第24話:芽生える信頼
沖田総司を襲う病魔。その運命に現代知識で抗う永倉は「健康増進計画」を発動する。
周囲の奇異な目をものともせず、彼の武器は剣ではなく料理の腕。
滋養満点の粥で天才剣士の命を救う、静かな闘いが今、始まる。
あの日、俺が半ば強引に沖田総司を休ませてから、数日が過ぎた。
試衛館の天才剣士が稽古に出てこないという異常事態は、しかし、意外なほどすんなりと日常に溶け込んでいた。それは間違いなく、近藤勇という絶対的な支柱の「永倉の言う通りにせよ」という一言があったからに他ならない。
俺の行動は、門弟たちの間である種の奇異な目で見られていることを自覚していた。
「永倉のやつ、沖田のことになると急に姑みたいになるな」
「まるで本当の病人扱いじゃないか」
そんな囁きが聞こえてこないでもない。だが、俺は意に介さなかった。彼らの命運を左右するこのプロジェクトにおいて、周囲の評判などという不確定要素は、考慮すべきパラメータにすら入らない。重要なのは、目標変数――すなわち沖田総司の延命――に対して、どれだけ有効な施策を打てるか、ただそれだけだ。
俺は官僚時代に培ったスキルを、今こそ最大限に活用していた。名付けて、「沖田総司健康増進計画」。
フェーズ1は、休息の確保。これは近藤先生の鶴の一声でクリアした。
そして現在、俺はフェーズ2、すなわち「栄養補給による免疫力向上施策」に着手していた。
「永倉殿、また厨ですかい。本当に好きですな」
厨で米を研いでいると、背後から井上源三郎さんが穏やかな声で話しかけてきた。俺は振り返らずに、作業を続けながら答える。
「ええ。体を動かした後の飯が一番の楽しみですから。それに、病人には滋養のあるものを食わせないと」
「病人、ねえ…。総司も、ここまでされると観念するしかあるまい」
井上さんは苦笑しながら、厨の隅に積まれた薪を整え始めた。彼の言葉には、俺の行動への揶揄と、それに対するある種の理解が入り混じっているように感じられた。
俺が作っているのは、卵と刻みネギを入れた粥だ。
この時代、病人食といえば重湯やお粥が定番だが、栄養価という点では心許ない。米だけの粥では、エネルギー源となる炭水化物は摂取できても、体を作るタンパク質や、抵抗力を高めるビタミンが決定的に不足する。
そこで卵だ。完全栄養食品とも呼ばれるこれは、病人の体力回復にはうってつけの食材だ。ネギに含まれるアリシンは殺菌作用や血行促進効果が期待でき、ビタミンも豊富。まさに、対「邪気」用の特効薬と言えた。
土鍋に昆布でとった出汁を張り、研いだ米を入れて火にかける。ふつふつと米が踊り始めたら火を弱め、焦げ付かないようにゆっくりと混ぜる。米が柔らかく花開いたら、溶き卵を細く回し入れ、最後に刻んだネギを散らす。醤油をほんの数滴垂らせば、食欲をそそる香りがふわりと立ち上った。
「よし、こんなものか」
我ながら完璧な出来栄えだ。官僚時代、多忙な中で唯一の趣味だった料理が、こんな形で役に立つとは皮肉なものだ。
俺は完成した粥を椀によそい、盆に乗せて沖田君の部屋へと向かった。
障子を開けると、彼は布団の上に上半身を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めていた。稽古着ではなく、簡素な寝間着姿の彼は、道場で見せる鋭い剣士の面影はなく、年の頃相応の少年に見える。
「沖田君、入るぞ。今日の昼餉だ」
「……永倉さん」
俺の姿を認めると、沖田君は少し気まずそうな顔をした。
「すみません、毎日毎日…。もう体もだいぶ楽になりましたから、明日からは稽古に…」
「却下だ」
俺は彼の言葉を、有無を言わさず遮った。盆を彼の枕元に置き、有無を言わせぬ口調で続ける。
「いいか、病というものは、治りかけが一番肝心なんだ。ここで無理をすれば、すぐに元に戻る。いや、前よりも悪くなることだってある。俺の立てた計画では、君が稽古に復帰するのは三日後。それまでは、体を休めて英気を養うのが君の仕事だ」
「け、計画…?」
ぽかんとする沖田君を尻目に、俺は粥の入った椀を彼に手渡した。
「さあ、冷めないうちに食え。特製だ」
「これは…粥、ですか。卵まで入っている…。こんな、俺だけ…」
彼は戸惑ったように、椀の中身と俺の顔を交互に見た。その気持ちは分からなくもない。誰もが等しく厳しい稽古に励み、同じ釜の飯を食うのが試衛館の流儀だ。一人だけ病人と認定され、特別な食事を与えられることに、彼は剣士としてのプライドを傷つけられているのかもしれない。
「いいから食え。これは命令だ」
「……近藤先生の、ですか?」
「いや、俺の、だ」
俺が真顔でそう言うと、沖田君はきょとんとした顔で目を丸くした。その表情がなんだかおかしくて、俺は思わず口元を緩めてしまう。
「なんだその顔は。いいか、これは投資だ。試衛館最強の剣士である君には、常に万全の状態でいてもらわなくては困る。いわば、君は試衛館にとっての最重要資産だ。その資産価値を維持するためのメンテナンス費用だと思え。費用対効果を考えれば、卵一個など安いものだ」
「とーし…? めんてなんす…?」
聞いたこともない言葉の連続に、彼の頭上にはてなマークが乱舞しているのが見えた。俺はわざとらしくため息をついてみせる。
「つまり、お前が元気でいてくれないと、俺が困るってことだ。分かったら、つべこべ言わずに食え。俺の自己満足に付き合え」
そう言ってやると、彼はしばらくの間、俺の顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「…永倉さんは、本当に面白い人だね」
そう呟くと、彼はゆっくりと椀に口をつけた。
一口、また一口と、熱い粥をふうふうと冷ましながら、静かに食べ進めていく。
「…おいしい、です」
「そうか」
「はい。なんだか、体が温かくなるみたいだ…」
その言葉に、俺は内心でガッツポーズをした。計画通りだ。
温かく、消化が良く、栄養のある食事。それは弱った体にとって、何よりの薬になる。
それから数日間、俺の「看病」は続いた。
粥だけでは飽きるだろうと、翌日には生姜をたっぷりすりおろした葛湯を、その次の日には、柔らかく煮込んだ鶏肉と大根の煮物を用意した。いずれも、俺が前世で風邪をひいたときに世話になったレシピの応用だ。
沖田君は、最初こそ戸惑いを見せていたものの、俺が毎日運んでくる食事を、文句も言わずに食べるようになった。そして、その顔色は日を追うごとに良くなり、あれほど続いていた咳も、いつしかほとんど聞こえなくなった。
計画開始から五日目の昼下がり。
俺が道場の縁側で愛刀の手入れをしていると、ひょっこりと沖田君が隣に座った。
「永倉さん」
「なんだ。もう起きてきていいのか」
「はい。おかげさまで、すっかり」
彼は日向に気持ちよさそうに目を細めながら、深呼吸をした。その横顔は、数日前の青白さが嘘のように、健康的な血色を取り戻している。
「本当に、ありがとうございました。永倉さんのおかげです」
「別に。俺がやりたくてやったことだ」
俺はぶっきらぼうに答えながら、布で刀身を拭う。照れ臭かった。誰かにここまで感謝されることなど、前世も含めて、そうそうあったことではない。
「でも、不思議です」
「何がだ」
「永倉さんは、どうしてあんなことを知っているんですか? 汗が冷えると邪気が入り込むとか、咳は体を守るためだとか…。それに、このお粥も。まるで、お医者様みたいだ」
核心を突く質問に、俺は一瞬、手を止めた。
さて、どう答えるか。転生者だと言うわけにもいくまい。
「…昔、少しだけ医学をかじったことがある。蘭方医の書物だがな。受け売りだよ」
「蘭方医…」
それは、半分本当で半分嘘だった。官僚時代、医療政策に関わった際に、基礎的な医学知識は嫌というほど頭に叩き込んだ。それが今、こんな形で生きている。
「永倉さんは、本当に物知りなんですね。剣の腕も立つし、掃除もするし、おまけに料理まで上手い」
沖田君は、心から感心したように言った。そして、少し悪戯っぽく笑う。
「なんだか、俺のお袋みたいだ」
「…失礼な。俺はまだ十八だぞ」
俺がじろりと睨むと、彼は「あはは」と子供のように声を立てて笑った。その屈託のない笑顔を見ていると、俺の胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
この笑顔を守りたい。
そのためなら、俺はなんだってしてやる。
史実では、彼は病に倒れ、志半ばでこの世を去る。
だが、それはまだ確定した未来ではない。俺がここにいる意味は、その定められた結末に抗うためにあるはずだ。
「永倉さんは、面白い人だね」
もう一度、彼はそう言った。
その言葉は、数日前の戸惑いが消え、純粋な好意と信頼の色を帯びていた。
俺たちの間に、確かに何かが芽生え始めていた。
それは、単なる試衛館の同門という関係性を超えた、もっと個人的で、特別な絆。
この小さな信頼の芽を、これから大きな樹木に育てていかなくてはならない。
俺は青く澄み渡った冬空を見上げながら、静かに決意を固める。沖田総司を救うという、この途方もない闘争の第一歩を、俺は今、確かに踏み出したのだ。
永倉の献身的な看病は、沖田の体を癒すだけでなく、二人の心に確かな信頼を芽生えさせた。
史実では病に倒れる沖田。
しかし、この小さな絆は、その未来を変える一歩となるのか。彼の「投資」がもたらす結末とは。
次回も、二人の関係にご注目ください。




