表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
227/229

第227話:和宮の祈り

決戦が迫る江戸から遠く離れた箱館で、静寛の帝こと和宮は一心不乱に祈りを捧げていた。

夫の家茂や新八たち将兵の無事を願い、不眠不休で祭壇に向かう。

第227話:和宮の祈り


 北の大地、箱館。

 五稜郭の中心に位置する旧箱館奉行所の建物は、今や「北の御所」としての機能を果たしていた。

 しかし、その一室は、絢爛豪華な御殿とは程遠い、静寂と冷厳さに包まれていた。


 女帝和宮は、祭壇の前に座していた。

 白木の床に敷かれた畳の上、彼女は白装束に身を包み、一心不乱に祈りを捧げている。

 窓の外には、初夏の北海道の澄んだ空が広がっているが、彼女の心は遠く離れた江戸の空の下にあった。


「……どうか、みなをお守りください」

 その声は、祈りというよりは、魂の叫びに近かった。

 彼女が即位してから、数ヶ月が経つ。

 その間、彼女は「女帝」として気丈に振る舞い、動揺する国民を鼓舞し続けてきた。

 だが、今この瞬間だけは、一人の女性に戻っていた。


 江戸では、今まさに、日本の未来を決する戦いが始まろうとしている。

 夫である徳川家茂――北海道共和国大統領は、自ら軍を率いて最前線に立っているはずだ。

 病弱だった彼が、命を削るようにして築き上げた新しい国。

 その存亡をかけた戦いに、彼自身が身を投じている。


「これ以上、誰も死なせないでください……」

 和宮の手の中で、数珠が微かな音を立てた。

 彼女の脳裏には、家茂の優しい笑顔と共に、多くの顔が浮かんでいた。

 新選組の土方歳三や永倉新八、そして兄・孝明天皇や彼女を慕って北の大地までついてきた多くの臣民たち。

 彼らは皆、彼女の名の下に戦っている。

 「静寛の帝」という旗印を守るために、血を流そうとしているのだ。


 その重圧は、計り知れないものだった。

 兄・孝明天皇の遺志を継ぎ、正統なる皇統を守るために即位した。

 それは自らが選んだ道であり、後悔はない。

 だが、その選択が、愛する人々を死地に追いやっているという事実に、彼女の心は引き裂かれそうだった。


「陛下……」

 控えの間から、側近の庭田嗣子が心配そうに声をかけた。

 手には、少し冷めた白湯の入った器がある。

「もう、三日三晩、お休みになっておられません。お体を壊されては、元も子もございません」

「……いいえ」

 和宮は、振り返ることなく答えた。

 その背中は、以前よりも一回り小さくなったように見える。

 だが、そこから立ち昇る気迫は、誰も寄せ付けないほど鋭く、そして悲痛だった。


「私は、祈ることしかできません。剣を取って戦うことも、大砲を撃つこともできません。だから……命を削ってでも、祈り続けなければならないのです」

 彼女は知っている。

 遠く離れた戦場では、彼女の祈りなど届かないかもしれない。

 砲弾が飛び交い、剣戟が響く修羅場において、祈りなど無力かもしれない。

 それでも、祈らずにはいられなかった。

 それが、彼女に残された唯一の戦いだったからだ。


「家茂様は、私のために戦ってくださっています。ならば、私も共に戦わねばなりません。この場所で、この祈りで」

 和宮は、祭壇に飾られた鏡を見つめた。

 そこに映る自分の顔は、やつれ、目の下には隈ができている。

 だが、その瞳だけは、かつてないほど強く輝いていた。

 それは、守られるだけの姫君の瞳ではない。

 国を背負い、愛する者を守ろうとする、母のような、そして女神のような強さを宿した瞳だった。


 夜が更け、五稜郭は深い闇に包まれていく。

 北風が窓を叩き、まるで戦場の叫び声のように響く。

 和宮の意識は、次第に遠のいていった。

 疲労と空腹で、現実感が薄れていく。


 その時、ふと、温かい風が頬を撫でたような気がした。

 閉め切った部屋の中で、風が吹くはずはない。

 だが、彼女は確かに感じた。

 懐かしい、花の香りを。


親子ちかこ

 声が聞こえた。

 耳ではなく、心に直接響くような声。

 それは、亡き兄・孝明天皇の声であり、同時に、遠く江戸にいる家茂の声のようにも聞こえた。


『信じなさい。我々の想いは、必ず届く』

 和宮の目から、涙が溢れ出した。

 それは、孤独と恐怖に耐えてきた心が、ふっと緩んだ瞬間の涙だった。

 私は一人ではない。

 兄が見守ってくれている。

 家茂と心が繋がっている。

 そして、多くの兵士たちが、私を信じてくれている。


「……はい」

 和宮は、涙を拭い、深く頭を下げた。

 震えは止まっていた。

 彼女の中に、静かな、しかし確固たる力が満ちていくのを感じた。

「嗣子」

「は、はい!」

 和宮の声に、嗣子が弾かれたように顔を上げた。

「白湯を、いただけますか」

「はい! 直ちに!」

 嗣子は涙ぐみながら、白湯を差し出した。

 和宮はそれを一口飲み、ほうっと息をついた。

 温かさが、冷え切った体に染み渡っていく。


「私は、待ちます。吉報を。そして、新しい時代の夜明けを」

 和宮は立ち上がり、窓の外を見つめた。

 東の空が、わずかに白み始めている。

 北の大地の夜明けは早い。

 そして、江戸の空もまた、今頃は明け始めているはずだ。


 彼女は、両手を胸の前で組み、最後の祈りを捧げた。

 それは、神仏への願いではない。

 戦場にいる全ての命への、慈愛に満ちたメッセージだった。


「ご武運を……家茂様。そして、永倉様、土方様……。必ず、生きて帰ってください。新しい日本で、またお会いしましょう」


 その時、五稜郭の空に、一羽の鳥が舞い上がった。

 朝日に照らされ、黄金色に輝くその姿は、まるで勝利を告げる使者のようだった。

 和宮は、その鳥を目で追いながら、静かに微笑んだ。

 彼女の戦いは、まだ終わらない。

 だが、彼女はもう迷わない。

 「静寛天皇」として、そして一人の愛する女性として、彼女は最後まで祈り、信じ続けるだろう。

 その祈りが、見えざる盾となり、剣となって、彼らを守ると信じて。


 遠く江戸の地で、運命の戦いが始まろうとしていた。

 その空に、和宮の祈りは確かに届いていたのかもしれない。

 朝焼けが、かつてないほど鮮烈な赤色に染まっていた。


極限の疲労の中、和宮は亡き兄・孝明天皇と遠く離れた家茂の温かい声を感じ取る。

見えない絆に支えられ、彼女は天皇としての重責と一人の女性としての愛を胸に再び前を向く。

夜明けと共に舞い上がった黄金の鳥は、新八たちが挑む決戦の勝利を予感させるかのようであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ