第221話:西郷の苦悩
新八たち北海道軍の猛攻と江戸市民の蜂起により、かつて官軍を名乗った薩長軍は窮地に立たされていた。
江戸城西の丸では、新政府軍の要である西郷隆盛が、自らの理想と現実の乖離に深く苦悩していた。
江戸城、西の丸。
かつて徳川将軍家が栄華を誇ったこの巨城は、今や薩長を中心とする「新政府軍」の本営となっていた。だが、城内を支配しているのは、勝利の凱歌ではなく、鉛のように重く、澱んだ空気であった。
執務室として使われている大広間で、西郷隆盛は一人、窓の外を見つめていた。
巨躯を揺るがすような深いため息が、その厚い胸板から漏れる。
窓の外には、雨に煙る江戸の町が広がっている。だが、西郷の目には、その景色がかつて見たものとは全く異なって映っていた。
あちこちから立ち上る黒煙。それは、昨日の市街戦――町火消や市民たちが、薩長軍に対して蜂起した際に生じたものだ。
本来ならば、自分たちが「官軍」として民を救い、新しい世を拓くはずであった。しかし、現実はどうだ。
民は、薩長を「賊」と呼び、石を投げ、鳶口を振るって抵抗している。
北海道から迫る旧幕府軍――いや、北海道共和国軍こそが、彼らにとっての希望の光となっているのだ。
「おいどんは……一体、何のために戦っとるんじゃ……」
西郷の呟きは、誰に届くこともなく、雨音にかき消された。
彼の脳裏には、京での日々、そして敬愛した主君・島津斉彬の顔が浮かんでいた。民を富ませ、国を強くする。そのための倒幕であったはずだ。
だが今、自分たちは民を苦しめ、江戸という日本の心臓部を破壊しようとしている。
英国公使パークスからは、連日のように矢のような催促が届いていた。「早く決着をつけろ」「アームストロング砲を使え」。異国の武器で同胞を殺し、異国の借金で戦を続ける。それが、斉彬公の望んだ「強き日本」なのか。
その時、荒々しい足音と共に、襖が勢いよく開かれた。
現れたのは、大久保利通である。
その双眸は血走り、頬はげっそりと削げ落ちているが、全身からは鬼気迫る殺気が立ち上っていた。
「吉之助! ここにおったか!」
大久保は、西郷の前に大股で歩み寄ると、卓を拳で叩いた。
「戦況は悪化の一途じゃ! 千住の防衛線が突破されるのも時間の問題じゃろう。榎本の艦隊は品川沖を封鎖し、補給も途絶えかけておる。このままでは、我らは袋の鼠じゃ!」
西郷は、ゆっくりと振り返り、盟友の顔を見た。
幼馴染であり、共に幾多の死線を潜り抜けてきた一蔵。その顔には、焦燥と狂気が張り付いている。
「一蔵どん……。民の声が聞こえるか。彼らは、我らを拒んでおる」
「民じゃと? その民が、昨日は我らの兵を襲ったのじゃぞ! 火消しごときに後れを取るなど、薩摩武士の恥じゃ!」
大久保は叫んだ。彼の論理では、新政府に従わぬ者はすべて「賊」であり、排除すべき対象でしかなかった。
彼は懐から一枚の地図を取り出し、卓上に広げた。それは江戸の市街図であり、所々に赤い墨で印がつけられている。
「吉之助、腹を括れ。勝つための策は、これしかない」
大久保の指が、地図の上を這う。
「江戸を焼く」
西郷の太い眉が、ピクリと跳ねた。
「……なんち言った」
「江戸市中に火を放つのじゃ。敵が市街地に入り込んだところを、四方から火攻めにする。混乱に乗じて、アームストロング砲とガトリング砲を撃ち込めば、いかに精強な北海道軍といえどもひとたまりもなかろう」
「正気か、一蔵」
「正気じゃ! 勝てば官軍、負ければ賊軍。この戦に負ければ、我らは逆賊として処刑されるだけじゃ! 薩摩も長州も、灰燼に帰すことになる。それを防ぐためなら、江戸の民の数万や数十万、安いもんじゃろうが!」
大久保の声は、悲鳴にも似ていた。
彼は、近代国家建設という理想に取り憑かれていた。その理想のためなら、どんな犠牲も厭わない。その冷徹な合理性こそが、大久保利通という男の武器であり、同時に呪いでもあった。
西郷は、静かに首を横に振った。
「ならん」
「なんじゃと!?」
「それはできん。民を巻き添えにはできん」
西郷の声は低く、しかし地の底から響くような重みを持っていた。
「一蔵どん。我らが倒そうとした徳川は、二百六十年の間、泰平の世を築いた。その徳川が守り育てたこの江戸の町と民を焼き払って、何が新政府か。何が王政復古か。そんなことをすれば、我らは歴史に名を残す大悪党になり下がる」
「綺麗事を言うな! 戦は勝たねば意味がない! 徳川家茂が生きて戻ってくるのじゃぞ! あの『名君』がな! 奴が戻れば、民は諸手を挙げて歓迎する。そうなれば、我々の居場所などどこにもない!」
大久保は西郷の襟首を掴み、激しく揺さぶった。
「吉之助! お前は甘い! その甘さが、薩摩を、日本を滅ぼすことになるぞ! 非情になれ! 鬼になれ! 鬼になって、新しい日本を作るのじゃ!」
盟友の悲痛な叫び。血走ったその目には涙さえ浮かんでいる。
西郷は、大久保の手を優しく、しかし強引に外した。そして、悲しげな瞳で大久保を見下ろした。
「……甘くて結構」
西郷は、噛み締めるように言った。
「おいどんは、鬼にはなれん。人として生き、人として死にたい」
その言葉は、二人の間に決定的な亀裂を生んだ。
これまで、車の両輪のように互いを補い合ってきた西郷と大久保。情の西郷、知の大久保。その均衡が、今ここで完全に崩れ去ったのである。
大久保は、よろめくように数歩下がった。その表情から、先ほどの激情が消え、凍りつくような冷徹さが戻っていた。
「……そうか。ならば、もう頼まん。指揮権は私が預かる。お前はそこで、指をくわえて見ておれ」
大久保は踵を返し、足音高く部屋を出て行った。
残された西郷は、再び窓の外に目を向けた。
雨脚は強くなっている。
「一蔵どん……すまん」
西郷は独りごちた。
大久保の焦りは、痛いほど分かる。彼もまた、日本を思えばこその行動なのだ。だが、手段を誤れば、目的そのものが腐敗する。
江戸を焼けば、確かに勝てるかもしれない。だが、その焼け跡に建つ国は、怨嗟と血に塗れた国だ。そんな国に、未来はない。
西郷は決意した。
もはや、猶予はない。大久保が強硬手段に出る前に、この戦を終わらせなければならない。
彼は、机に向かい、筆を執った。
墨を擦る音が、静寂な部屋に響く。
宛先は、かつての敵であり、今は隠居の身となっている男。
勝海舟。
かつて、長州征伐の折、二人は出会い、日本の未来を語り合った。
幕府だの藩だのという枠組みを超え、「日本」という国をどう守るか。その視点を西郷に教えたのは、他ならぬ勝であった。
今、その勝の力が必要だ。
『勝先生。
拝啓、春雨の候……』
西郷の筆は、迷いなく進んだ。
それは、降伏の打診ではない。日本を救うための、魂の叫びであった。
永倉新八率いる北海道軍、そして徳川家茂。彼らと話し合い、無益な血を流さずに、新しい国の形を作る。それしか道はない。
たとえ、それが薩摩の敗北を意味するとしても。
たとえ、大久保に裏切り者と罵られようとも。
「おいどんは、おいどんの『誠』を貫く」
書き上げた書状を懐に入れると、西郷は信頼できる部下を呼んだ。
「これを、赤坂の勝先生のもとへ。命に代えても届けよ」
「はっ!」
部下が姿を消した後、西郷は再び椅子に深く腰掛けた。
その顔には、先ほどまでの迷いはなく、ある種の晴れやかささえ漂っていた。
鬼にはなれない。ならば、仏となって、すべての泥を被ろう。
それが、西郷隆盛という男の生き様であった。
一方、赤坂、氷川。
勝海舟の隠居所は、ひっそりと静まり返っていた。
新政府軍の監視下にあり、表立った行動は制限されている。だが、勝の目は死んでいなかった。
彼は、縁側であぐらをかき、雨を眺めながら、酒をちびちびと舐めていた。
「……江戸っ子が騒いでやがるな」
先日の騒動は、勝の耳にも届いていた。
新門の辰五郎、そして千葉の佐那。
勝の口元が緩む。
「べらぼうめ。俺が出張るまでもねぇか……いや、そうもいかねぇな」
そこへ、裏口から一人の男が滑り込んできた。西郷の使いである。
勝は、差し出された書状を受け取ると、素早く目を通した。
読み進めるにつれ、勝の表情が引き締まっていく。
「……西郷さん。やっと目が覚めたか」
勝は書状を畳み、懐にねじ込んだ。
そして、天井を仰いだ。
「大久保の野郎は、江戸を焼く気だ。あいつは頭が切れすぎる分、余裕がねぇ。西郷さんが止めてるうちに、こっちも動かなきゃなんねぇな」
勝は立ち上がった。
その背中には、かつて咸臨丸で太平洋を渡った時のような、不敵な覇気が漲っていた。
「永倉の坊主……いや、今じゃ北海道共和国監察総裁兼大統領府特別軍事顧問、永倉新八か。偉くなったもんだ。だが、あいつに会わなきゃならねぇ」
勝の脳裏に、かつて京で会った若き日の永倉の顔が浮かぶ。
あの無鉄砲な若者が、今や一国の軍を率い、大統領・徳川家茂を擁して帰ってくる。
歴史の皮肉か、それとも必然か。
「面白くなってきやがった。江戸の喧嘩の仲裁役、この勝麟太郎が引き受けてやらぁ」
◇
雨雲の切れ間から、微かに光が差し込み始めていた。
西郷の苦悩と決断は、勝海舟という触媒を得て、歴史を大きく動かそうとしていた。
だが、大久保利通の放つ暗い影もまた、その動きを察知し、鋭い牙を剥こうとしていたのである。
江戸城の奥深く、大久保は冷たい目で部下に命じていた。
「西郷が誰と通じようと構わん。だが、邪魔をするなら容赦はせん。……刺客を用意せよ」
時代は、二人の英雄を引き裂き、最後の局面へと突き進んでいく。
勝利のため江戸を焼き払うことも辞さないと狂気を孕む大久保利通。
しかし西郷隆盛は民を犠牲にして鬼になることを拒絶した。
情の西郷と知の大久保、共に歩んできた盟友の間に決定的な亀裂が走る。
新八たちの進撃が、新政府軍の内部崩壊を決定づけようとしていた。




