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第31話:呉越同舟

清河八郎と決別し、京に残る道を選んだ試衛館派。

しかし、浪士組の主導権を握るには力が足りません。

土方歳三は、もう一つの派閥の長である芹沢鴨と手を組むことを提案します。

粗暴で知られる芹沢を説得するため、主人公は清河の裏切りを暴く証拠と、会津藩の庇護下に入るという大胆な策を携え、近藤勇らと共に芹沢のもとへ向かいます。

 近藤先生が決断を下したことで、我々試衛館派が進むべき道は定まった。だが、それは新たな茨の道の始まりに過ぎない。清河八郎という巨大な存在に反旗を翻し、浪士組の主導権を握る。そのためには、我々だけの力ではあまりに心許なかった。


「やはり、芹沢と手を組むしかあるまい」


 前川邸の一室。夜が明け、障子越しに差し込む朝日が、部屋の空気を白々と照らし出していた。重々しく口を開いたのは、土方歳三だった。その視線の先には、腕を組み、静かに目を閉じる近藤先生の姿がある。


「芹沢鴨、ですか…」

 俺は思わず呟いた。水戸天狗党出身の、あの男。神道無念流の免許皆伝であり、学識も豊かだと聞くが、その一方で、酒癖の悪さと粗暴な振る舞いで、浪士組の中でも札付きの存在として知られている。彼の周りには、新見錦をはじめとする同郷の者たちが集まり、試衛館派とは別の、浪士組内における一大派閥を形成していた。


「好むと好まざるとに関わらず、だ」と土方は続けた。「浪士組の中で、清河に対抗しうる力を持つのは、我々と芹沢一派しかいない。他の連中は、清河の口車に乗せられた烏合の衆だ。我々が京に残るという大義を掲げたところで、清河に江戸帰還を命じられれば、ほとんどがそちらに流れるだろう」


 土方の言う通りだった。清河の影響力は絶大だ。彼に対抗するには、数と、そして浪士たちを黙らせるだけの「格」が必要になる。芹沢鴨という男は、その両方を兼ね備えていた。


「しかし、あの男が我々の話に素直に耳を貸すでしょうか」

 俺の懸念に、近藤先生がゆっくりと目を開いた。その瞳には、昨夜の動揺の色はなく、既に覚悟を決めた者の静かな光が宿っていた。

「貸さねばならん。我々が掴んだ『事実』を突きつければ、いかにあの男とて、己の利を考えぬはずはない。永倉、土方。行くぞ。話は、直接会ってつける」


 芹沢一派が宿舎としている八木邸は、前川邸から目と鼻の先にあった。我々三人が門前に立つと、中から現れたのは、芹沢の腹心である新見錦だった。彼は我々を一瞥すると、値踏みするような目で鼻を鳴らした。


「これはこれは、試衛館の先生方。揃いも揃って、一体どのようなご用件で?」

 その態度は、明らかに我々を格下と見ている者のそれだった。土方の眉がぴくりと動いたが、近藤先生がそれを無言で制す。

「芹沢殿にお会いしたい。浪士組の今後について、重要な話がある」

「重要な話、ですと?芹沢先生はご多忙でしてな。あなた方のような田舎剣術の方々と、お話しする時間があるかどうか」


 新見の嫌味な口上に、俺の背後で土方の殺気が膨れ上がるのを感じる。だが、ここで事を荒立てるのは得策ではない。

「清河八郎が企む、横浜焼き討ち計画についての話だ、と芹沢殿にお伝えいただければ、ご多忙の芹沢殿も、時間を割いてくださるのではないかな」

 俺が冷静に、しかしはっきりとそう告げると、新見の顔から嘲りの色がすっと消えた。彼は一瞬、驚きに目を見開いた後、慌てて屋敷の奥へと姿を消した。


 やがて、我々は八木邸の奥座敷へと通された。上座には、大柄な男が胡坐をかき、悠然と酒を呷っている。ぎらぎらと光る眼、日に焼けた浅黒い肌。傲岸不遜という言葉をそのまま体現したようなその男こそ、芹沢鴨だった。彼の脇には、先ほどの新見が控えている。


「試衛館の近藤、それに土方と…永倉か。何の用だ。俺は貴様ら百姓上がりの剣客と、馴れ合うつもりはないぞ」

 開口一番、芹沢はそう言ってのけた。その声には、隠そうともしない侮蔑が満ちている。


「単刀直入に言おう、芹沢殿」

 近藤先生は、その挑発に乗ることなく、堂々とした態度で口火を切った。

「我々は、清河八郎と袂を分かち、この京に残る。貴殿らも、我々と行動を共にしてもらいたい」

 その言葉に、芹沢は大きな口を開けて笑い出した。腹の底から響くような、豪快な笑い声だった。


「はっはっは!面白い冗談を言う!貴様らこそ、清河の忠実な犬ではなかったのか?それが今更、京に残るだと?どうせ、清河に何か言われて、俺を試しに来たのだろう」

「我々は本気だ」

 土方が、低い声で応じる。

「清河は、我々を駒として使い捨てるつもりだ。そのために、我々を京まで連れてきた」

「ほう、面白い。その根拠は?」

 芹沢は、面白そうに目を細め、酒を一口呷った。


 ここで、俺は前に進み出た。

「根拠は、これです」

 俺は懐から、石坂の部屋から持ち出した建白書の草案を取り出し、芹沢の前に差し出した。

「清河が朝廷に提出しようとしている建白書の写し。我々が独自に手に入れたものです」


 芹沢は、胡乱うろんげな顔でその紙片を手に取った。隣の新見も、興味深そうにそれを覗き込む。そして、そこに記された文面に目を通すうちに、芹沢の顔から笑みが消え、険しいものへと変わっていった。


「…江戸へ帰還し、幕府に攘夷の断行を迫る…横浜焼き討ち…だと?」

 芹沢の声には、もはや嘲りの色はない。代わりに、驚きと、そして隠しきれない怒りが滲んでいた。

「…この紙は、本物か?」

「疑うのであれば、ご自身でお確かめになればよろしい。ですが、我々がこのような手の込んだ嘘をついて、此方に何の得がありましょう」

 俺の言葉に、芹沢はぐっと押し黙った。彼は、この建白書が真実であることを、その鋭い勘で理解したのだろう。水戸学の信奉者である彼にとって、幕府への忠誠は絶対だ。清河の計画は、彼の信条とは相容れない、許しがたい暴挙に他ならなかった。


「…清河の奴、そこまで腐っていたか」

 吐き捨てるように言うと、芹沢は紙片を畳に置いた。

「だが、仮にこれが真実だとして、京に残ってどうするというのだ。将軍警護という浪士組結成の目的そのものが、江戸へ帰還する。我々だけが残れば、ただの脱走浪士だ。それこそ、幕府から追われる身となるのが関の山ではないか」


 それは、かつて近藤先生が抱いたのと同じ懸念だった。芹沢もまた、京に残るという発想はあっても、その具体的な方策を欠いていたのだ。

 俺は、この瞬間を待っていた。


「そこに、我々の策があります」

 俺は、芹沢の目をまっすぐに見据えて言った。

「我々は、ただ京に残るのではありません。京都守護職・会津藩の庇護下に入るのです」

「会津藩だと!?」

 芹沢だけでなく、新見も驚きの声を上げた。


「今の京は、尊攘派の浪士どもが天誅と称して人斬りを繰り返し、無法地帯と化しています。幕府の威信は地に落ち、治安回復は急務。その任を負うのが、京都守護職たる会津松平家です。しかし、会津藩一藩の力だけでは、この広大な京の治安を守ることは不可能。彼らは、腕の立つ、組織化された実行部隊を喉から手が出るほど欲しているはずです」


 俺は、かつて近藤先生と土方を説得した時と同じように、淀みなく言葉を紡いだ。官僚時代に培ったプレゼンテーション能力が、今、この場で最大限に活かされている。


「我々試衛館も、そして芹沢殿が率いる水戸派も、個々の腕はもとより、集団として動ける統率力を持っています。これは、他の寄せ集めの浪士にはない強みです。我々が一つにまとまり、この『治安維持能力』という価値を会津藩に提示すれば、彼らが我々を無下に扱うことはないでしょう。我々は、『脱走浪士』ではなく、『会津藩預かりの、幕府公認の治安維持部隊』として、この京で大義の剣を振るうことができるのです」


 俺の言葉に、芹沢は腕を組み、深く考え込んでいた。その表情は真剣そのもので、もはや我々を侮る様子は微塵もなかった。彼は、俺が提示した策の持つ意味と、その実現可能性を、冷静に分析しているのだ。


 しばらくの沈黙の後、芹沢はゆっくりと顔を上げた。

「…面白い。実に面白い策だ、永倉とやら」

 その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。

「貴様、ただの剣客ではないな。その知恵、その先見性…気に入った」


 彼は、側に控えていた新見に目配せすると、立ち上がった。

「よかろう。その話、乗った。清河の首を獲り、京の都を我らの手で平定する。そのためならば、一時的に貴様らと手を組んでやるのも悪くない」


 呉越同舟。敵対する者同士が、共通の目的のために一時的に協力する。まさに、今の我々と芹沢一派の関係を表す言葉だった。


「ただし、勘違いするな」

 芹沢は、俺たちの目の前に立つと、威圧するように言い放った。

「あくまで、利害が一致したまでのこと。どちらが上か、いずれはっきりさせる時が来るだろう。それまでは、せいぜい俺の役に立ってもらうぞ」


 その言葉は、彼のプライドの表れだった。だが、それでいい。今は、それで十分だ。

 近藤先生が、静かに、しかし力強く応じた。

「無論だ、芹沢殿。我らの目的は一つ。この京に、『誠』の旗を立てることだ」


 二人の指導者の視線が、火花を散らすように交錯する。

 水と油。百姓上がりの剣客集団と、水戸出身の学識ある武士。決して交わることのないはずだった二つの流れが、俺という異分子の存在によって、今、一つの大きな奔流となろうとしていた。


 この危険な同盟が、吉と出るか、凶と出るか。それは、まだ誰にも分からない。だが、歴史の歯車は、確かに新たな方向へと、大きく、そして重々しく軋みながら、回り始めたのだった。


主人公が提示した会津藩の後ろ盾を得るという策は、芹沢鴨の心を動かしました。

水と油の関係である試衛館派と芹沢派は、「呉越同舟」の危険な同盟を結びます。

目的はただ一つ、京に「誠」の旗を立てること。

後に新選組となる組織の、まさに産声が上がった瞬間です。

対立しながらも、彼らは共に京の治安維持という大義のために歩み始めます。

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― 新着の感想 ―
此処で初めて芹沢一派に話を通すんですね… まあ、宿場で火事騒ぎ起こしてその縁でよりは 判り易いかな…(士分特有の傲慢さ含め)
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