第49話:勝利の代償と戦果
池田屋での激戦は、多大な犠牲を払いながらも新選組の勝利に終わりました。
しかし本当の戦いはこれからです。
新八は死闘の末に確保した機密文書を分析し、長州藩の壮大な計画を暴きます。
剣ではなく情報を武器にした、新選組の新たな戦いが始まります。
池田屋の闇は、夜明けを待たずして、血と鉄錆の匂いに満たされたまま終焉を迎えた。
土方さんの部隊が合流し、裏口からの増援を得た俺たちは、数の上で圧倒的優位に立った。残された長州や土佐の志士たちは、もはや組織的な抵抗もままならず、あるいは斬り捨てられ、あるいは捕縛されていった。最後まで抵抗を試みた宮部鼎蔵も、複数人の隊士によって囲まれ、その場で壮絶な自刃を遂げたという。
夜が白み始める頃、俺たちが目にしたのは、まさに地獄絵図だった。破壊された調度品、血の海と化した床、そして折り重なるように倒れる骸、骸、骸。敵味方の区別なく、そこにはただ「死」だけが平等に横たわっていた。
「……奥沢君」
階段の下で、うつ伏せに倒れている隊士がいた。一番隊に所属していた奥沢栄助君だ。背中には深々と刀傷が刻まれ、その命が既に尽きていることは誰の目にも明らかだった。最初に踏み込んだ四人のうちの一人。俺が二階へ駆け上がる間、彼はこの階下で奮戦し、そして力尽きたのだ。
その近くでは、藤堂平助君が腕から血を流し、苦悶の表情で座り込んでいた。額に深い傷を負った者、足を引きずる者。俺たちの勝利は、決して無傷ではなかった。
「皆、よく戦ってくれた……! だが、我らの勝利だ!」
近藤さんが、血刀を下げたまま、声を張り上げた。その声は勝利の喜びに震えていたが、その瞳は、倒れた奥沢君を見つめ、深い悲しみの色を湛えていた。人情家の局長にとって、部下の死は、何よりも重い。
「感傷に浸るのは後にしろ! 手早く負傷者を運び出し、捕虜を縄で繋げ! 夜が明けきる前に屯所へ戻るぞ!」
土方さんの容赦ない声が飛ぶ。その声に、隊士たちははっと我に返り、てきぱきと動き始めた。これが、新選組という組織の強さだ。近藤さんの人情が隊士たちの心を繋ぎ、土方さんの厳格さが組織を動かす。この絶妙な均衡こそが、彼らを最強の戦闘集団たらしめているのだ。
俺は、自らの腕に残る無数の浅い切り傷を眺めながら、深く息を吐いた。桂小五郎との一瞬の攻防が、脳裏に焼き付いて離れない。史実を捻じ曲げた代償か、あるいは必然か。いずれにせよ、あの男の存在は、今後の俺の計画に大きな影を落とすだろう。
だが、今は目の前の現実に対処するしかない。俺は、負傷した隊士に肩を貸し、池田屋の玄関を後にした。
◇
壬生の屯所は、夜明けと共に、異様な熱気に包まれた。
「うおおお! 見たか、長州の奴らの腑抜けた面を!」
「宮部鼎蔵の首、俺が取ってやったぞ!」
京の治安を揺るがした尊攘派の巨魁たちを討ち取ったという事実は、隊士たちを狂喜させるには十分すぎた。酒が持ち出され、あちこちで勝利の宴が始まる。しかし、その一方で、屯所の片隅では、運び込まれた負傷者たちが医師の手当てを受け、呻き声を上げていた。そして、白布を被せられた奥沢君の亡骸が、静かに横たわっていた。
勝利の喧騒と、死の静寂。そのあまりにも大きな落差が、この戦いで俺たちが支払った「代償」の大きさを物語っていた。
俺は、簡単な手当てを済ませると、その喧騒から逃れるように自室へと向かった。祝杯を挙げる気には、到底なれなかった。官僚としての俺の意識が、この勝利に浮かれることを許さない。戦いは、まだ終わっていない。本当の戦いは、ここから始まるのだ。
部屋に戻るなり、俺は島田魁君から受け取っていた漆塗りの文箱を文机の上に置いた。あの時、俺が命懸けで守り抜いた、長州藩の計画の全てが詰まった箱だ。
「……山崎君を呼んできてくれ。至急だ」
近くを通りかかった隊士にそう命じると、俺はすぐに墨と筆、そして大量の和紙を準備した。これから始まるのは、もう一つの戦い。血も刃も交えないが、幕府の未来を左右する、決定的に重要な「情報戦」だ。
ほどなくして、監察方の山崎烝君が、音もなく部屋に姿を現した。彼の表情は、他の隊士たちのように高揚してはおらず、いつも通りの冷静沈着さを保っていた。
「永倉さん、お呼びでしょうか」
「ああ、急いでくれて助かる。山崎君、君の力を借りたい」
俺は、文箱を指し示した。
「この中にある文書を、今から分析する。これは、単なる連判状じゃない。長州が京で何をしようとしていたか、その全てが記されているはずだ。俺は、これを『情報』として整理し、俺たちの次の武器にしたい」
山崎君は、俺の言葉を黙って聞いていたが、その目に鋭い光が宿った。彼は、俺の意図を正確に理解したようだった。
「……承知いたしました。具体的には、何をすれば?」
「まず、全ての文書に目を通し、内容ごとに分類する。俺が読み上げるから、君はそれを書き留めてくれ。分類はこうだ。『金の流れ』、『モノの流れ』、そして『人の流れ』。この三つだ」
官僚時代に培った、情報の整理・分析手法。複雑に絡み合った事象も、この三つの流れに分解すれば、その本質が見えてくる。
俺は、文箱の蓋を開けた。中には、おびただしい数の書状や帳簿が、ぎっしりと詰め込まれていた。俺は、その一枚目を手に取り、そこに記された文字を読み解き始めた。
「……まず、『金』。出所は長州藩の蔵屋敷。そこから、京の豪商・古高俊太郎を経由して、各所の志士たちへ活動資金として渡っている。額は……驚いたな、かなりの大金だ。これだけの金があれば、かなりのことができるぞ」
俺が読み上げる内容を、山崎君が驚くべき速さと正確さで和紙に書き留めていく。彼の記憶力と書記能力は、この作業においてまさに最適任だった。
「次に、『モノ』。堺の商人、和泉屋から大量の洋式銃を購入している。購入名義は、長州藩ではなく、薩摩の商人の名を借りているようだ。偽装工作か……。受け渡し場所は、大坂の藩邸。そこから、身分を偽った藩士たちが少しずつ京へ運び込んでいる」
「そして、最も重要なのが『人』だ。この連判状に名を連ねている者以外にも、京の市中に潜伏している志士たちの名前、偽名、そして隠れ家の一覧がある。公家の屋敷に出入りしている者、商家の手代に化けている者……根は、我々が考えているよりもずっと深いぞ、山崎君」
分析を進めるほどに、長州藩の周到な計画の全貌が明らかになっていく。それは、単なる京焼き討ちという短絡的なテロ計画ではない。緻密な資金計画、巧妙な武器調達ルート、そして京の各所に張り巡らされた人的ネットワーク。これら全てが有機的に連携した、壮大な国家転覆計画だった。
「……永倉」
作業に没頭する俺の背後から、静かな声がした。振り返ると、いつの間にか土方さんが部屋の入り口に立っていた。その手には、湯気の立つ茶碗が二つあった。
「少し、休んだらどうだ。お前さんの働きが、今回の最大の戦果だということは、俺が一番よく分かっている」
土方さんはそう言うと、茶碗の一つを俺の前に置いた。
「土方さん……」
「お前が二階で時間を稼ぎ、その箱を守り抜いてくれなければ、我々はただの乱暴狼藉人として、逆に討伐されていたかもしれん。……桂小五郎を相手に、よくやった」
その言葉は、最大の賛辞だった。俺は、少し気恥ずかしくなりながら、茶碗を手に取った。温かい茶が、張り詰めていた心と体に染み渡る。
「これは、一体何をしている?」
土方さんは、山崎君が書き留めた和紙の束に目をやった。そこには、俺が分類した「金」「モノ」「人」の流れが、図や表を交えて分かりやすく整理されていた。
「これは、俺たちの新しい武器です」
俺は、きっぱりと答えた。
「この情報があれば、俺たちは先手を打てます。長州の資金源を断ち、武器の供給元を潰し、そして潜伏している志士たちを根こそぎ捕縛する。そうなれば、連中はもう京で何もできなくなる。今回の池田屋の戦果を、一過性の勝利で終わらせないための、未来への布石です」
俺の言葉を聞き、土方さんは腕を組んで深く頷いた。彼の目は、もはや単なる剣客のそれではない。組織を率いる将の、未来を見据える目をしていた。
「……面白い。お前さんの頭の中には、俺たちが見ているのとは違う景色が見えているらしいな」
彼は、フッと笑うと、俺の肩を叩いた。
「分かった。その『武器』の使い方は、お前に一任する。近藤さんには、俺から上手く話しておいてやる。存分にやってみろ」
それは、絶大な信頼の証だった。史実の永倉新八には、決して与えられなかったであろう役割。俺は、この瞬間に、単なる一介の剣客ではなく、新選組という組織の「頭脳」として、その存在を認められたのだ。
窓の外が、完全に白んでいた。屯所の喧騒も、いつしか静まり返っている。勝利の熱狂が過ぎ去り、誰もが深い眠りについているのだろう。
俺は、土方さんと共に、窓から差し込む朝の光を見つめた。
この光は、新しい時代の夜明けか、それとも、さらなる動乱の始まりを告げるものか。
確かなことは一つだけだ。
俺は、この手にした「情報」という武器で、仲間たちを死なせはしない。俺だけが生き残る未来など、絶対に作らせはしない。
勝利の代償として失われた命の重みを胸に刻み、俺は、新たな戦いへの決意を固めるのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。命がけで手にした情報は、長州藩の恐るべき計画を白日の下に晒しました。
土方からの信頼を得て、新八は新選組の「頭脳」という新たな武器を振るいます。
失われた命を胸に、仲間を守るための次なる戦いへと、新八は静かに歩みを進めるのです。




