この分野ならば、俺は誰にも負けない。これが、俺だけの武器だ。
「さあ、行こう。俺たちの戦果を、局長と副長に報告する」
俺は、完成した報告書の束を手に立ち上がった。これは、池田屋で流された血の代償として得た、未来への切符だ。この価値を、あの二人が理解できないはずがない。
◇
屯所の奥、近藤さんと土方さんが執務を行う部屋の空気は、池田屋事件以前とは明らかに違っていた。勝利の高揚感は影を潜め、代わりに組織の指導者としての重責感が、部屋全体に満ちているようだった。
「入れ」
土方さんの短い許可を得て、俺は山崎君と共に部屋に入る。上座には、腕を組んだ近藤さんと、煙管を片手にした土方さんが座っていた。
「永倉か。それに山崎も。例の件、終わったのか」
土方さんの鋭い目が、俺の抱える報告書の束に向けられる。
「はい。こちらが、池田屋で押収した文書の分析結果です」
俺は、二人の前に報告書を広げた。図や表が多用されたその体裁に、近藤さんがわずかに目を見張る。
「これは……なんだ、まるで商家の帳面だな」
「ええ。ですが、ここに書かれているのは、一国の転覆計画です」
俺は、まず「カネの流れ」と題した図を指し示した。
「長州藩は、大坂の蔵屋敷を拠点に、京の豪商・古高俊太郎らを通じて、市井の志士たちに多額の活動資金を供給していました。この図は、金の出所、中継地点、そして末端の金の流れを全て可視化したものです。ここに記された豪商たちを締め上げ、資金源を断つだけで、長州派の活動は大幅に制限されるはずです」
次に、俺は「モノの流れ」と記された報告書を示す。
「武器の調達先です。堺の商人から薩摩藩の名義を借りて洋式銃を買い付け、大坂の藩邸を経由して京へ密輸していました。この筋を叩けば、連中の武力は大幅に削がれます。具体的な密輸の日時や経路も、一部判明しています」
俺の説明を、土方さんは黙って聞いていたが、その目が徐々に熱を帯びていくのが分かった。彼は、この情報の持つ戦略的価値を、瞬時に理解しているのだ。
そして、最後に俺は、最も重要な報告書を二人の前に差し出した。
「そして、これが『ヒトの流れ』。京に潜伏する長州派の志士たちの名簿、偽名、そして潜伏先の一覧です」
その報告書を見た瞬間、近藤さんの表情が険しくなった。
「これだけの数が……まだ京に潜んでいるというのか」
「はい。池田屋に集まっていたのは、あくまで氷山の一角に過ぎません。公家の使いに化けている者、大店の番頭として情報を集めている者。その根は、我々が想像する以上に深く、広い範囲に張り巡らされています」
近藤さんは、ゴクリと息を呑んだ。
「……ならば、この名簿をもとに、片っ端から捕縛すればよいのだな」
その言葉に、俺は静かに首を振った。
「いえ、局長。それは最善手ではありません」
「何だと?」
いぶかしむ近藤さんに対し、俺は敢えて強い口調で言った。
「ただ捕らえるだけでは、トカゲの尻尾切りに終わります。重要なのは、この名簿を使い、連中の諜報網そのものを逆用することです」
「諜報網を、逆用する……?」
俺は、官僚時代に叩き込まれたカウンターインテリジェンスの概念を、彼らに分かる言葉で説明し始めた。
「そうです。例えば、ここに名のある志士をあえて捕らえず、泳がせておく。そして、監察方を使い、彼が誰と接触し、どこから情報を得ているのかを徹底的に洗い出す。そうすれば、我々は、この名簿に載っていない、さらに大物の存在にたどり着けるかもしれません」
「……!」
「あるいは、偽の情報を掴ませることもできます。我々が次にどこを狙っているか、といった偽の情報を流し、連中をこちらの意図通りに動かす。敵の目と耳を、我々のものとして利用するのです」
剣を振るい、敵を斬る。それが、これまでの新選組の戦い方だった。しかし、俺が提示しているのは、それとは全く異なる次元の戦いだった。情報を武器とし、敵の思考を読み、未来の行動を支配する。血を流さずに敵を無力化する、「見えざる戦争」だ。
俺の説明が終わると、部屋には重い沈黙が落ちた。
近藤さんは、腕を組んだまま、深く考え込んでいる。彼の武士としての価値観が、この新しい戦い方を即座に受け入れることをためらわせているのかもしれない。
その沈黙を破ったのは、土方さんだった。
「……面白い。実に面白い」
彼は、煙管の灰を灰皿に落とすと、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「つまり、こうか。今までは、京のどこかで火事が起きてから駆けつけていたが、これからは、火事を起こそうと企んでいる奴らの懐に、こっちから火種を仕込みに行く、と。そういうことだな?」
その完璧な要約に、俺は思わず息を呑んだ。この人は、やはり天才だ。俺が長々と説明した概念の本質を、一瞬で見抜いている。
「その通りです、副長」
「気に入った。永倉、その『見えざる戦争』とやら、お前に一任する。やれるか?」
土方さんの言葉に、近藤さんがハッと顔を上げた。
「歳っ! しかし、それは……」
「近藤さん」
土方さんは、近藤さんの言葉を遮り、真剣な眼差しで言った。
「池田屋で、奥沢が死んだ。藤堂も深手を負った。他の隊士たちもだ。我々は勝ったが、その代償は決して小さくない。だが、もし永倉の言う戦い方ができるなら、どうだ? 敵を斬らず、味方の血も流さずに、京の安寧を守ることができるかもしれんのだぞ」
その言葉は、人情家の近藤さんの胸に、深く突き刺さったようだった。部下の命を何よりも重んじる彼にとって、それは抗いがたい魅力を持つ提案だったに違いない。
「……味方の血も、流さずに……」
近藤さんは、報告書の山と俺の顔を交互に見つめ、やがて、大きく頷いた。
「……分かった。永倉君、君の才を信じよう。その戦、新選組の局長として、君に命じる」
「はっ!」
俺は、力強く頭を下げた。
ついに、公式な許可が下りた。これは、単なる一隊士としての活動ではない。新選組という組織の、新たな戦略部門の誕生を意味していた。
「ついては、一つお願いがあります。この任務の遂行にあたり、監察方の山崎君を、俺の直属としてお借りしたい」
俺の言葉に、隣に控えていた山崎君の肩が、わずかに揺れた。
土方さんは、俺と山崎君を値踏みするように見比べると、すぐに頷いた。
「いいだろう。山崎、永倉の指揮下に入れ。お前たちの働きが、これからの新選組の命運を左右すると思え」
「……御意」
山崎君が、静かに、しかし確かな決意を込めて応えた。
部屋を辞し、廊下に出る。外の光がやけに眩しく感じられた。
俺は、手にした潜伏志士の名簿に、改めて目を落とした。そこに並ぶ無数の名前。史実では、その多くが新選組によって斬り捨てられるか、あるいは捕らえられ、拷問の末に命を落とす運命にあったはずだ。
だが、これからは違う。
彼らは、俺にとって、斬るべき敵であると同時に、利用すべき情報源であり、未来を操作するための駒でもある。誰を救い、誰を見捨てるか。その選択の全てが、俺の双肩に懸かっている。神のような視点を持ってしまったことへの苦悩が、再び胸をよぎる。だが、感傷に浸っている暇はない。
俺は、もうただの剣客、永倉新八ではないのだから。
「行くぞ、山崎君。俺たちの戦争の始まりだ」
俺は、静かに闘志を燃やしていた。
剣の腕だけが全てではない。この幕末という動乱の時代を、俺は俺のやり方で生き抜き、そして仲間たち全員を守り抜いてみせる。
俺だけが生き残る未来など、断固としてお断りだ。
その決意を胸に、俺は新たなる戦端へと、確かな一歩を踏み出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
新八が提示した「情報戦」という新たな戦い方は、土方歳三の心を掴み、新選組の正式な戦略として認められました。
味方の血を流さずに勝利を目指す、彼の挑戦が始まります。
史実の運命に抗い、仲間全員を守り抜くことができるのか? 乞うご期待!




