第26話:上洛の号令
ついに訪れた上洛の機会に、試衛館の門弟たちは大きな熱狂に包まれます。
しかし、その首魁である清河八郎が掲げる檄文から、永倉新八は不穏なものを感じ取っていました。
熱狂に沸く仲間たちと、その裏に潜む思惑。
それぞれの想いが交錯する中、近藤勇は仲間たちと共に京へ向かうことを決意します。
日本の将来を左右する大きな時代のうねりが、彼らを飲み込もうとしていました。
幕府が浪士を召し抱える、という一報がもたらした熱狂は、数日が過ぎても試衛館から消えることはなかった。むしろ、その熱は日を追うごとに具体的な形を成し、道場全体をかつてないほどの活気で満たしていた。
「おい、差料の手入れは済んだか!」
「旅支度はなるべく身軽にしろと土方さんが言ってたぞ」
「京の冬は江戸より冷えると聞く。厚手の着物も用意せねばな」
門弟たちは、ある者は槍を磨き、ある者は具足を改め、またある者は旅籠の手配に駆け回り、それぞれが来るべき上洛に向けての準備に追われていた。その顔は誰もが高揚感に輝き、己の剣が天下のために振るわれる日を、今か今かと待ちわびているのが見て取れた。
この熱狂の中心にいるのは、言うまでもなく近藤先生だ。
「我らの誠、天に通ず! この好機を逃す手はない!」
彼は道場の真ん中で仁王立ちになり、その大きな瞳をぎらぎらと輝かせながら、門弟たちを鼓舞していた。その姿は、長年の夢が叶うことへの純粋な喜びに満ち溢れている。
その傍らで、土方さんが冷静に、しかし確かな熱を瞳に宿して、実務的な指示を飛ばしていた。旅程の確認、費用の算段、江戸に残る者たちへの引き継ぎ。彼の周りだけが、浮ついた空気を引き締め、来るべき闘争への緊張感を漂わせている。
「永倉さん! 見てください、この檄文を!」
俺が道場の隅で愛刀「播州住手柄山氏繁」の油を拭っていると、興奮した面持ちの沖田君が、一枚の刷り物を手に駆け寄ってきた。江戸市中にばら撒かれたという、浪士組の首魁、清河八郎による檄文だ。
「『――君恩に報い、国難に殉ずるは、武士の本懐。今こそ我ら草莽の志士、剣を手に取り、奸賊を討ち、聖天子をお守り申し上げるべし』……素晴らしい。まさに、俺たちの気持ちを代弁してくれているようです」
沖田君は、そこに書かれた勇ましい言葉の数々を、うっとりとした表情で読み上げる。その声に、周りにいた門弟たちも「そうだ、そうだ」と力強く頷いた。
だが、俺はその檄文を一読した瞬間から、そこに潜む強烈な違和感と、ある種の「臭さ」を感じ取っていた。
現代日本でエリート官僚として生きてきた俺にとって、この種のプロパガンダ文書は嫌というほど見てきた。美辞麗句を並べ立て、人々の感情を煽り、特定の方向へ誘導しようとする文章。清河八郎の檄文は、その典型だった。
(――「君恩に報い」の「君」は、将軍を指しているのか、それとも…)
檄文の随所に散りばめられた「尊王」「攘夷」の文字。それは明らかに、幕府よりも朝廷を上位に置き、幕府の開国政策を「弱腰」と断じる過激な思想の現れだ。将軍警護を謳いながら、その実、幕府の体制そのものを揺さぶろうとする意図が透けて見える。
史実を知る俺は、清河八郎という男の正体を知っている。
彼は北辰一刀流の達人であり、当代随一の学者でもあるが、その本性は幕府を倒し、天皇親政の世を実現しようと目論む、過激な尊王攘夷論者だ。この浪士組も、将軍警護などというのは真っ赤な嘘。彼が真に目指しているのは、幕府の金で江戸中の尊攘派浪士を京へ集め、朝廷の威光を背景にした、自分たちの私兵集団を組織することに他ならない。
「どうしたんです、永倉さん。浮かない顔をして」
俺の沈黙を訝しんだのか、沖田君が顔を覗き込んできた。彼の純粋な瞳が、俺の心の奥底を見透かそうとするかのように、まっすぐに注がれる。
「いや…。この清河という男、少しばかり言葉が立ちすぎていると思ってな。どうも、信用ならん」
「ええっ? どうしてです? こんなにも熱い志を持った方なのに」
「熱すぎるんだよ。こういう手合いは、自分の言葉に酔って、周りが見えなくなることがある」
俺の言葉に、沖田君は納得がいかないというように、少し唇を尖らせた。
無理もない。今の彼らにとって、清河八郎は、日陰の身であった自分たちを表舞台へと引き上げてくれる、救世主のような存在なのだから。
その時だった。
「永倉の言うことにも、一理あるかもしれん」
背後から聞こえてきた低い声に振り返ると、腕を組んだ土方さんが、厳しい目つきで俺たちのやり取りを見ていた。
「トシさん…」
「清河八郎の名は、俺も聞き及んでいる。千葉道場で塾頭まで務めた傑物だが、過激な尊攘思想の持ち主で、幕府の役人とも度々いざこざを起こしているという噂だ。確かに、手放しで信用できる男ではあるまい」
さすがは土方さんだ。彼は、近藤先生や他の門弟たちのように熱狂に浮かされることなく、冷静に状況を分析している。俺が感じた違和感を、彼もまた別の角度から感じ取っていたのだ。
「だがな、永倉」と土方さんは続けた。
「たとえ清河に裏があったとしても、この機を逃す手はない。幕府が公式に俺たちを認めたんだ。これ以上の好機がどこにある? 俺たちは、この浪士組という馬に乗る。そして、手綱を握るのは俺たちだ。清河の好きにはさせん」
その瞳には、野心と自信、そして何よりも近藤先生を天下に押し上げるという、固い決意が燃え盛っていた。
そうだ、この人はそういう人だった。常に最悪を想定し、その上で最善手を探す。決して感傷に流されず、目的のためならどんな手段も厭わない。その冷徹なまでの現実主義こそが、土方歳三という男の真骨頂だ。
俺は、土方さんの言葉に、静かに頷いた。
「…分かりました。俺も、異存はありません。ただ、あいつのことは、注意深く見ておくべきです」
「ああ、分かっている」
土方さんはそう言うと、俺の肩を一度だけ強く叩き、再び雑務の渦の中へと戻っていった。
俺の懸念は、払拭されたわけではない。むしろ、史実を知るがゆえの不安は、より一層、胸の内に深く根を張った。
だが、土方さんとの対話は、俺に一つの光明を与えてくれた。
俺は、一人ではない。
この試衛館には、土方歳三という、俺とは違う形で未来を見据えることができる男がいる。彼となら、あるいは。
数日後、試衛館の主要メンバーが、道場の一室に集められた。
近藤先生、土方さん、俺、沖田君、そして井上源三郎さん、山南敬助さん、原田左之助、藤堂平助。後に新選組の中核を担うことになる面々だ。
「皆、聞いてくれ」
上座に座った近藤先生が、改まった口調で切り出した。その表情は、いつになく真剣だ。
「我ら試衛館は、この度の浪士組募集に応じ、上洛することを決意した。これは、我らの、いや、日本の将来を左右する、千載一遇の好機である。ついては、皆にも、俺と共に京へ来てほしい。もちろん、これは強制ではない。江戸に残るという者も、無理強いはせん。だが、もし、俺と同じ志を持つ者がいるならば、この近藤勇に、命を預けてはくれまいか!」
近藤先生は、深々と頭を下げた。
その言葉に、反対する者など、この場には一人もいなかった。
「何を今更、水臭えじゃねえか、近藤さん!」
一番に声を上げたのは、原田だった。彼は豪快に笑いながら、腹に巻いたさらしを叩く。
「俺の槍は、とっくの昔にあんたに預けたつもりだぜ」
「私も、近藤先生と共にあらば、どこへでも」
山南さんが、柔和な笑みを浮かべて続く。
「当然です」と沖田君が言い、「もちろんです」と藤堂が頷く。井上さんも、無言のまま、しかし力強く首肯した。
皆の視線が、最後に俺へと集まる。
俺は、ゆっくりと立ち上がると、近藤先生の前に進み出て、片膝をついた。
「永倉新八、微力ながら、お供させていただきます。この剣、近藤先生のために」
俺の言葉に、近藤先生は顔を上げ、その目に涙を浮かべながら、力強く頷いた。
「おお…! 皆、ありがとう…!」
こうして、俺たちの運命は、大きく動き出した。
文久三年二月八日。
俺たち試衛館一同は、江戸の冬空の下、希望と野心、そして一抹の不安を胸に、西の都、京都へと旅立った。
その道中、俺は馬上で揺られながら、一人、思考を巡らせていた。
清河八郎の裏切りは、避けられない。
だが、その裏切りすらも、俺たちにとっては好機となりうる。史実では、ここで近藤先生が決断し、京に残留することで、会津藩預かりへの道が開けるのだ。
問題は、その過程で、いかにして味方の損害を最小限に抑え、主導権を握るかだ。
俺の闘いは、もう始まっている。
それは、剣の腕だけを競うものではない。情報と、策略と、そして政治の闘いだ。
俺は、鞘に収められた愛刀の柄を、強く握りしめた。
(やってやる。この手で、未来を掴み取ってやる)
遠くに見える富士の頂きが、冬の日差しを浴びて白く輝いていた。それはまるで、これから始まる俺たちの激動の日々を、静かに見守っているかのようだった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、ついに試衛館の面々が京へ旅立つ決意を固める重要な回でした。
清河八郎の真意を見抜きつつも、それすら利用しようとする土方歳三の慧眼が光ります。
未来を知る永倉にとって、彼の存在は心強い光となったことでしょう。
近藤先生への忠誠を誓い、固い絆で結ばれた仲間たち。
彼らの運命が、ここから大きく動き出します。次回もお楽しみに。




