第34話:壬生の狼、誕生
清河八郎と決別し京に残った浪士たち。
しかし、彼らは幕府から見放された脱走兵も同然です。
生き残りをかけ会津藩に提出した嘆願書は、果たして藩主・松平容保に届くのでしょうか。
緊張の中、運命の沙汰を待つ彼らのもとに、ついに会津からの使者が現れます。
会津藩からの沙汰を待つ日々は、生殺しの苦しみにも似ていた。俺たちが壬生の八木邸で謹慎を始めてから、三日が過ぎようとしていた。
「まだか!会津の連中は、我らをいつまで待たせる気だ!」
苛立ちを隠そうともせず、芹沢鴨が荒々しく酒を呷る。彼の周りには新見錦をはじめとする水戸派の者たちが集まり、その場の空気をさらに重くしていた。無理もない。我々は今や、幕府の命令系統から外れた脱走兵。会津藩に見捨てられれば、待っているのは討伐か、あるいは浪士として路頭に迷うだけの未来だ。俺の立てた策が、本当に受け入れられるのか。その保証はどこにもない。
「芹沢先生、お気持ちは分かりますが、今は耐える時です。会津公も、軽々しく決断はできますまい」
近藤先生が、穏やかながらも芯の通った声でなだめる。試衛館の仲間たちは、彼の周りで静かにその時を待っていた。二つの派閥は、同じ屋根の下にありながら、決して交わることのない水と油のように、見えない境界線で隔てられている。
俺は、そんな光景から少し離れた縁側で、一人庭を眺めていた。冷静を装ってはいるが、内心では張り裂けそうなほどの緊張に苛まれていた。俺の未来、そしてここにいる仲間たちの未来、その全てが、俺の書いた数枚の紙に懸かっている。官僚時代、国家の命運を左右するような政策決定の場に何度も立ち会ってきたが、これほどまでに胃の痛むプレッシャーは初めてだった。自分の命が直接かかっているのだから、当然か。
(頼む、通ってくれ…!)
俺が祈るような気持ちでいた、まさにその時だった。
◇
京都守護職屋敷、その奥まった一室で、会津藩主・松平容保は、家老から差し出された二つの書状を静かに見比べていた。一つは、近藤勇の名で書かれた謹厳実直な嘆願書。そしてもう一つは、清河八郎が朝廷に奉ったとされる建白書の写し。
「…面白い」
容保は、凛とした声でぽつりと呟いた。その顔は能面のように無表情だが、瞳の奥には確かな知性の光が宿っている。彼は、幕府の重鎮たちからその実直さと忠義心を高く評価される一方、その若さ故に侮られることも少なくない。だが、その本質は、冷徹なまでに現実を見据える為政者のそれだった。
「殿。嘆願書に書かれた内容は、俄かには信じがたいもの。浪士たちの口車に乗るは危険かと存じます」
側近の一人が、懸念を口にする。
「危険、か。確かにそうかもしれぬ。だが、この建白書が本物であれば、話は別だ」
容保は、建白書の写しを指し示す。そこには、幕府の開国是に真っ向から反する、過激な攘夷計画が記されていた。
「清河八郎という男、ただの尊攘家かと思えば、幕府を欺き、帝を担いで自らの野望を遂げんとする野心家であったか。近藤とやらの言う通り、奴の計画を未然に防いだというのなら、それは大手柄と言ってよい」
さらに、と容保は嘆願書に目を落とす。
「この嘆願書、理路整然として、実に見事な出来栄えだ。我らが人手不足に悩んでいることを見抜き、幕府の金で雇える実働部隊としての価値を説き、さらには『毒を以て毒を制す』という、我らが最も欲する役割まで提示してきおった。これを書いた者は、ただの剣客ではあるまい」
家老が、はっとしたように顔を上げた。
「はっ。代表として参った三人のうち、永倉新八と名乗る若者が、やけに弁の立つ男でございました。『我々は鞘から抜かれた刀。会津様が鞘となり、その使い方を誤らなければ、必ずやお力となる』と…」
「永倉新八…」
容保はその名を口の中で転がすと、ふっと口元を緩めた。
「面白い男がいたものだ。よかろう。彼らの願い、聞き届ける。近藤、芹沢とやらの忠義を認め、京に残った浪士たちを、我が会津藩の『お預かり』とする。清河一派の江戸帰還も、正式に認めよ。表向きは、将軍警護の先駆けとして、な。幕府の面子も立ててやらねばなるまい」
「殿!なれど、彼らは素性の知れぬ浪士の集まりにございますぞ!」
なおも食い下がる側近を、容保は冷ややかな一瞥で黙らせた。
「だから良いのだ。犬は、腹を空かせている方が、与えられた餌に忠実に働く。それに、あの永倉という男が書いた通り、使いこなせぬほどの猛犬ならば、処分するのは容易い。我らが手を汚すまでもなく、な」
その言葉には、忠義の士として知られる容保の、もう一つの顔が垣間見えた。彼は、ただのお人好しではない。自らの責務を果たすためならば、非情な決断を下すことも厭わない、冷徹な支配者なのだ。
「一同に伝えよ。名を『壬生浪士組』と改め、これより京の治安維持に励むべし、と」
壬生の狼が、産声を上げた瞬間だった。
◇
文久三年三月十日。八木邸の静寂は、門前に現れた一人の会津藩士によって破られた。
「京都守護職様より、お沙汰である!代表の者は、これへ!」
その声に、邸内にいた全員が息を呑んだ。芹沢も、近藤先生も、そして俺も、固唾を飲んでその場に駆けつける。心臓が、嫌な音を立てて脈打っていた。
使者は、我々代表三人を前に、一枚の書状を広げ、厳かに読み上げ始めた。
「…清河八郎一派の江戸帰還、これを認める。京に残りし一同の忠義、天晴なり。よって、京都守護職たる会津中将様、直々のお預かりとする。一同、今後『壬生浪士組』と名乗り、京の治安維持に励むべし!」
その言葉が終わった瞬間、誰からともなく、うおおっ、という歓声が上がった。安堵のあまり、その場にへたり込む者もいる。試衛館の仲間も、水戸派の連中も、派閥の垣根を越えて肩を叩き合い、喜びを分かち合っていた。
俺は、大きく息を吐き出した。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪える。
(…やった。繋がった…!)
その夜は、ささやかな酒宴が開かれた。会津藩から支給された酒と肴を前に、誰もが未来への希望を語り、笑い合った。そんな中、俺は土方さんに手招きされ、近藤先生のいる部屋へと向かった。
「永倉君、此度のこと、まこと見事であった」
部屋に入るなり、近藤先生が深々と頭を下げた。
「君がいなければ、我々は今頃どうなっていたか…。感謝の言葉もない」
「よせやい、近藤さん。しゃっちょこばるんじゃねえよ。」
隣にいた土方さんが、少し照れくさそうに言う。
「だが、永倉。お前には、俺も近藤さんも、とんでもない借りを作っちまったな。お前のあの嘆願書がなけりゃ、俺たちはただの脱藩浪士として、路頭に迷うか、悪くすりゃ討伐されてた。この通りだ」
普段は決して他人に弱みを見せない土方さんが、真っ直ぐに俺を見て、頭を下げた。
「やめてください、二人とも!俺は、ただ死にたくなかっただけです。生き延びるために、必死で知恵を絞った。それだけですよ」
俺は慌てて二人を制する。その言葉は、紛れもない本心だった。
「その『知恵』が、我々全員を救ったのだ」
近藤先生は、感慨深げに頷くと、居住まいを正した。
「会津藩より、壬生浪士組の役職について内示があった。局長は、私と、芹沢先生。副長に、新見君。そして、副長助勤として、土方君、山南君、沖田君、…そして、永倉君、君にも就いてもらう」
「俺が、副長助勤…?」
予想外の言葉に、俺は目を見開いた。
「当然だ」と土方さんが断言する。「今回の最大の功労者は、お前だ。本当なら、副長に据えたいぐらいだが、芹沢の連中との兼ね合いもある。だが、実質的な組織の運営は、俺たちでやっていく。そのためにも、お前の知恵は絶対に必要だ」
近藤先生と土方さんの、絶対的な信頼を込めた視線が、俺に突き刺さる。今は遠い前世、上司や同僚から信頼されることはあっても、それはあくまで組織の歯車として、だった。だが、今、二人が俺に向けているのは、一個の人間に対する、命を預けるに値する仲間としての信頼だ。胸の奥が、熱くなるのを感じた。
(ああ、そうか。俺は、この人たちを死なせたくないんだ)
史実を知るがゆえの傍観者でいようとした自分が、いつの間にか、この時代の人間として、仲間として、彼らの未来を本気で案じていることに気づかされた。
「…分かりました。この永倉新八、微力ながら、お二人のお力になります。この壬生浪士組を、日本最強の組織にしてみせます」
俺の言葉に、近藤先生は力強く頷き、土方さんは不敵な笑みを浮かべた。
壬生の狼たちが、京の闇へと駆け出すまで、あとわずか。俺の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
主人公の策が功を奏し、浪士組は会津藩お預かりの「壬生浪士組」として正式に認められました。
副長助勤に任命された主人公は、もはや傍観者ではありません。
近藤や土方と共に、最強の組織を作り上げることを誓うのでした。
壬生の狼たちの伝説が、今始まります。




