第226話:佐那との約束
決戦を翌朝に控えた夜、新八は本営を抜け出し単身で厳戒態勢の江戸市中へ潜入する。
向かう先は北辰一刀流の千葉道場。
そこには新八を静かに待つ一人の女性の姿があった。
新選組の仲間たちとの酒席を抜け出した俺は、一人、夜の闇に紛れて本営を後にした。
目指すは、神田お玉ヶ池。
北辰一刀流、千葉道場。
江戸の町は、戒厳令下にあるため、人通りは絶えていた。
時折、薩長軍の見回りの提灯が揺れるのが見えるだけだ。
だが、俺はこの町の地理を熟知している。
子供の頃から走り回った路地裏、屋根伝いの抜け道。
検問を巧みに避け、影から影へと移動する。
やがて、見慣れた門構えが見えてきた。
玄武館。
門は固く閉ざされているが、勝手口の鍵が開いていることは、事前の連絡で知っている。
俺は音もなく侵入し、静まり返った道場の廊下を進んだ。
床板が軋む音さえ懐かしい。
汗と埃の匂いが染み付いたこの場所は、新党無念流「撃剣館」や天然理心流「試衛館」と並ぶ、もうひとつの俺の原点だ。
奥の居室へと向かうと、障子の向こうに淡い灯りが見えた。
そして、影が一つ。
正座をして、静かに何かを待っているような影。
その凛とした姿勢だけで、誰だかわかる。
「……佐那」
俺は、小声で呼びかけた。
影が動いた。
障子が、静かに開く。
「新八さん……?」
そこにいたのは、千葉佐那だった。
質素な着物に身を包んでいるが、その美しさは変わらない。
つい先日、西郷さんを救出するために共に戦った時の、鬼神のような強さは鳴りを潜め、今はただ一人の女性としてそこにいた。
俺と共闘した彼女の薙刀の頼もしさは、今も鮮明に覚えている。
「入っても、いいか?」
「はい……どうぞ」
佐那に招き入れられ、俺は部屋に入った。
行灯の灯りが、彼女の横顔を照らし出す。
目元には、わずかに涙が光っていた。
「よく、ご無事で……」
佐那の声が震えている。
先日会ったばかりとはいえ、状況は刻一刻と悪化している。
俺がここに来ることは、命がけの行為だ。
もし見つかれば、俺だけでなく、千葉道場全体が処罰の対象になりかねない。
「ああ。約束したからな。必ず、決戦の前にもう一度来ると」
俺は、佐那の手を取った。
その手は、剣を握り続けた武家の女の手だ。
少し硬く、マメがある。だが、俺にとってはどんな絹よりも愛おしい手だ。
この手が、あの乱戦の中で俺の背中を守ってくれたのだ。
「明日は、いよいよだな」
俺は、単刀直入に言った。
甘い言葉を囁く時間は惜しかった。
今は、一分一秒でも早く、彼女と心を通わせ、そして未来のための確認をしなければならない。
「わかっております」
佐那は、真っ直ぐに俺を見つめ返した。
その瞳に、迷いはない。
先日の共闘で、俺たちの信頼関係はより強固なものになっていた。
「城内の手引きは、万全です。辰五郎親分たちが、手はず通りに門を開けます。火消しの衆も、町を守るために動いてくれます」
彼女の報告に、俺は深く頷いた。
この作戦は、佐那たちの協力なしには成立しなかった。
彼女が、江戸の町人たちをまとめ上げ、薩長軍の監視の目をかいくぐって準備を進めてくれたおかげで、俺たちは市街戦という最悪の事態を避けることができる。
新門辰五郎親分をはじめとする火消したち、そして江戸っ子たちの心意気が、この無謀な作戦を可能にしたのだ。
「ありがとう。君のおかげだ」
俺は、心からの感謝を伝えた。
彼女がいなければ、俺はただの侵略者になっていたかもしれない。
江戸を火の海にし、多くの罪なき人々を犠牲にして、勝利を掴んだとしても、それは本当の勝利とは言えない。
「私は……新八さんが信じる道を、信じましたから」
佐那は、恥ずかしそうに微笑んだ。
「あなたが作る新しい日本なら、きっと素晴らしい国になると。父も、兄も、そう言っていました」
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
千葉道場の皆も、俺を信じてくれている。
俺は、彼女を待たせ続けた。
京へ行き、北海道へ行き、長い年月を離れて過ごした。
それでも彼女は、俺を信じて待っていてくれた。
そして今、命がけで俺に協力してくれている。
もう、言葉はいらなかった。
俺は、佐那を強く抱きしめた。
彼女の温もりが、俺の不安や迷いを溶かしていく。
戦場の血生臭さも、指揮官としての重圧も、全てが消え去り、ただ一人の男としての俺がそこにいた。
先日の共闘では、背中合わせで戦った。
今は、正面から抱きしめ合っている。
この温もりこそが、俺が守りたかったものだ。
「佐那」
「はい」
「この戦いが終わったら……」
俺は、一度言葉を切った。
前世のくだらない知識が頭をよぎる。
これは、死亡フラグなんかじゃない。
未来への約束だ。
絶対に生きて帰るための、自分自身への誓いだ。
「祝言を挙げよう。もう、離さない」
佐那の体が、一瞬硬直した。
そして、次の瞬間、彼女は俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
今まで張り詰めていた糸が切れたように、感情が溢れ出していた。
武家の娘として、気丈に振る舞っていた彼女が、初めて見せた弱さだった。
「……はい。はい……っ! お待ちしております……ずっと、ずっと!」
俺は、彼女の髪を撫でながら、心に誓った。
絶対に勝つ。
そして、必ず生きて帰る。
この愛しい人を、悲しませないために。
新しい日本で、二人で生きていくために。
窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。
夜明けは近い。
新しい時代の幕開けが、すぐそこまで迫っていた。
「行かなくちゃな」
俺は、名残惜しさを振り切るように、体を離した。
「ご武運を」
佐那は、涙を拭い、凛とした表情で俺を見送った。
その姿は、まさに武家の妻となるにふさわしい強さと美しさを備えていた。
先日の戦いで見せた勇姿とはまた違う、静かな強さがそこにあった。
俺は、再び闇の中へと駆け出した。
足取りは軽い。
守るべきものが明確になった今、俺に迷いはなかった。
江戸を火の海にしないため、佐那や町火消したちが命がけで内部工作を進めていた。
彼女の献身に感謝し、新八は戦後の祝言を約束する。
死亡フラグという前世の知識を跳ね除け、絶対に生きて帰るという強い決意を胸に、新八は夜明けが迫る町を後にし、最後の戦場へと向かう。




