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第48話:文書と白刃

池田屋の激闘は最高潮に。永倉新八の前に、史実にないはずの強敵が立ちはだかります。


狙いは、京の未来を左右する重要文書。

歴史の知識というアドバンテージが揺らぐ中、新八は仲間と未来を守るため、知略と剣技を武器に、決死の覚悟で刃を交えます。

 静寂が、血と鉄の匂いが充満する二階の空気を支配していた。俺の目の前に立つ男、桂小五郎。史実において、この池田屋にはいなかったはずの長州藩の大物が、鞘から抜き放った刀を静かに正眼に構え、俺の前に立ちはだかっていた。


 その双眸は、驚くほど凪いでいた。階下から響き渡る怒号や悲鳴、肉を断ち骨を砕くおぞましい音の数々が、まるで彼の耳には届いていないかのようだ。だが、その静けさこそが、彼の尋常ならざる力量を物語っていた。


「……なぜ、あんたがここにいる」


 俺は、絞り出すように尋ねた。動揺を悟られぬよう、声の震えを必死に抑え込む。史実を知るという、俺の唯一のアドバンテージが、今、目の前で崩れ去ろうとしている。この男一人の存在が、俺の描いてきた未来への青写真を、根底から覆しかねない。


 桂は、俺の問いには答えず、ただ静かに口を開いた。

「新選組、永倉新八と見受ける。その若さで、なかなかの腕前のようだ。だが、その剣は、何を守るためのものだ?」


 まるで、禅問答のような問いだった。彼の視線は、俺の刀ではなく、俺の心の奥底を見透かそうとしているかのようだ。


(まずい……!)


 官僚としての俺の危機察知能力が、警鐘を鳴らす。これは、時間稼ぎだ。桂は、その卓越した剣技と、人を惹きつけるカリスマ性で俺の注意を完全に引きつけ、その間に吉田稔麿たちに『文書』を処分させるつもりなのだ。


 俺の視線が、鋭く桂の背後へと飛ぶ。案の定、吉田稔麿が懐から取り出した分厚い書状の束を、部屋の隅に控えていた別の志士に手渡していた。その志士は、主君の意を汲み、すぐさま部屋の隅にある火鉢へと駆け寄る。


「させるか!」


 俺は、桂との対峙を中断し、反射的に地を蹴った。だが、俺の動きを完全に読んでいたかのように、桂の刃が寸分の狂いもなく俺の喉元へと突き出される。


「君の相手は、私だ」


 神速の突き。しかし、それは沖田君のような殺意の塊ではない。あくまでも、俺の動きを制するための一撃。俺は、上半身をのけぞらせて辛うじてそれを躱すが、体勢が大きく崩れる。


「くっ……!」


 桂の剣は、まるで流れる水のようだ。激しく打ち合ってくるわけではない。だが、俺が攻めようとすれば的確にいなし、退こうとすれば逃さぬようにまとわりつく。一合、また一合と刃を交えるたびに、俺の動きが確実に封じられていくのが分かった。これが、「逃げの小五郎」の異名を持つ男の、もう一つの顔。神道無念流の免許皆伝でもある、一流の剣客としての実力か。


 その間にも、志士の手は火鉢へと伸びていく。漆塗りの文箱が、今まさに赤々と燃える炭の中へと投じられようとしていた。


(万事休すか……!?)


 焦りが、心の隙間から滲み出す。この文書を燃やされてしまえば、池田屋に踏み込んだ意味が半減する。いや、それどころか、京に潜む尊攘派のネットワークを根絶やしにする好機を永遠に失うことになる。それは、徳川幕府の未来にとって、あまりにも大きな損失だった。


(落ち着け……冷静になれ、俺……!)


 俺は、激しく打ち鳴らす心臓を、理性で無理やり押さえつけた。官僚時代、幾度となく経験した絶体絶命の状況。予算委員会の答弁、大臣へのレクチャー、他省庁との熾烈な縄張り争い。修羅場なら、くぐり抜けてきた数は負けていない。


 思考を高速回転させる。桂の目的は、俺の足止め。殺害が目的ではない。ならば、そこに付け入る隙があるはずだ。そして、俺の目的は、文書の確保。桂を倒すことではない。


 優先順位を違えるな。


 俺は、桂の剣を受け流しながら、わざと大きく体勢を崩してみせた。がら空きになった胴体。常人ならば、絶好の好機と見て踏み込んでくるだろう。だが、桂は動かない。俺の誘いには乗らず、あくまで冷静に間合いを保っている。


 ならば、と俺は次の手を打つ。

「総司!こっちはいい!宮部を頼む!」


 俺は、階下で宮部鼎蔵と対峙しているはずの沖田君に向かって、大声で叫んだ。もちろん、ここに彼の姿はない。これは、桂の注意を逸らすための、完全な陽動だ。


 案の定、桂の眉が僅かに動いた。沖田総司という名前が、彼の警戒心を一瞬だけ揺さぶったのだ。そのコンマ数秒の隙を、俺は見逃さなかった。


「しまっ……!」


 桂が俺の意図に気づいた時には、既に遅かった。俺は、彼の懐に飛び込むと見せかけ、その肩を足場にして、高く跳躍していた。


「なっ……!?」


 驚愕に目を見開く桂を眼下に、俺の体は宙を舞う。そして、火鉢の前で文箱を振りかぶっていた志士の真上へと、落下した。


「そこを退けぇぇぇっ!」


 俺は、全体重を乗せた踵落としを、志士の肩口へと叩き込む。骨が砕ける鈍い音と共に、志士は悲鳴を上げる間もなく床に崩れ落ちた。文箱が、その手から滑り落ち、床を転がる。


「よしっ!」


 俺は、すぐさま文箱を拾い上げようと手を伸ばす。だが、その瞬間、横から凄まじい気迫と共に新たな刃が襲いかかってきた。吉田稔麿だ。


「犬どもに、我々の悲願を渡してなるものか!」


 その瞳は、もはや正気の色を失っていた。友の屍を乗り越え、ただ狂信的なまでの使命感に突き動かされている。


 俺は、文箱を左脇に抱え、右手一本で吉田の刃を受け止める。片手での応戦は、不利を極める。じりじりと押し込まれ、体勢が崩れていく。


 その時だった。


「そこまでだ、長州の者!」


 凛とした声と共に、背後の襖が蹴破られ、数名の隊士たちが雪崩れ込んできた。先頭に立つのは、鬼の副長、土方歳三その人だった。裏口を制圧し、ついに二階へと到達したのだ。


「土方さん!」

「永倉か!無事だな!……その箱は?」


 土方さんの鋭い視線が、俺の抱える文箱に突き刺さる。

「奴らの計画の全てが記された連判状です!京の焼き討ち、帝の拉致……全ての証拠がこの中に!」


 俺の言葉に、土方さんの表情が険しさを増す。彼は、すぐさま隣にいた島田魁に命じた。

「島田!その箱を受け取れ!何があっても死守しろ!会津のご家老様へお届けするまで、貴様の命に代えても守り抜け!」

「ははっ!」


 巨漢の島田君が、恭しく俺から文箱を受け取る。これで、第一の目的は達成された。俺は、安堵の息をつく間もなく、再び刀を握り直す。


 吉田稔麿は、土方さんたちの登場に一瞬怯んだものの、すぐに我に返り、桂小五郎と共に窓際へと後退していく。


「退くぞ、稔麿!」

「しかし、桂さん!」

「我らの目的は、犬死にすることではない!再起を期すのだ!」


 桂はそう叫ぶと、吉田の腕を掴み、躊躇なく窓から闇夜へと身を躍らせた。屋根を伝い、京の町へと消えていく。さすがは「逃げの小五郎」だ。その判断の速さと身のこなしは、見事というほかなかった。


「……逃したか」


 土方さんが、苦々しげに呟く。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。階下では、未だに近藤さんや沖田君たちが死闘を繰り広げているはずだ。


「土方さん、俺は下に戻ります!近藤さんたちが!」

「うむ、分かっている!ここは俺たちに任せろ!行け!」


 土方さんの力強い言葉に背中を押され、俺は再び白刃の渦巻く階下へと身を投じた。


 確保した文書が、これからの戦いを大きく左右するだろう。それは、徳川幕府を、俺の知る歴史とは違う、新たな未来へと導くための、重要な礎となるはずだ。


 だが、今はまだ、目の前の戦いに集中しなければならない。


 仲間を死なせはしない。俺だけが生き残る未来など、断固としてお断りだ。


 俺は、血に濡れた刀を握りしめ、闇の中を駆け下りた。



お読みいただき、ありがとうございます。

決死の覚悟で文書は確保したものの、桂小五郎の逃亡を許してしまいました。

手にした証拠は、幕府の未来を、そして日本の歴史を大きく変える礎となるはずです。

しかし、戦いはまだ終わりません。

階下で待つ仲間たちのもとへ、新八は再び駆け出します。

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