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第38話:見えざる刃

芹沢派の横暴を止めるため、主人公と土方は近藤局長に「局中法度」の制定を進言します。

仲間を罰することに躊躇する近藤を、土方は「組織を生かすための必要悪」と説得。

ついに近藤は覚悟を決めますが、それは主人公たちが清廉な魂を欺く、苦い戦いの始まりでもありました。

 翌朝の空気は、夜の間に降った雨のせいで、ひどく湿り気を帯びていた。俺と土方さんは、約束通り、近藤先生の部屋へと向かっていた。八木邸の長い廊下を歩きながら、俺たちの間には一言も会話はなかった。だが、その沈黙は決して気まずいものではなく、昨夜交わした密約の重さを共有する、共犯者だけが分かり合える濃密な空気に満ちていた。


 近藤先生の部屋は、質素だが、隅々まで掃き清められていた。床の間に掛けられた「誠」の一文字が、この部屋の主の清廉な人柄を雄弁に物語っている。俺と土方さんが入室し、その前に腰を下ろすと、近藤先生は穏やかな、しかしどこか全てを見透かすような目で俺たちを見つめた。


「して、二人揃って、改まって話とは何だ?」


 口火を切ったのは、土方さんだった。


「近藤先生。単刀直入に申し上げます。このままでは、壬生浪士組は内部から腐り落ちます」


 その言葉は、穏やかな朝の空気を切り裂くには、あまりにも鋭すぎた。近藤先生の眉が、わずかにぴくりと動く。


「……土方。言葉が過ぎるぞ」

「いいえ、事実です」


 土方さんは一歩も引かなかった。


「昨夜も、芹沢局長の供の者たちが島原で騒ぎを起こし、店の器物を壊した挙句、代金も払わずに帰ったと報告が上がっています。商家への押し込み、婦女子への乱暴。目に余る行状は、枚挙にいとまがありません。これでは、我々が何のために京へ来たのか分からない。会津藩の信頼を損ない、民の恨みを買うだけです」


 土方さんの言葉は、あくまで事実の列挙に留まっていた。決して、芹沢局長本人への直接的な批判は口にしない。それは、昨夜俺と交わした合意に基づくものだ。


 近藤先生は、黙ってその報告を聞いていた。その表情は、怒りとも、悲しみともつかない複雑な色を浮かべている。彼とて、芹沢派の横暴を知らないわけではない。だが、同じ浪士組の仲間として、そして局長として、彼らを強く断じることを躊躇しているのだ。その人の好さが、彼の最大の美徳であり、そして最大の弱点でもあった。


 ここで、俺はすっと前に進み出た。


「近藤先生。そこで、ご提案があります」

「……永倉か。申してみよ」

「『局中法度』を制定してはいかがでしょうか」


 俺の言葉に、近藤先生だけでなく、土方さんもわずかに目を見開いた。法度の草案を作るとは言ったが、その名称までは決めていなかったからだ。


「局中法度……」

「はい。浪士組の隊士たる者、守るべき規範を明確に定め、それに背いた者は、たとえ幹部であろうと厳しく罰する。そのための法度です」


 俺は、すかさず懐から一晩かけて書き上げた草案を取り出した。


「第一条、士道に背きまじきこと。第二条、局を脱するを許さず。第三条、勝手に金策いたすべからず。第四条、勝手に訴訟を取り扱うべからず。第五条、私の闘争を許さず。右の条々に背く者は、切腹を申し付くるものとする――」


 史実において新選組の根幹を成した、あの有名な法度。それを、俺は一字一句、力強く読み上げた。これは単なる規則ではない。組織という名の剣に、「正義」という魂を込めるための儀式だ。


「……切腹、だと?」


 近藤先生が息を呑む。彼の理想とする組織は、こんな血なまぐさい掟で縛られるものではないはずだ。


「近藤先生。法とは、人を縛るためだけにあるのではありません。弱い者を守り、組織という家を守るための柱です。明確な規範があれば、隊士たちも自らの行動を律するでしょう。そして何より、我々が私利私欲で動く無法者の集団ではなく、会津藩の支配下にある公明正大な組織であることを、世に示すことができます」

「しかし、仲間同士で斬り合えと言うのか……。それは、武士の道に悖るのではないか」


 近藤先生の葛藤が、痛いほど伝わってくる。彼の言うことも、一つの正論だ。だが、その理想論が、芹沢という劇薬の前では無力であることも、また事実だった。


「甘っちょろいことを言ってる場合じゃありませんぜ、近藤先生」


 土方さんが、地を這うような声で言った。


「腐った指をそのままにしておけば、いずれ腕ごと落ちる。そうなる前に、膿は出し切らねえと。これは、組織を生かすための、必要悪です」


 必要悪、という言葉が、近藤先生の胸に突き刺さったようだった。彼はしばらくの間、目を閉じ、何かを振り払うかのように、大きく息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開くと、その瞳には、覚悟の色が宿っていた。


「……分かった。そこまで言うのなら、その『局中法度』とやら、制定しよう。草案の細かい詰めは、土方と永倉、お前たちに任せる」

「「はっ!」」

「ただし」


 近藤先生は、俺たちの目を真っ直ぐに見据えた。


「この法度は、あくまで組織の規律を正すためのものだ。特定の誰かを陥れるための道具として使うことは、俺が許さん。いいな」


 その言葉は、俺の胸の奥に、鋭い棘のように突き刺さった。俺たちは、今まさに、この清廉な男を欺こうとしているのだ。だが、顔には出さず、俺は土方さんと共に、深く頭を下げた。


「御意」


 近藤先生の部屋を辞去すると、俺と土方さんは足早に屯所の裏手へと向かった。そこには、すでに二つの人影が、闇に溶け込むようにして待っていた。監察方の山崎烝と、三番隊組長の斎藤一だ。


「待たせたな」


 土方さんの声に、二人は静かに頭を下げた。彼らの前で、俺はもはや言葉を飾ることはしなかった。


「話は早い方がいい。これから、芹沢派の資金源を完全に断つ。そして、奴らの不正の証拠を一つ残らず洗い出す」


 俺は、昨夜土方さんに語った「血によらない粛清」の筋書きを、簡潔に、しかし具体的に説明した。豪商たちへの偽情報の流布、芹沢派の素行調査、そして証拠の収集。それは、剣の腕ではなく、知恵と情報だけを武器とする、静かな戦いの始まりだった。


「山崎さん」

「はっ」

「あなたの配下を使って、堺屋と菱屋、その他芹沢局長に金を流している商家に、この噂を流してください。『会津藩が壬生浪士組の金の流れを内偵している。特に芹沢派と繋がりを持つ商家は、不忠の輩として目をつけられる恐れあり』と。噂は、店の奉公人や出入りの商人から、それとなく主人の耳に入るように仕向けるのが効果的でしょう」


 俺の具体的な指示に、山崎さんは表情一つ変えず、ただ「承知」と短く答えた。彼のその冷静さが、今は何よりも頼もしかった。


「斎藤さん」

「……」


 寡黙な剣客は、ただ静かに俺の目を見つめ返してくる。


「金の流れが止まれば、奴らは必ず焦り、さらに強引な手段に出る。そこが狙い目です。誰が、いつ、どこで、どんな乱暴を働いたか。被害者の具体的な証言を集めてください。ただし、決して表沙汰にはしないように。我々が動いていることを、芹沢派に悟られてはなりません」

「……分かった」


 斎藤もまた、短く応じた。その一言だけで、彼がこの作戦の危険性と重要性を完全に理解したことが分かった。


「これは、我々の手で芹沢局長を斬るための策ではありません。あくまで、会津藩に『公式な処分』を下させるための布石です。血は流さない。だが、そのためには、相手の喉元に、決して見えない刃を突きつけなければならない」


 俺の言葉に、その場にいた全員が、ゴクリと息を呑んだのが分かった。山崎も、斎藤も、そして土方さんでさえも、これから始まろうとしている戦いの、その陰湿さと悪質さに、改めて気づいたのだろう。


「行け」


 土方さんの低い声が響く。それを合図に、山崎と斎藤の姿が、すっと闇の中に消えた。まるで、初めからそこに誰もいなかったかのように。


 俺は、彼らが消えていった闇の先を見つめた。俺が放った「見えざる刃」が、今、静かに動き出したのだ。近藤先生を欺き、仲間を陥れる。その罪悪感が、鉛のように腹の底に溜まっていく。


 だが、後戻りはできない。


 こうして、壬生浪士組の内部で、誰にも知られることのないもう一つの戦いが始まった。血の匂いのしない、静かで、そしてより悪質な、情報という名の刃が振るわれる戦いが。その刃が、芹沢鴨という巨大な標的の首筋に届くのは、まだ少し先の話である。


近藤局長の許可を得た主人公は、監察方の山崎と斎藤一に、芹沢派の資金源を断ち、不正の証拠を集めるよう指示します。

剣ではなく情報を武器とする「見えざる刃」による、血を流さない粛清。

罪悪感を抱えながらも、静かで悪質な情報戦の火蓋が、今まさに切られようとしています。


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