第3話:生き残るための最適解
永倉新八としての運命を知った主人公。
だが彼は、仲間を見殺しにして自分だけが生き残る未来を「地獄」と断じ、歴史に抗うことを決意します。
官僚時代の知識を総動員し、新選組、ひいては幕府をも救うという壮大な計画を立案。
すべては、仲間と共に生き残るために。彼の挑戦が今、静かに幕を開けます。
夜の闇は、思考を深くする。
俺は雑魚寝部屋の布団の中で、天井の染みを睨みつけながら、己の運命を反芻していた。
永倉新八。
史実における彼は、新選組最強の剣客の一人でありながら、鳥羽・伏見の戦いの後に組織と袂を分かち、靖兵隊を結成。その後も戦い続け、そして、生き残った。明治、大正と天寿を全うし、多くの仲間たちの墓標をその胸に抱き続けた男。
「生存者」――その響きは、一見すると幸運に聞こえる。だが、その裏側にある無数の死を、俺は知っている。
脳内の『詳説日本史研究』が、無慈悲にその事実を突きつけてくる。
芹沢鴨の暗殺。
山南敬助の切腹。
伊東甲子太郎の暗殺と、御陵衛士の粛清。
藤堂平助の死。
井上源三郎の戦死。
沖田総司の病死。
近藤勇の斬首。
土方歳三の戦死。
彼らの名前、その死に様が、参考書の無機質な活字となって脳裏に浮かび、俺の心を苛む。共に道場で汗を流し、同じ釜の飯を食った名もなき兄弟子たちの中にも、いずれ京で命を落とす者がいるのかもしれない。
(ただ生き残るだけ?冗談じゃない……)
仲間たちが次々と死んでいくのを横目に、自分だけが史実通りに生き延びる。そんな未来は、もはや俺にとって「生存」ではなく「地獄」だ。霞が関で培った俺の精神は、そんな非効率で後味の悪い結末を到底許容できない。
リスク管理の基本は、最悪の事態を想定し、それを回避するための策を講じることだ。俺にとっての最悪の事態は、仲間を失い、一人で生き残ること。ならば、回避すべき事態は「新選組の悲劇的な壊滅」。目指すべきは、組織と構成員の生存、そして勝利だ。
(だが、どうやって?)
俺は官僚だった。組織を動かし、予算を確保し、法を整備し、国を運営する。それが俺の専門分野だ。しかし、それはあくまで平時、法治国家日本での話。ここは幕末。法よりも力が支配する、混沌の時代だ。
俺の武器は、脳内の『詳説日本史研究』。未来の知識だ。
これを使えば、歴史に介入できる。
例えば、沖田総司。
彼の死因は肺結核。この時代の不治の病だ。俺にペニシリンを精製する知識も技術もない。だが、結核が「感染症」であること、安静と栄養、そして「衛生管理」が進行を遅らせる上で極めて重要であることは知っている。手洗いの徹底、消毒の概念、隔離、そしてバランスの取れた食事。それらを徹底させるだけで、彼の運命は変わるかもしれない。
例えば、兵站。
新選組は常に資金難に苦しんでいた。俺は経済官僚の端くれだった。複式簿記、予算管理、兵站の概念。渋沢栄一が日本の近代資本主義の父となる、その遥か手前の時代だ。俺の知識は、この時代の誰よりも進んでいる。組織の財政を健全化し、潤沢な資金で最新の装備を整え、隊士たちの待遇を改善する。それだけで、組織の士気と戦闘力は飛躍的に向上するはずだ。
例えば、戦術。
池田屋事件の鮮やかな奇襲。しかし、その後の鳥羽・伏見の戦いでは、旧態依然とした白兵戦に固執し、薩長の近代的なアームストロング砲の前に為すすべもなく敗れ去った。俺は、未来の戦争の歴史を知っている。散兵線の重要性、陣地構築、火力集中、そして情報戦。武田観柳斎が説く甲州流軍学など、俺の知識の前では子供の遊びに等しい。
(やれる……。やりようは、いくらでもある……!)
思考が加速する。問題点を洗い出し、解決策を立案し、実行計画を立てる。霞が関で嫌というほど繰り返してきたPDCAサイクルが、脳内で高速回転していく。
新選組を、単なる剣客集団から、近代的な軍事・警察組織へと変貌させる。
財政基盤を確立し、最新の兵器を揃え、兵站を維持する。
未来の知識を活かした情報戦で、敵の陰謀を未然に防ぐ。
朝廷、幕府、諸藩の力関係を読み解き、最適な政治的立ち回りを演出する。
そして、最終的には――
(徳川幕府を、薩長に滅ぼされる旧体制ではなく、自らの手で近代国家へと生まれ変わらせる……!)
そこまで思考が至った時、俺は我に返って自嘲した。
壮大すぎる。あまりに壮大すぎる計画だ。今の俺は、ただの食客。道場に居候させてもらっている、ただの剣術使いに過ぎない。
「おい、永倉。お前、最近の軍学についてどう思う?」
「永倉、この国の財政を立て直すにはどうすればいい?」
そんなことを誰かに話したところで、頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。信頼も実績もない若造の戯言など、誰も聞きはしない。
(発言権……。そうだ、まずは発言権を得なければ)
この時代、この場所で、最も雄弁なものは何か。
金か?家柄か?違う。
力だ。
特に、これから俺が身を投じるであろう新選組という組織において、その傾向は顕著になる。理屈や家柄ではない。どれだけ剣の腕が立つか。どれだけ敵を斬れるか。その一点が、男の価値を決める。
史実の永倉新八は、沖田総司、斎藤一と並び、最強の剣客と謳われた。その剣があったからこそ、彼は二番隊組長となり、組織の中核を担う存在となったのだ。
(最適解は、決まったな)
俺は、ゆっくりと上体を起こした。
やるべきことは、ただ一つ。
まずは、史実の永倉新八をも超える、圧倒的な「最強」の称号を手に入れること。
誰にも文句を言わせない、絶対的な剣の腕を磨き上げること。
それが、俺の壮大な計画の第一歩だ。
幸い、この肉体には、神が与えたとしか思えないほどの才能が眠っている。俺の意思とは別に、体が正しい動きを覚えている。あとは、俺の「意識」が、この肉体のポテンシャルを100%、いや、120%引き出すだけだ。
官僚として培った分析能力と、未来の知識を、剣の修行に応用する。
人体の構造、筋肉の動き、効率的なトレーニング方法。相手の動きを予測し、弱点を突くための確率論的思考。
(面白い……。実に面白いじゃないか)
絶望の淵から見出した、確かな光明。
俺の心は、もはや恐怖には支配されていなかった。代わりに、武者震いにも似た、静かな興奮が全身を駆け巡っていた。
夜明けを告げる一番鶏の声が、遠くで聞こえた。
俺は音を立てずに布団を抜け出し、稽古着に身を包む。まだ誰も起きてこない、薄暗い道場へ。
ひやりとした板の間の感触が、足の裏に心地よい。
俺は壁に立てかけてあった木刀を手に取り、ゆっくりと正眼に構えた。
これまでは、ただ流されるままに振っていた木刀。
だが、今は違う。
一振り、一振りに、明確な目的がある。
近藤さんを、土方さんを、沖田くんを、死なせないために。
名もなき仲間たちを、犬死にさせないために。
そして、俺が、俺たち全員で、笑って未来を迎えるために。
ズンッ、と。
夜明け前の静寂を切り裂き、俺の木刀が空気を打つ。
その一振りは、これまでとは比較にならないほど、重く、鋭く、そして速かった。
俺の官僚としての頭脳と、永倉新八の肉体が、初めて完全に一つになった瞬間だった。
「生き残るための最適解」。
それは、まず俺自身が、誰よりも「強く」なること。
俺は、ただひたすらに、木刀を振り続けた。
夜が完全に明け、道場に朝日が差し込むまで、その手は止まることがなかった。
これは、未来を変えるための、長い戦いの始まりだった。
第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。仲間を救うため、歴史そのものに挑むことを決意した主人公。
彼の導き出した「最適解」は、まず誰にも文句を言わせない圧倒的な「力」――剣の腕を手に入れること。
壮大な計画の第一歩は、地道で過酷な鍛錬から。次回、彼の剣が覚醒する(?)。ご期待ください。