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第29話:潜入と証拠

土方歳三から密命を受けた永倉新八。

彼は清河八郎の真の目的を探るため、危険を顧みず敵の懐へ潜入します。

持ち前の度胸と人懐っこさを武器に、酒を酌み交わし、稽古に汗を流す日々。

しかし、その裏では常に冷静な計算が働いていました。

孤独なスパイ活動の末、永倉はついに決定的な証拠へとたどり着きます。

 土方歳三から密命を受けた翌日から、俺の日常は一変した。

 これまでは試衛館の仲間たち、つまり近藤先生や土方さん、沖田、斎藤といった面々と行動を共にすることがほとんどだった。稽古も、食事も、酒を飲むのも、常に気心の知れた仲間内だった。だが、その輪から、俺は自ら一歩を踏み出した。

 土方の「目」となり「耳」となる。その役目を果たすには、影の中からでは見えないもの、聞こえないものがある。獲物の懐に飛び込んでこそ、その心臓の音を聞くことができるのだ。


 俺がまず向かったのは、八木邸の道場ではなく、新徳寺の境内だった。そこは、清河八郎と思想を同じくする、出羽や水戸出身の浪士たちが宿舎としており、彼らの溜まり場となっていた。

 俺が一人で顔を出すと、酒盛りをしていた数人の浪士たちが、訝しげな視線を向けてきた。


「よう。試衛館の永倉じゃねえか。旦那方とはぐれたのか?」


 皮肉めいた口調で話しかけてきたのは、確か水戸出身の男だった。俺は、にかりと人の良い笑みを浮かべてみせる。これは、近藤先生の笑顔を参考にした、俺なりの処世術だ。


「はぐれただなんて人聞きの悪い。たまには違う流派の方々と手合わせしたり、酒でも酌み交わしたりして、見聞を広めたいと思いましてね」


 そう言って、俺は近くにあった酒樽から柄杓でなみなみと酒を汲み、一番大きな盃に注ぐと、一気にあおってみせた。

「ぷはぁっ!うめえ!京の酒は江戸とはまた違いますな!」

 豪快に笑ってみせると、彼らの警戒心がわずかに解けたのが分かった。剣術の世界は、実力がものを言う。そして、酒の席では、気風の良さがものを言う。俺は、神道無念流の免許皆伝という肩書と、この場の空気を読む現代人としてのスキルを、最大限に利用することにした。


「ほう、永倉殿はなかなかの飲みっぷりだ」

「剣の腕も立つと聞く。今度ぜひ一手指南願いたい」


 俺は、彼らの輪の中に腰を下ろすと、尊攘思想については全くの無知であるかのように振る舞った。彼らが熱っぽく語る「日の本のあるべき姿」や「夷狄を打ち払うべし」という主張に、大げさに感心し、相槌を打つ。


「なるほど!俺はただ、公方様をお守りすることしか考えていませんでした。ですが、公方様が尊んでおられる帝をお守りすることこそが、真の勤王なのですね!いやあ、目から鱗が落ちました!」


 俺のわざとらしい感嘆に、彼らは気を良くしたようだった。特に、清河に近いとされる中心人物の一人、石坂宗順という男が、満足げに頷いた。


「永倉殿は、素直な心の持ち主と見える。我らが師、清河先生のお考えに触れれば、必ずや真の勤王の志士となられよう」

「ぜひ、清河先生のお話を伺ってみたいものです!」


 俺は身を乗り出して見せた。内心では、冷え切った計算が働いている。彼らは、純粋なのだ。純粋に、この国の未来を憂い、清河八郎という男が示す未来を信じている。その純粋さこそが、俺が潜り込むべき隙だった。

 官僚時代、俺は数々の陳情や要望を受けてきた。相手が何を求め、何を信じているのかを正確に把握し、共感するふりをしながら、こちらの望む方向へ誘導する。そんな交渉術が、今、この幕末の京で、スパイ活動という形で役立つとは皮肉なものだ。


 それから数日間、俺は昼は清河派の浪士たちと稽古に汗を流し、夜は酒を酌み交わすという生活を続けた。試衛館の仲間たちからは、「新八も隅に置けないな」「すっかり向こう側に取り込まれたか」などと揶揄されたが、土方さんだけは何も言わず、ただ夜の闇の中で俺とすれ違う際に、目線だけで「首尾はどうか」と問いかけてくるだけだった。


 潜入は、順調に進んでいた。

 酒の席で、彼らの口から断片的な情報が漏れ始める。

「我らの真の目的は、こんなところで燻っていることではない」

「清河先生は、我らを率いて、江戸へ帰還なさるおつもりだ」

「そのためには、帝からのお墨付きが必要になる…」


 やはり、土方さんの推測通りだ。将軍警護は、江戸の幕閣を欺き、俺たちのような腕の立つ浪士を京に集めるための方便。真の目的は、この浪士組という「兵力」を背景に、朝廷から攘夷実行の勅命を引き出し、それを錦の御旗として江戸へ凱旋すること。それは、事実上の幕府に対するクーデターに他ならない。


 だが、憶測や伝聞だけでは、証拠として弱い。近藤先生のような、清河を信じ切っている人間を説得するには、動かぬ物証が必要だ。土方さんも、それを求めているはずだ。

 ターゲットは、彼らが朝廷に提出するという「建白書」。その存在を突き止め、写しでもいい、手に入れなければならない。


 チャンスは、ある雨の夜に訪れた。

 その日、八木邸の清河の部屋には、石坂ら中心的な浪士たちが集まり、何やら密談を交わしていた。障子に映る人影は真剣そのもので、時折、清河の鋭い声が漏れ聞こえてくる。間違いなく、例の建白書について最終的な打ち合わせをしているのだろう。

 俺は、前川邸の自室で息を潜め、その時を待った。仲間たちのいびきだけが響く中、神経を極限まで研ぎ澄ませる。


 密談が終わったのは、丑の刻(午前二時)をとうに過ぎた頃だった。浪士たちがそれぞれの宿舎へ戻っていくのを見届けた俺は、音を立てぬよう寝床を抜け出し、雨に紛れて八木邸の裏手へと回った。

 狙いは、清河の部屋ではない。あそこは警戒が厳重すぎる。俺が狙うべきは、書記役を務めていたであろう、石坂の部屋だ。官僚組織では、どんな重要書類も、必ず複数の写しや草案が存在する。完璧な人間などいない。書き損じや不要になった下書きは、どこかに必ずあるはずだ。


 雨音が、俺の足音をかき消してくれる。闇に紛れ、石坂の部屋の障子にそっと近づいた。幸い、部屋の主は密談の疲れと酒で、ぐっすりと眠り込んでいるようだった。

 細心の注意を払い、音を立てずに障子をわずかに開ける。月明かりもない闇の中、鼻をつくのは墨の匂いと、紙の匂い。

 俺は、息を殺して室内に滑り込んだ。

 心臓が、警鐘のように激しく鳴り響く。ここで見つかれば、俺は「裏切り者」として、その場で斬り殺されるだろう。史実を知るアドバンテージなど、抜き身の刀の前では何の役にも立たない。


 部屋の中には、文机と、その脇に丸められた反故紙がいくつか無造作に捨てられていた。

 これだ。

 俺は、その反故紙の束に手を伸ばした。指先が、わずかに震える。

 一枚、また一枚と、闇の中で慎重に紙を広げていく。ほとんどは、ただの書き損じだった。だが、三枚目だっただろうか。そこに記されていたのは、まさしく俺が探し求めていたものだった。


『…浪士組、速やかに江戸へ帰還し、幕府に攘夷の断行を迫るべし。若し、幕府が逡巡するならば、浪士組は朝廷の兵として、横浜の異人館を焼き払い、天意を貫徹すべし…』


 過激な文言が、墨痕鮮やかに記されていた。これは、ただの建白書ではない。幕府への最後通牒であり、武装蜂起の計画書そのものだ。

 俺は、その紙を素早く畳むと、懐の奥深くへとしまい込んだ。

 これ以上の長居は危険だ。俺は、来た時と同じように、音もなく部屋を抜け出し、降りしきる雨の闇へと姿を消した。


 前川邸の自室に戻った俺は、布団に潜り込み、荒い息を必死に殺した。懐に収めた一枚の紙が、まるで燃えるように熱い。

 これは、清河八郎の野望の証拠。そして、浪士組の、いや、この国の未来を左右する、あまりに危険な火種だ。

 俺は、この火種を、どう扱うべきか。

 夜が明けるのを待ちながら、俺は土方歳三の、あの夜の鋭い目を思い出していた。光と影。


 俺は今、間違いなく、この京の深い影の中にいる。そして、この証拠を手に、次の一手を打たねばならない。


お読みいただき、ありがとうございます。

ついに清河のクーデター計画の証拠を手にした永倉。

しかし、それは浪士組の分裂、そして仲間との対立をも意味する危険な火種でした。

この動かぬ証拠を前に、土方と永倉はどう動くのか。

そして、清河を信じる近藤を説得することはできるのでしょうか。

次回、大きな決断が下されます。

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