第39話:孤立の策
芹沢派の悪行の証拠を集めた主人公は、次なる策として「孤立の策」を実行します。
それは、物理的な証拠ではなく、彼らの心に疑心暗鬼という楔を打ち込むことでした。
主人公は、芹沢派の悪行と金の流れを記した書状を作成し、関係者全員に送りつけます。
この陰湿で悪辣な謀略は、彼らを内側から崩壊させるための罠でした。
※10/20 一部に時空のゆがみが発生していたため、改稿しました。電話口って(笑)。
いえっ、何でもありませぬ!
俺たちが「見えざる刃」を放ってから、数日が過ぎた。
京の街は、表向きには何事もなかったかのように、いつも通りの喧騒に包まれている。だが、水面下では、俺が仕掛けた毒が、確実に獲物の体を蝕み始めていた。
屯所の一室。俺と土方さんの前には、山崎さんと斎藤さんから集められた報告書の山が築かれていた。そこには、およそ人の所業とは思えぬ、芹沢派による悪行の数々が、生々しい筆致で綴られていた。
「島原の角屋にて、芸妓に酒を強要し、抵抗した番頭を斬殺。死体は店の裏に遺棄」
「呉服商の加賀屋に押し入り、主人の娘を人質に金品を強奪。その額、百両」
「祇園の路上にて、些細なことで町人と口論になり、一方的に斬りつける。被害者は現在も意識不明の重体」
斎藤さんが集めた被害者たちの証言は、どれもこれも、怒りを通り越して、もはや冷たい絶望感すら覚えさせるものだった。土方さんは、報告書の一枚一枚に目を通すたびに、苦虫を噛み潰したような顔で、奥歯をギリリと鳴らしている。
「……これだけ証拠が揃えば、もう十分だろう。すぐにでも会津藩の公用方に突き出して、お上からの沙汰を待つべきだ」
土方さんの言うことはもっともだ。ここに書かれている罪状は、一つだけでも打ち首になってもおかしくないものばかりだ。だが、俺は静かに首を横に振った。
「いえ、土方さん。まだです。これでは、芹沢局長と、せいぜい新見副長を断罪できるだけ。平山や平間といった、手足となって動いている連中までは届かない。奴らはきっと、『局長の命令でやったことだ』と責任を逃れ、蜥蜴の尻尾切りのように生き残るでしょう」
「……では、どうする。これ以上の証拠を集めるのは、時間もかかるし、奴らに感づかれる危険も増すぞ」
「物証は、もう十分です」
俺は、報告書の山を指差した。
「ここからは、物理的な証拠ではなく、『心理的な証拠』を積み上げていきます。奴らの心の中に、疑心暗鬼という名の楔を打ち込むんです」
俺の言葉に、土方さんは怪訝な顔をした。俺は構わず、懐から数枚の和紙と筆を取り出した。
「次の策は、『孤立の策』です」
俺は、これからやろうとしていることを、土方さんに簡潔に説明した。それは、剣客である彼らの発想には、おそらく決して浮かぶことのない、陰湿で、そして悪辣な謀略だった。
前世で培ったスキルが、今、この幕末の京で、最も忌むべき形で花開こうとしていた。俺は、山崎さんと斎藤さんが集めた情報を、一つの書状にまとめ上げていく。それは、単なる悪行の羅列ではなかった。
まず、芹沢派の金の流れを、金の出どころである商家、金の管理者である新見錦、そして金の使用者である芹沢鴨、平山五郎、平間重助といった隊士たちの名前を明記した上で、図式化して見せた。次に、彼らが犯した数々の乱暴狼藉を、日時、場所、被害者の名前と共に、客観的な事実として淡々と列挙していく。感情的な言葉は一切使わない。だからこそ、その事実の羅列は、読む者の心に、じわりと広がる恐怖を植え付けるのだ。
そして、書状の最後を、こう締めくくった。
『――以上の事実は、すでに会津藩公用方の知るところとなっている。壬生浪士組に対する会津藩の信頼は失墜し、近々、支援は完全に打ち切られる見込みである。そうなれば、壬生浪士組は解散。隊士たちは、庇護者を失ったただの浪人に逆戻りするであろう。会津藩は、特に芹沢派と目される者、及び彼らに資金を提供した商家に対し、厳しい沙汰を下すことを検討している。身の振り方は、各自、賢明なる判断をされたし』
「……永倉。お前、本当に武士か?」
俺が書き上げた書状を読んだ土方さんが、呆れたような、それでいてどこか感心したような声で呟いた。
「こんなもんを送りつけられたら、誰だって肝を冷やす。特に、自分の名前が書かれている者は、気が気じゃないだろうな」
「ええ。人は、自分だけは助かりたいと思う生き物です。特に、やましいことがある人間ほど、その思いは強い」
俺は、自嘲気味に笑った。やっていることのえげつなさは、自分が一番よく分かっている。だが、これも全て、未来のためだ。近藤先生を、土方さんを、そして、本来ならこの先の戦いで死んでいくはずの仲間たちを守るためなのだ。俺は、心の中でそう自分に言い聞かせた。
「山崎さん」
「はっ」
いつの間にか部屋の隅に控えていた山崎さんに、俺は書き上げた書状の束を渡した。
「これを、あなたの配下を使って、今夜中に、ここに名前が挙がっている芹沢派の隊士全員と、支援者の商家に、匿名で届けてください。誰が、どこから届けたのか、絶対に悟られないように」
「……承知いたしました」
山崎さんは、書状の内容を一瞥すると、表情一つ変えずに深く頷き、闇に溶けるように姿を消した。プロフェッショナル、という言葉が、俺の脳裏をよぎる。
その夜、京の街に、数十通の「見えざる刃」が、再び放たれた。
呉服商「菱屋」の主人、善兵衛が、その書状を受け取ったのは、店の戸締まりを終え、ようやく一息つこうとしていた時だった。店の格子の隙間から差し込まれた、一通の封書。差出人の名前はない。
不審に思いながらも封を切った善兵衛は、その内容に目を通すうちに、みるみる顔色を失っていった。そこには、自分がいつ、どこで、芹沢鴨にいくら金を渡したかが、正確に記されていたのだ。そして、その行為が、会津藩に対する「不忠」と見なされる可能性があるという、恫喝めいた警告。
「ひ、ひぃ……!」
善兵衛の喉から、みっともない悲鳴が漏れた。これまで、芹沢の暴力に怯え、言われるがままに金を差し出してきた。それが、まさかお家取り潰しに繋がりかねない事態になるとは、夢にも思わなかった。
彼は、慌てて他の商家に連絡を取るため、使いを走らせた。ほどなくして、同じように芹沢に金を渡していた米問屋「堺屋」の主人が血相を変えて駆け込んできた。彼の手にも、全く同じ内容の書状が握られており、二人は顔を見合わせて震え上がった。
「こ、このままでは、我々まで共倒れだ……!」
「も、もう芹沢様への支援は、一切打ち切るべきです!」
「だが、それを知られたら、何をされるか……!」
恐怖が、疑心暗鬼を呼ぶ。彼らは、互いに腹を探り合いながらも、一つの結論に達した。それは、「芹沢鴨から手を引く」という、自己保身のための冷徹な判断だった。
一方、壬生浪士組の屯所でも、静かなパニックが広がっていた。
「おい、平山! てめえ、この書状を読んだか!」
屯所の一室に、新見錦の怒声が響き渡った。彼の前には、平山五郎と平間重助が、青い顔で座っている。彼らの手にも、同じ書状が握られていた。
「に、新見先生こそ……。これは一体、誰の仕業ですかい?」
平山が、震える声で問い返す。彼の額には、脂汗がびっしりと浮かんでいた。書状に書かれた内容は、あまりにも正確だった。自分たちが犯してきた悪行の数々が、まるで見てきたかのように詳述されている。
「誰の仕業かなんて、どうでもいい! 問題は、この内容が会津藩に知れているということだ! 書状には、俺たちの金の流れまで正確に書かれてやがる。これは、内部の誰かが情報を漏らしたに違いねえ!」
新見は、猜疑心に満ちた目で、平山と平間を睨みつけた。
「おい、平山。てめえ、最近妙に羽振りがいいじゃねえか。まさか、俺たちを裏切って、会津藩に情報を売ったんじゃねえだろうな?」
「なっ……! 人聞きの悪いことを言わんでください! 俺は、芹沢先生に忠誠を誓ってる身ですぜ!」
「ほう、芹沢先生にか。俺に対してじゃねえんだな?」
新見の目が、危険な光を帯びる。芹沢派は、決して一枚岩ではない。筆頭局長である芹沢を頂点としながらも、その下では、新見錦を中心とする一派と、平山五郎ら古参の水戸派との間で、常に主導権争いが繰り広げられていた。
そこへ、俺が投じた一石。それは、彼らの間にあったわずかな亀裂を、一気に決定的な断絶へと変えるのに、十分すぎる威力を持っていた。
「このままじゃ、俺たちだけが罪を被せられて、打ち首だ……」
「芹沢先生は、本当に俺たちを守ってくれるのか……?」
「いや、いざとなったら、俺たちを切り捨てて、自分だけ助かろうとするんじゃ……」
恐怖と疑念が、伝染病のように彼らの心を蝕んでいく。かつて、芹沢鴨という絶対的な暴力の元に結束していたはずの組織は、今や内側から、音を立てて崩壊し始めていた。
その様子を、俺は土方さんと共に、物陰から静かに観察していた。山崎さんからの報告で、商家が手を引き、芹沢派の内部で不協和音が生じていることは知っていたが、現実は俺の想像以上だった。
「……見事なもんだな、永倉」
土方さんが、感嘆とも呆れともつかない声で言った。
「一滴の血も流さずに、あれだけ強固に見えた連中の仲を、ここまで内側から崩壊させるとはな。お前の頭の中は、一体どうなってるんだ」
「……ただ、俺は、皆に生きていて欲しいだけなんです」
俺の口から、思わず本音が漏れた。そうだ、俺がやっていることは、決して褒められたことじゃない。人を欺き、人の心の弱さにつけ込む、卑劣な策だ。その罪悪感は、鉛のように重く、俺の心にのしかかっている。
だが、それでも、俺はこの道を選ぶ。史実を知るがゆえに、神のような視点を持ってしまったことへの苦悩。誰を救い、誰を見捨てるか。その残酷な選択を、俺はこれからも続けていかなければならない。
俺は、酒を浴びるように飲み、何も知らずに高笑いしているであろう芹沢鴨の姿を思い浮かべた。彼の首にかかった見えざる刃は、もはや逃れることのできないところまで、深く食い込んでいる。
孤立の策は、成った。
残るは、最後の仕上げだけだ。俺は、迫り来る最終局面に備え、静かに覚悟を決めるのだった。
主人公が放った「見えざる刃」は、芹沢派とその支援者たちを着実に蝕んでいきました。
支援者たちは手を引き、芹沢派の内部では仲間割れが始まります。
恐怖と疑心暗鬼に駆られた彼らは、互いに責任をなすりつけ、醜い言い争いを繰り広げます。
主人公の狙い通り、鉄の結束を誇った芹沢派は、内側から静かに崩壊していくのでした。




