第36話:亀裂の足音
芹沢派の横暴は日に日に悪化し、壬生浪士組内に不穏な空気が流れます。
主人公が山崎烝らを使い情報収集を進める中、ついに副長・新見錦が若手隊士に暴力を振るう事件が発生。
組織の亀裂が決定的となったこの事態に、主人公は大きな決断を下します。
俺が山崎烝と斎藤一という二つの情報網を組織内に張り巡らせてから、十日ほどが過ぎた。山崎からは定期的に芹沢派の動向が報告されるようになった。その内容は、俺の懸念が杞憂などではなく、厳しい現実であることを雄弁に物語っていた。
「――以上が、この三日間の芹沢局長および新見副長の動向です。島原の角屋、祇園の一力亭での遊興費は、いずれも堺屋などの豪商持ち。また、昨晩は高倉通りの呉服商『越後屋』に押し入り、強引に金子を融通させた、と」
八木邸の自室で、山崎は帳面に記した内容を淡々と読み上げる。その声には感情がこもっていないが、報告される事実の一つ一つが、壬生浪士組という組織の根幹を蝕む毒素そのものだった。
「ご苦労、山崎。引き続き頼む。金の流れは絶対に絶やすな。金の出入りこそが、奴らの生命線であり、同時に俺たちの首を絞める縄にもなる」
「御意」
山崎が音もなく部屋を辞去した後、俺は深くため息をついた。芹沢鴨の乱暴狼藉は、史実通り、いや、それ以上に悪化しているように思える。問題は、その威光を笠に着て増長する者たちの存在だ。特に、副長という地位にありながら、その器量を全く持ち合わせていない男、新見錦の存在は、組織内に明確な亀裂を生み出していた。
新見は、水戸出身というだけで芹沢に取り入り、その虎の威を借りて尊大に振る舞う典型的な小物だった。剣の腕は試衛館の面々と比べれば数段落ちる。にもかかわらず、副長という肩書を振りかざし、特に試衛館から参加した若手の隊士たちに対して、理不尽な威圧を繰り返していた。
その日の昼下がり、屯所の庭先で事件は起きた。
「おい、貴様!今の挨拶は何だ!声が小さい!」
甲高い声で怒鳴ったのは、案の定、新見だった。彼の前には、試衛館の門人だった若い隊士が、顔を青くして直立不動の姿勢を取っている。まだ元服したばかりの、快活な少年だ。
「も、申し訳ありません!新見副長!」
「口答えをするな!この試衛館上がりの田舎者が!貴様らは近藤局長に甘やかされて、礼儀作法というものを知らんらしいな!俺が直々に教えてやる!」
そう言うが早いか、新見は腰に差した竹光の柄で、若手隊士の肩を思い切り殴りつけた。鈍い音と共に、隊士が苦痛の表情でうずくまる。
「ぐっ…!」
「なんだその目は!まだ反抗的だな!」
新見がさらに殴りかかろうとした、その時だった。
「そこまでにしやがれ、新見さん」
地を這うような低い声。声の主は、いつの間にか新見の背後に立っていた原田左之助だった。その手には槍が握られ、切っ先が新見の喉元すれすれに向けられている。原田の隣には、苦虫を噛み潰したような顔の藤堂平助も立っていた。
「…原田か。副長に向かって、その物言いは何だ。槍を仕舞え」
新見は一瞬怯んだものの、虚勢を張って言い返す。
「うるせえ。どう見てもてめえが一方的に因縁つけてるだけじゃねえか。隊士同士の私闘は法度のはずだぜ?」
「これは私闘ではない!上官による指導だ!」
「指導ぁ?殴ることが指導かよ。そんな指導、俺は試衛館で受けたこたねえな!」
一触即発。屯所内にいた他の隊士たちも、何事かと遠巻きに集まってくる。試衛館派の者たちは苦々しい顔で新見を睨みつけ、芹沢派の者たちはニヤニヤと嘲笑を浮かべている。組織の亀裂が、目に見える形で現れた瞬間だった。
「やめないか、皆!」
その場を収めたのは、道場から駆けつけてきた近藤さんの、腹の底から響くような大喝だった。その場にいる全員の視線が、鬼の形相をした近藤さんに集まる。
「みっともないぞ!我々は会津藩お預かりの身、京の治安を守るという大任を拝命した身だ!その我々が、仲間内でいがみ合ってどうする!」
近藤さんはそう言うと、まず原田に向かって静かに言った。
「左之助、槍を仕舞え。お前の気持ちは分かる。だが、上官に刃を向けるのは、組織の規律を乱す行いだ」
「しかし、近藤先生!」
「仕舞えと言っている」
有無を言わさぬ近藤さんの気迫に、原田はちっと舌打ちをしながらも、不承不承、槍を引いた。次に近藤さんは、うずくまっている隊士に手を貸して立たせると、新見に向き直り、深々と頭を下げた。
「新見殿、うちの者が大変失礼をいたしました。この通り、近藤がお詫びいたします。どうか、ご寛恕いただきたい」
その光景に、俺は奥歯を噛み締めた。違う、近藤さん。あんたが頭を下げる場面じゃない。ここで頭を下げてしまえば、奴らはさらに増長するだけだ。正義がどこにあるのか、なぜあんたには分からないんだ。
案の定、新見は満足げに鼻を鳴らした。
「ふん。局長直々のお詫びとあらば、今回は許してやろう。だが、次はないぞ。試衛館の連中を、もっと厳しく躾けておくことだな」
そう言い残して、新見は勝ち誇ったようにその場を去っていった。残されたのは、重苦しい沈黙だけだった。
その夜、試衛館派の隊士たちが集まる部屋は、まるで通夜のような雰囲気に包まれていた。誰もが押し黙り、怒りと無力感をその表情に浮かべている。
「…納得がいかねえ。なんで近藤先生は、あんな奴に頭を下げるんだ」
最初に沈黙を破ったのは、原田だった。
「新見の野郎、最近じゃやりたい放題じゃねえか。このままじゃ、俺たちの士気に関わるぜ」
「だが、近藤先生のお気持ちも分かる。今はまだ、芹沢さんたちの力も借りなければ、浪士組は成り立たない。内輪揉めは避けたいんだろう」
沖田さんがそう言って皆をなだめようとするが、その声にもいつものような明るさはない。彼の表情にも、近藤さんへの共感と、現状へのやるせなさが入り混じっている。
これが、近藤勇という男の限界だった。彼は情に厚く、仲間を家族のように思う。だからこそ、組織が二つに割れることを極端に恐れる。彼の理想は「和を以て貴しとなす」。しかし、その理想は、現実の醜さの前ではあまりにも無力だった。
(このままではダメだ。組織は必ず内側から腐り落ちる)
官僚時代、俺は数多くの組織の栄枯盛衰を見てきた。コンプライアンスを無視した一部の部署の暴走を、見て見ぬふりをした結果、組織全体が社会的な信頼を失い、崩壊していく様を。今の壬生浪士組は、まさにその初期症状を呈していた。
近藤さんの「和」は、馴れ合いの温床となり、腐敗を隠す隠れ蓑になりかねない。必要なのは、理想論ではない。組織を律する、冷徹な「法」と「規律」だ。
そして、この事件は、その「法」を組織に根付かせるための絶好の機会だった。
俺は静かに立ち上がると、部屋を出て、土方さんの部屋へと向かった。障子を開けると、土方さんは一人、苦虫を百匹は噛み潰したような顔で、黙って刀の手入れをしていた。その瞳には、昼間の光景に対する怒りの炎が静かに燃えている。
「…永倉か。お前も、今日のあれを見て、思うところがあるんだろう」
「ええ。ですが、土方さん。ただ怒りに任せて新見を斬り捨てても、何も解決しません。それは奴らと同じ、ただの暴力です」
俺の言葉に、土方さんは手を止め、顔を上げた。
「じゃあ、どうしろって言うんだ。近藤さんみたいに、ヘコヘコ頭を下げて耐えろってのか」
「いいえ、違います」
俺は土方さんの正面に座ると、声を潜めて言った。
「我々は、奴らを『法』で追い詰めるんです。今回の事件、目撃者は大勢います。山崎が集めている芹沢派の悪行の証拠もあります。これらをまとめ、会津藩に提出するんです」
「会津藩に…?」
「はい。我々が訴えるのは、新見個人の問題ではありません。壬生浪士組という組織の規律が、一部の者によって乱されているという『組織の問題』として提起するのです。そして、この問題を解決するために、明確な『局中法度』の制定を近藤局長に進言する。隊士同士の私闘の禁止、上官への理不尽な反抗の禁止、そして、上官による理不尽な暴力の禁止。違反した者は、たとえ局長や副長であろうと、厳しく罰せられる、と」
俺の提案に、土方さんの目が鋭く光った。彼は、俺の意図を正確に理解したようだった。
「…なるほどな。喧嘩両成敗、というわけか。新見の暴力を罰すると同時に、原田が槍を向けたことも規律違反として咎める。そうすることで、どちらか一方に与するのではなく、あくまで組織の『規律』を確立するという大義名分が立つ」
「その通りです。感情で動けば、ただの内輪揉めです。ですが、『法』で動けば、それは組織を健全化するための改革になる。近藤先生も、組織のための改革という形であれば、反対はしないはずです」
土方さんは、しばらく腕を組んで黙り込んでいたが、やがてフッと口元に獰猛な笑みを浮かべた。それは、獲物を見つけた狼の笑みだった。
「…面白い。気に入ったぜ、永倉。お前のその、蛇みてえな知恵は、こういう時にこそ役に立つ。よし、その話、乗った。早速、証拠固めと、法度の草案作りを始めるぞ」
外では、まだ若手隊士たちの不満げな声が聞こえてくる。組織に走った亀裂は、まだ浅い。だが、放置すれば、いずれ修復不可能な断絶となるだろう。
俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ。敵は、京に潜む尊攘浪士だけではない。俺たちの内側に巣食う、この腐敗そのものだ。俺は、静かに闘志を燃やしていた。この亀裂を、俺と土方さんの手で、新たな組織の礎へと変えてみせる、と。
近藤局長の対応に限界を感じた主人公は、土方副長に策を進言します。
それは暴力ではなく「法」の力で芹沢派を追い詰め、組織に規律を打ち立てるというものでした。
この冷徹な策略を土方が受け入れたことで、二人はついに組織の腐敗と戦うための狼煙を上げます。




