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第5話:運命の足音

ついに歴史の中心地、江戸へと向かうことになった栄吉。

彼の目的は、歴史の流れを読み解き、仲間を救うこと。

その第一歩となる旅路で、彼は運命の足音を聞くことになります。

道中の宿場町で遭遇した些細な騒動。それが、彼の、そして日本の歴史を大きく動かす人物たちとの邂逅に繋がるとは、まだ誰も知りません。

 俺の剣が「理の剣」として師範に認められてから、数ヶ月が過ぎた。

 百合元宗次郎師範は、俺の特異な才能――いや、彼が言うところの「理」を高く評価し、今では稽古の合間に、俺を師範代のように扱い、他の門弟への指導を任せることすらあった。


「相手の力を読むのではない。力の『流れ』を読むのだ。水路を制すれば水を制せるように、力の流れを制すれば、相手の動きは自ずと見える」


 俺が現代知識を基に再構築した剣術理論を、この時代の言葉に翻訳して教える。門弟たちは半信半疑ながらも、俺との打ち合いで面白いように転がされるものだから、真剣に耳を傾けざるを得ない。撃剣館のレベルは、俺という「異物」の混入によって、確実に底上げされつつあった。


 そんなある日の午後、道場に俺を呼ぶ師範の声が響いた。

「栄吉、少しこちらへ来い」


 師範の私室へ赴くと、彼は文机を前に座し、一通の書状を手にしていた。その表情は、いつになく真剣だ。


「栄吉。お主の腕、そして思慮深さは、この道場に収めておくには惜しいものだ。……江戸へ行く気はあるか?」

「江戸、でございますか」


 来たか。俺の脳が警鐘を鳴らす。

 霞が関の官僚だった頃、地方への出張命令は、キャリアを左右する重要なターニングポイントだった。この時代の「江戸行き」は、それ以上の意味を持つ。歴史の中心、動乱の震源地へ。


「うむ。江戸三大道場の一つ、練兵館が主催する大きな試合がある。各藩、各道場から腕利きの者が集まる、いわば剣客の見本市だ。儂の推薦で、お主を神道無念流の代表の一人として送りたい」


 願ってもない話だった。

 俺の目的は、歴史の奔流にただ流されることではない。その流れを読み、舵を取り、仲間たちを救うことだ。そのためには、地方の道場で燻っていては話にならない。情報、人脈、そして影響力。全てが江戸に集中している。


「身に余る光栄です。謹んで、お受けいたします」

 俺は、深々と頭を下げた。心臓が、嫌でも高鳴るのを感じる。

 これは単なる試合ではない。歴史の舞台へと上がるための、最初のステップだ。


 数日後、俺は旅支度を整え、東海道を江戸へと向かっていた。

 道中、俺はただ歩いているわけではなかった。官僚としてのさがが、目に入るもの全てを分析させる。


(街道の整備状況は、場所によってばらつきが大きい。関所での人の流れ、物流の滞り。これが有事の際の兵站へいたんにどう影響するか……)

(宿場町の活気。米の価格。人々の表情。世の不満は、どの階層に、どの程度溜まっているのか……)


 脳内の『詳説日本史研究』の記述と、目の前の現実を照らし合わせる。それは、俺にしかできない、この時代の「実地調査」だった。


 箱根の山を越え、江戸まであと数日の道のりとなったある日の昼下がり。小田原の宿場町は、多くの旅人でごった返していた。俺は一軒の茶屋で草鞋の紐を解き、一息つくことにした。


 その時だった。

 茶屋の奥の座敷から、怒声と何かが割れる音が響き渡った。


「無礼者!たかが町人の分際で、この俺に指図する気か!」

「ひぃっ!も、申し訳ございません!ですが、お代は……」


 典型的なトラブルだ。酒に酔った武士が、店に絡んでいるのだろう。

 俺は眉をひそめた。面倒事はごめんだ。だが、悲鳴を上げる茶屋の娘の声に、見て見ぬふりもできなかった。


(状況分析を開始する)

 俺は静かに立ち上がり、音のした座敷へと向かった。

 中では、身なりの良い二人の侍が、震える主人を恫喝していた。傍らには、割れた徳利が転がっている。旗本の供回りか、あるいはどこかの藩士か。いずれにせよ、下手に刺激すれば面倒なことになる。


「侍の方々。何かご不満でも?」

 俺は、努めて冷静に、しかし凛とした声で問いかけた。


 侍の一人が、ぎろりと俺を睨む。

「なんだ、貴様は。ただの道場破り風情が、口を出すな」

「道場破りではありません。旅の者です。しかし、狼藉は見過ごせません。この店の者が何か粗相をしたのであれば、私が代わってお詫びします。ですが、もし理不尽な要求をなさっているのであれば、それは武士の風上にも置けませぬな」


 俺の戦略は「対話による解決」だ。刀を抜くのは最後の手段。官僚の基本は、交渉によるリスクの最小化だ。


 だが、その理屈は、酔っ払いには通じなかった。

「小賢しい!貴様も斬られたいか!」

 侍が、鯉口を切った。


(交渉決裂。次善の策へ移行……やむを得ん、実力行使か)

 俺が柄に手をかけ、腰を落としかけた、その瞬間だった。


「――そこまでにしなされ」


 朗々とした、それでいて不思議なほど人の心を落ち着かせる声が、座敷に響いた。

 声のした方を見ると、いつの間にか、三人の男が立っていた。


 先頭に立つのは、大男だった。百姓上がりと聞けば納得するような、朴訥とした顔つき。だが、その体躯は岩のようで、どっしりと構えた姿には、揺るぎない自信と威厳が満ちていた。人の心を掴んで離さない、天性の指導者の風格。


(この男……まさか!)


 俺の思考が、雷に打たれたように停止する。

 その大男の隣には、対照的な二人の男が控えていた。


 一人は、歳は俺と同じくらいだろうか。着流しを粋に着こなし、切れ長の目に鋭い光を宿した美丈夫。彼は腕を組み、冷徹な観察眼で状況の全てを見通しているようだった。その視線は、まるで獲物を狙う狼のように、油断も隙もない。


 そして、もう一人。

 まだ少年と言ってもいいほどの、あどけなさを残した美少年。彼はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべているが、その立ち姿は柳のようにしなやかで、剣客としての天賦の才が隠しようもなく滲み出ている。


 俺の脳裏で、参考書のページが、凄まじい勢いでめくられていく。

 間違いない。


 近藤勇。

 土方歳三。

 沖田総司。


 歴史の主役たちが、今、俺の目の前にいる。


 酔った侍たちも、ただならぬ三人の気配に気圧されたようだ。

「な、なんだ貴様らは!」


 虚勢を張る侍に、美少年――沖田が、一歩前に出た。

「まあまあ。そんなに怒らないでくださいよ」

 そう言ったかと思うと、彼の姿がふっと掻き消えた。


 次の瞬間、カキン!という乾いた音と共に、侍の手から刀が弾き飛ばされていた。沖田は、いつの間にか侍の背後に回り込み、鞘に収めたままの刀で、相手の手首を軽く打っただけだった。


「あれ?刀が滑っちゃいましたね」

 悪戯っぽく笑う沖田。だが、その目は笑っていない。

 神速。そして、寸分の狂いもない正確さ。これが、天才……!


「き、貴様ら!覚えていろ!」

 完全に戦意を喪失した侍たちは、這うようにして茶屋から逃げていった。


 嵐が去った座敷で、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 やがて、大男――近藤勇が、豪快な笑顔を俺に向けた。


「はっはっは!見事な度胸だ、若いの!あの手の輩に、理屈で挑むとはな。俺は好きだぜ、そういうの」

 彼は大きな手を差し出してきた。

「俺は、天然理心流の近藤勇だ。こっちの気難しい顔のが土方歳三。で、すばしっこいのが沖田総司」


「……永倉栄吉、と申します。神道無念流です」

 俺は、差し出されたごつごつとした手を、固く握り返した。温かい、力強い手だった。この手が、多くの若者たちを惹きつけ、一つの時代を象徴する組織を作り上げるのだ。


「ほう、神道無念流か。道理で、筋の通ったことを言うわけだ」

 近藤が感心したように頷く。

 その横で、腕を組んだままの土方が、値踏みするような鋭い目で俺を射抜いていた。


「あんた、なぜ刀を抜かなかった?」

 土方の声は、低く、硬質だった。

「抜けば、勝てたはずだ。俺が見るに、あんた、相当の手練れだろう」


 試されている。この男は、俺の本質を見抜こうとしている。

 俺は、霞が関で幾度となく経験した、上司からの厳しい詰問を思い出していた。背筋に、冷たい汗が流れる。


「勝ち負けの問題ではありません。あの場で刀を抜けば、相手が誰であれ、後々面倒なことになる。騒ぎを大きくせず、最小限のコストで場を収めるのが最善手と判断しました。……まあ、俺の言葉だけでは、コストゼロとはいきませんでしたが」

 俺は、弾き飛ばされた侍の刀に目をやり、自嘲気味に言った。


 俺の答えを聞いた土方は、何も言わなかった。

 だが、その厳しい表情が、ほんのわずかに、ほんのわずかに緩んだのを、俺は見逃さなかった。彼の目に、「面白い」という光が宿ったように見えたのは、俺の願望だっただろうか。


「永倉さん、でしたっけ?あなたも、江戸へ?」

 無邪気な声で、沖田が尋ねてきた。

「ええ、試合のために」

「へえ!じゃあ、どこかで手合わせできるといいですね!」


 この少年が、やがて血を吐きながら刀を振るうことになる。その未来を知っているのは、この世界で俺だけだ。胸の奥が、ズキリと痛んだ。


「もし江戸に来たら、市ヶ谷にある試衛館という道場を訪ねてくれ。歓迎するぜ!」

 近藤が、太陽のような笑顔で言った。


 これが、出会い。

 歴史書の中の、たった数行で語られていた、運命の邂逅。

 だが、これはもう、紙の上の物語ではない。俺が生きる現実だ。


 彼らと別れ、再び東海道を歩き出す。

 宿場町の喧騒も、吹き抜ける風の音も、もう俺の耳には届かなかった。


 ただ、俺の胸の中で、力強い鼓動が鳴り響いていた。

 それは、歴史が動き出す音。


 運命の足音が、すぐそこまで迫っている。

 俺は、固く拳を握りしめ、江戸へと続く道を、ただまっすぐに見据えた。


第5話、お楽しみいただけましたでしょうか。ついに近藤勇、土方歳三、沖田総司という、後の世に名を轟かせる男たちが栄吉の前に現れました。


理屈で場を収めようとする栄吉と、圧倒的な実力でそれを解決する近藤たち。

この対照的な出会いが、今後の物語にどう影響していくのか。歴史の主役たちと邂逅を果たした栄吉の運命が、今、大きく動き出します。

次回、舞台は江戸へ。ご期待ください。

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― 新着の感想 ―
とりあえず、こまけえこたぁいい、よく分からん言葉を使うが何処かの方言だろう。
同じこと思った。コストって?質問されないんだ、って。
「コスト」とか「ゼロ」とか通じるの? 通じたとして、主人公の素性に違和感、疑念を持たれそうな。
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