第224話:降伏勧告
新八たち北海道軍の包囲が続く江戸城の上空に、突如として異形の物体が浮かび上がった。
共和国の技術の結晶である熱気球から舞い散る無数の紙片は、飢えに苦しむ城内の将兵に大きな動揺をもたらす。
江戸の空に、奇妙な物体が浮かび上がった。
それは、巨大な布袋に熱気を孕ませた、熱気球であった。
北海道共和国が、蝦夷地の広大な原野を測量し、監視するために開発した技術の結晶である。
その気球が、今は江戸城の上空を静かに、そして不気味に漂っていた。
「おい、あれを見ろ! なんだあれは!」
城壁を守る薩長軍の兵士たちが、空を指差して騒ぎ始める。
彼らの多くは、気球など見たこともない。
空飛ぶ怪物か、あるいは異国の妖術か。
恐怖と好奇心が入り混じった視線が、上空の一点に注がれる。
気球のゴンドラには、共和国軍の兵士が乗っていた。
彼らは、眼下に広がる江戸城を見下ろしながら、手にした紙束を風に乗せて放った。
白い紙片が、雪のように舞い散る。
それは、風に煽られ、城内の至る所に降り注いだ。
「なんだ、これは……?」
一人の兵士が、足元に落ちた紙片を拾い上げる。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『徳川家茂より、城内の将兵に告ぐ』
兵士の手が震えた。
徳川家茂。かつての将軍であり、今は北海道共和国の大統領。
その名は、敵対する立場にあっても、依然として重い響きを持っていた。
『無益な血を流すな。投降すれば命は保証する。罪を問うのは首謀者のみである。
我らが目指すのは、徳川の復権にあらず。万民が安らかに暮らせる、新しい日本の建設である。
そのために、諸君の力が必要なのだ。
武器を捨てよ。そして、共に未来を創ろうではないか』
簡潔にして、力強い言葉。
それは、疲弊しきった兵士たちの心に、深く突き刺さった。
「命は……保証するだと?」
「おい、聞いたか? 罪を問うのは首謀者だけだってよ」
「俺たちは、助かるのか……?」
動揺が、波紋のように広がっていく。
食料も尽きかけ、水も不足している極限状態。
そこへもたらされた「救済」の言葉は、彼らにとって蜘蛛の糸のように見えた。
◇
城内の一室。
岩倉具視は、拾い上げられた檄文を握り潰し、床に叩きつけた。
「おのれ、徳川家茂! どこまでも小賢しい真似を……!」
その顔は、怒りで赤黒く歪んでいる。
公家特有の白塗りの化粧が、汗で醜く崩れていた。
周囲には、長州藩の過激派幹部たちが殺気立った様子で控えている。
「岩倉様、兵たちの動揺が広がっております。このままでは、脱走兵が相次ぐ恐れが……」
「ならん! 降伏など、断じてありえん!」
岩倉は叫んだ。
彼の目には、狂気にも似た光が宿っている。
彼は知っていた。もし降伏すれば、真っ先に処断されるのは自分であることを。
家茂の言う「首謀者」とは、他ならぬ自分のことなのだ。
「いいか、よく聞け! この檄文は、敵の謀略じゃ! 毒が塗ってあるかもしれん! 触るな! 読むな!
降伏を口にする者は、敵に通じた裏切り者とみなす! 即刻、斬り捨てよ!」
「はっ!」
長州の幹部たちが、抜刀して部屋を飛び出していく。
城内で、粛清の嵐が吹き荒れようとしていた。
◇
二の丸の広場。
数人の兵士が、檄文を手に集まっていた。
「どうする? 俺は、もう戦いたくねぇよ」
「ああ。田舎にはおっ母あも待ってるんだ。こんなところで死にたくねぇ」
「投降しよう。家茂公なら、嘘はつかねぇはずだ」
彼らがそう話し合っていた時だった。
背後から、鋭い声が飛んだ。
「貴様ら、何をしている!」
振り返ると、長州藩の隊長が、血走った目で立っていた。
その手には、抜き身の刀が握られている。
「た、隊長……これは……」
「敵の文を読んでおったな? 裏切り者め!」
問答無用。
一閃された刃が、兵士の首を刎ねた。
鮮血が舞い、悲鳴が上がる。
「ひっ……!」
「逃げるな! 逃げる者は全員斬る!」
隊長は、狂ったように刀を振り回し、逃げ惑う兵士たちを次々と斬り伏せていく。
地獄絵図であった。
味方が味方を殺す。
それは、戦争よりも遥かに醜悪で、救いのない光景だった。
その惨状を、少し離れた場所から見つめる男がいた。
西郷隆盛である。
彼は、じっと動かずにその光景を見ていた。
その大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……なんという、ことじゃ」
西郷の声は震えていた。
彼は、新しい日本を作るために戦ってきた。
腐敗した幕府を倒し、帝を中心とした強い国を作る。その理想のために、多くの血を流してきた。
だが、目の前にあるのは何だ。
権力にしがみつく者たちが、己の保身のために弱き者を虐殺している。
これが、俺たちが目指した維新なのか。
「違う……。こんなものは、維新じゃなか」
西郷の拳が、ギリギリと音を立てて握りしめられる。
彼は、懐から一枚の檄文を取り出した。
そこには、家茂の言葉が記されている。
『万民が安らかに暮らせる、新しい日本の建設』
その言葉は、かつて自分が夢見た理想そのものではないか。
敵であるはずの家茂の方が、よほど「日本」のことを考えているではないか。
「……一蔵どん」
西郷は、空を見上げた。
そこには、幼馴染であり、盟友であった男の顔が浮かぶ。
冷徹なリアリスト、大久保利通。
彼は今、この城の奥深くで、指揮を執っているはずだ。
岩倉と共に、この虐殺を黙認しているはずだ。
西郷は、決意を固めた。
迷いは消えた。
あるのは、武士としての、いや、人としての最後の矜持だけだ。
「もう、終わらせねばならん」
西郷は、ゆっくりと歩き出した。
その足取りは重いが、力強かった。
向かう先は、本丸。
大久保と岩倉がいる、司令部である。
◇
本丸御殿、大広間。
岩倉具視は、地図を前に喚き散らしていた。
「ここを死守せよ! 一歩も引くな! 援軍は必ず来る!」
来るはずのない援軍を口にして、虚勢を張る。
その姿は、哀れですらあった。
大久保利通は、その横で沈黙を守っていた。
彼の表情からは、感情が読み取れない。
だが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
そこへ、重い足音が響いてきた。
ドスン、ドスンと、床板を軋ませるような音。
部屋の空気が変わる。
「……誰じゃ!」
岩倉が振り返る。
そこに立っていたのは、西郷隆盛であった。
だが、いつもの西郷ではない。
その全身から発せられる気迫は、部屋中の空気を圧迫するほどに凄まじいものだった。
「西郷……」
大久保が、初めて口を開いた。
「吉之助さぁ。……いや、西郷どん。持ち場を離れて何事か」
「大久保殿」
西郷は、大久保を真っ直ぐに見据えた。
幼い頃から呼び合ってきた名ではなく、あえて他人のような呼び方をした。
「おいどんは、もうこれ以上、薩摩の若者たちを死なせるわけにはいかん」
「……何が言いたい」
「降伏じゃ。それしか、道はなか」
静かな、しかし断固とした口調だった。
岩倉が顔を真っ赤にして叫んだ。
「何を言うか! 西郷、貴様、気でも狂ったか! 降伏などすれば、我々は全員処刑じゃぞ!」
「処刑されるのは、おいどんたちだけでよか。兵たちには罪はなか」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 貴様も裏切り者か! 誰か、この男を捕らえよ!」
岩倉が喚くが、護衛の兵たちは動けない。
西郷の気迫に圧倒されているのだ。
西郷は、岩倉を一瞥もしなかった。
彼の視線は、ただ大久保だけに注がれている。
「大久保殿。おはんも、わかっとるはずじゃ。この戦に、もう大義はなか」
「……大義だと?」
大久保が、冷ややかな笑みを浮かべた。
「何度も言わせるな……大義など、勝った者が後から作るものだ。勝てば官軍、負ければ賊軍。それが歴史だ」
「それでも、人の道というものがある」
「人の道で国が作れるか! 吉之助! いつまで甘いことを繰り返す!」
大久保が激昂した。
「俺は、鬼になってもこの国を変える。そのためなら、泥も被るし、血も浴びる。お前のように、綺麗事だけで生きてはいけんのだ!」
二人の視線がぶつかり合う。
かつて、同じ夢を語り合った二人の魂が、激しく火花を散らす。
だが、その道は決定的に分かれてしまっていた。
西郷は、悲しげに目を伏せた。
「……そうか。なら、仕方なか」
西郷は、腰の刀に手を掛けた。
抜刀する気配。
室内に緊張が走る。
「おいどんが、おはんの目を覚まさせてやる」
「……やる気か、吉之助」
大久保もまた、刀に手を掛けた。
盟友同士の、最後の対話が始まろうとしていた。
その時、城外から轟音が響いた。
期限の時刻が迫っていることを告げる、威嚇射撃の音だ。
時間は、もう残されていない。
西郷は、覚悟を決めた顔で、一歩踏み出した。
「行くぞ、一蔵どん!」
◇
城外の北海道軍本営。
俺は、焦りを押し殺すように懐中時計を見つめていた。
期限まで、あと数時間。
城内からの返答は、まだない。
「……西郷さん」
俺は、祈るように呟いた。
あの檄文が、西郷の心に届いていることを信じて。
そして、彼が最悪の結末を回避してくれることを信じて。
家茂からの降伏勧告は、保身に走る岩倉や過激派を狂気に駆り立て、味方が味方を斬る地獄絵図を生み出した。
惨状を目の当たりにした西郷は、自らが求めた維新の理想が完全に崩れ去ったことを悟る。
大久保との決別、そしてすべてを終わらせるため、西郷は静かに歩みを進める。




