第41話:影の組織
芹沢派の粛清が終わり、新選組に訪れた束の間の静寂。
しかし主人公は、水面下でうごめく倒幕派という真の脅威を前に、この平穏が長くは続かないと予感しています。
武力だけでは巨大な敵には勝てない。
彼は、情報で組織を守るための新たな戦いを決意し、ある人物のもとを訪れます。
芹沢鴨の終焉は、誰が想像したよりも、ずっと静かなものだった。俺の放った「孤立の策」によって、金も、人も、そして力も、その全てを失った彼は、もはや抜け殻同然だった。誰に看取られるでもなく、屯所の片隅で酒に溺れる日々。かつての威勢は見る影もなく、その姿は哀れですらあった。
そして、ある雨の降る昼下がり、芹沢は誰に告げるでもなく、小さな荷物一つを背負い、壬生屯所から姿を消した。引き止める者は、誰もいない。まるで、最初から存在しなかったかのように、彼は静かに消え去ったのだ。その寂しい背中こそが、壬生浪士組の内紛の、真の終結を物語っていた。
芹沢鴨という名の嵐が過ぎ去った壬生屯所には、奇妙なほどの静けさが訪れていた。
あれほど我が物顔で闊歩していた芹沢派の幹部たちは、その筆頭局長が権威という名の鎧を剥がされた途端、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。ある者は脱走し、ある者は病と称して自室に引きこもり、またある者は、まるで最初から存在しなかったかのように、その痕跡すら残さずに消えていった。血は一滴も流れなかったが、それは紛れもなく、一つの派閥の完璧な「死」だった。
新選組と名を改めた組織は、近藤さんを唯一の局長として、新たな秩序の下に再編されつつあった。土方さんと山南さんが両副長として辣腕を振るい、俺は引き続き副長助勤として隊士の訓練や編成に忙殺される日々を送っている。表向きは、すべてが順風満帆に見えた。
だが、俺の胸の内には、晴れることのない鈍色の雲が渦巻いていた。
(静かすぎる……)
縁側で竹刀の手入れをしながら、俺は京の空を見上げた。芹沢という分かりやすい脅威が消えたことで、隊士たちの間には一種の安堵感が漂っている。だが、歴史という名の脚本を知る俺にとって、この静けさは、次なる嵐の前の不気味な凪にしか感じられなかった。
長州、土佐、肥後……。京には今、尊王攘夷の美名の下に、過激な思想を抱いた者たちが続々と集結している。彼らは水面下で深く、静かに潜行し、幕府の権威を根底から覆すための策謀を巡らせているはずだ。芹沢一件は、あくまで内紛に過ぎない。我々の真の敵は、もっと狡猾で、もっと巨大な、見えざる組織なのだ。
「力だけでは、勝てない」
芹沢を排除できたのは、俺が放った「孤立の策」という名の情報戦が功を奏したからだ。匿名の手紙、会津藩からの圧力という噂、金の流れの遮断。それら一つ一つが、芹沢派の結束を内側から崩壊させた。武力という「剣」を振るう前に、情報という「短刀」が、すでに敵の心臓を貫いていたのだ。
この戦い方を、もっと体系的に、もっと組織的に運用する必要がある。
俺は手にした竹刀を置くと、静かに立ち上がった。向かう先は、屯所の片隅にある薬部屋だ。そこは、普段あまり人が立ち寄らない。そして、この計画に引き込むべき、うってつけの男が根城にしている場所でもあった。
薬草をすり潰す、乾いた音が聞こえてくる。引き戸をそっと開けると、独特の薬の匂いと共に、黙々と作業に打ち込む男の背中が目に入った。
「山崎さん」
声をかけると、その男、監察方の山崎烝がゆっくりとこちらを振り返った。浪人というよりは、どこか学者か医者のような雰囲気を漂わせる、切れ長の涼やかな目。その瞳が、俺の姿を捉えてわずかに細められた。
「これは永倉さん。どうかなさいましたか? 風邪でもお召しに?」
「いや、薬を貰いに来たわけじゃない。あんたと、少し込み入った話がしたくてね」
俺がそう言うと、山崎さんは合点がいったというように、すり鉢を置いた。彼は俺を部屋の中に促し、自らは薬棚の前に立つ。その目は、俺が何を話し始めるのか、探るように静かに観察していた。
「芹沢の一件、あんたの働きがなければ、こうも上手くはいかなかった。感謝している」
俺が切り出すと、山崎さんはわずかに肩をすくめた。
「私は、私の務めを果たしたまでです。芹沢派の金の流れ、女遊びの相手、商家との癒着……。そういった些事を調べ、土方副長にご報告したに過ぎません」
「その『些事』が、巨象を倒す蟻の一穴になった。あんたが集めた一つ一つの情報が、俺の策の血肉となったんだ」
俺は真っ直ぐに彼の目を見つめて言った。
「山崎さん。俺は、あんたのその能力を、もっと大きな規模で活かしたいと考えている」
「……と、申しますと?」
彼の声のトーンが、わずかに変わった。単なる世間話ではない、本題に入ったことを察したのだろう。
「今の監察方のやり方は、言わば『点』の探索だ。怪しいと睨んだ人物や場所を個別に探る。それはそれで重要だが、限界がある。俺たちが本当に相手にしなければならないのは、京の街全体に張り巡らされた、長州をはじめとする倒幕派の『面』としての活動だ」
俺は、前世の記憶を呼び覚ました。霞が関で叩き込まれたインテリジェンスの基礎。情報の収集、分析、評価、そして共有。そのサイクルを、この幕末の組織に導入するのだ。
「我々には、敵の動きを事前に察知し、先手を打つための『目』と『耳』がもっと必要だ」
俺は、すり鉢の横にあった木炭を手に取り、床の板の上に簡易的な図を描き始めた。中心に「新選組」と書き、そこから何本もの線を放射状に伸ばす。
「例えば、三条大橋のたもとの茶屋。そこの女将が、客の会話をそれとなく耳にして、妙な話があれば我々に知らせる。例えば、祇園の置屋。馴染みの芸妓が、長州の侍から漏れ聞いた計画を我々に伝える。例えば、木屋町の旅籠。番頭が、宿泊する浪人の人相書きを我々に渡す……」
俺は、線の先に「茶屋」「置屋」「旅籠」と書き込んでいく。
「そうやって、京の市井の至る所に、我々の協力者を配置する。彼らは新選組の隊士ではない。ごく普通の町人だ。だが、彼らが見聞きした情報の断片が、この屯所に集約された時、それは初めて意味を持つ。敵の計画の全体像が、ぼんやりとだが浮かび上がってくるはずだ」
山崎さんは、黙って床の図を見つめていた。彼の表情は変わらないが、その瞳の奥に、強い興味の光が灯っているのを俺は見逃さなかった。
「永倉様の言うことは……まるで、異国の軍学のようですな。忍び働きとは、また違う。もっと体系的で、組織的だ」
「そうだ。これは、武力ではない。知力による組織防衛だ。集めた情報をここで分析し、確度の高いものだけを近藤さんや土方さんに上げる。そうすれば、我々は敵が動く前に動ける。常に先手を取り、主導権を握り続けることができる」
俺は、前世で「情報の非対称性」と呼ばれていた概念を、彼に分かる言葉で説明した。「相手が知らず、我らのみが知る」。その圧倒的優位を、組織的に作り出すのだ。
山崎さんは、しばらく腕を組んで沈黙していたが、やがて、ふっと息を吐いて口元に笑みを浮かべた。それは、新しい玩具を見つけた子供のような、純粋な知的好奇心に満ちた笑みだった。
「……面白い。実に面白い。ぜひ、その仕組み、詳しくお聞かせ願いたい。協力者となる人材の選定、情報の伝達方法、そして何より、集めた情報をどう『料理』するのか。考えるだけで、胸が躍りますな」
彼の完全な同意を得て、俺は心の中でガッツポーズをした。この男となら、やれる。
その時だった。
「――話は、聞かせてもらった」
背後からかけられた、低く、静かな声。俺と山崎さんが弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか、一人の男が立っていた。音も、気配も、まるで感じさせずに。
「斎藤さん……」
新選組三番隊組長、斎藤一。無口で、その出自も流派も謎に包まれた、一匹狼の剣客。だが、その腕前と冷静な判断力は、誰もが認めるところだった。
斎藤は、俺たちが描いた床の図に視線を落とすと、ゆっくりと口を開いた。
「その協力者とやらは、どう見極める。裏切りはないと、どうして言える」
彼の指摘は、俺の計画の最も核心的で、最も脆弱な部分を突いていた。人を動かすのは、金か、恩か、あるいは恐怖か。どんな動機であれ、裏切りは常に起こりうる。
「人を動かすには、それ相応の『楔』が必要になる」と斎藤は続けた。
俺は、彼の言葉に頷いた。
「その通りだ。だからこそ、あんたの力が必要になる、斎藤さん。協力者となる人間の背景を洗い、その人間が本当に信用に足るかを見極める。そして、万が一裏切った時のための『備え』をする。それは、俺や山崎さんにはできない、あんたのような影働きに長けた人間にしかできない仕事だ」
俺の言葉に、斎藤は何も答えなかった。ただ、じっと俺の目を見つめ返す。その無感情な瞳の奥で、激しい思考が巡っているのが分かった。
やがて、彼はふいと視線を外し、部屋の隅に立てかけてあった自分の刀に目をやった。
「……土方副長には、俺から話を通しておく。これは、俺の性に合った仕事らしい」
その短い言葉は、何よりも力強い承諾の証だった。
こうして、新選組の中に、もう一つの「影の組織」が産声を上げた。
表向きは剣の腕を頼みとする武闘派集団。しかし、その水面下では、俺の現代知識と、山崎の情報分析能力、そして斎藤の実働部隊としての力が融合した、独自の諜報網が静かに、だが着実に、京の街に張り巡らされていくことになる。
池田屋事件という、歴史の転換点に向けて。
俺は、まだ誰も知らない未来の戦場で勝利を掴むため、新たな武器を手に入れたのだ。それは、刃のついていない、だがどんな刀よりも鋭く敵を切り裂くことができる、「情報」という名の武器だった。
主人公は、監察方の山崎烝に、新たな諜報組織の設立を提案します。
それは、市井の協力者から得た情報の断片を集め、分析し、敵の計画を事前に察知するという壮大な構想です。
彼の提案に、山崎は強い興味を示します。
武力ではなく知力で戦う「影の組織」。新選組の未来を左右する計画が、静かに始動します。




