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第220話:鬼小町と町火消

新八たち北海道軍の進撃は、江戸市中にも確実に届いていた。

薩長軍の圧政に苦しむ人々にとって、彼らの帰還は唯一の希望の光。

そんな中、愛する人の帰りを信じて待ち続けた一人の女性が、江戸の町を守るために立ち上がる。

 北海道共和国暦では、慶応五年改め静寛元年の四月のこと。

 江戸の空は、鉛色の雲に覆われていた。だが、その重苦しい空気を切り裂くように、人々の心にはかつてないほどの熱い火が灯り始めていた。

 北から迫る北海道共和国軍の足音は、江戸市中にも確実に届いていた。「新選組が帰ってくる」「上様(家茂)がお戻りになる」。その噂は、薩長新政府軍の圧政に苦しむ江戸っ子たちにとって、唯一の希望の光となっていた。


 神田お玉ヶ池、千葉道場。

 かつて新八たちも汗を流したこの名門道場に、一人の女性が立っていた。

 彼女は、道場の奥に掲げられた、亡き伯父・千葉周作の遺影に静かに手を合わせると、傍らに置いてあった長刀を手に取った。

 その瞳には、かつて「千葉の鬼小町」と呼ばれ、数多の剣客を震え上がらせた頃と変わらぬ、凛とした光が宿っている。いや、愛する人を待ち続け、その帰還を信じて戦い抜くと決めた今の彼女の瞳は、以前にも増して強く、美しかった。


「皆様、準備はよろしいですか」


 佐那が振り返ると、道場には数十人の門弟たちが、決意に満ちた表情で控えていた。彼らだけではない。道場の外には、すでに多くの町人たちが集まり始めていた。

 佐那は、白鉢巻をきりりと締め、袴の裾を高く括り上げると、道場の門を開け放った。


「では、参りましょう。新門辰五郎親分のもとへ」


 佐那を先頭に、一行は浅草へと向かった。

 浅草、新門。

 江戸最大の町火消組織「を組」の元締め、新門辰五郎の屋敷である。

 辰五郎は、かつて徳川家茂公の上洛にも供奉し、京の二条城でもその名を轟かせた侠客だ。

 薩長軍が江戸を占拠して以来、彼は表立った行動を控えていたが、その腹の底には、煮えたぎるような怒りが渦巻いていた。


「おや、千葉の小町じゃねぇか。こんな物騒ななりをして、どうしたんでぇ」


 屋敷の玄関に現れた辰五郎は、佐那の姿を見て目を丸くした。

 佐那は、一歩前に進み出ると、深々と頭を下げた。


「辰五郎親分。お願いがございます」

「改まってなんだい。水臭ぇ」

「北海道軍が、すぐそこまで来ています。新選組が、帰ってくるのです」


 佐那の言葉に、辰五郎の目が鋭く光った。

 彼は、懐から煙管を取り出し、ゆっくりと火をつけた。紫煙を吐き出しながら、佐那の顔をじっと見つめる。


「……永倉の旦那か」

「はい。ですが、薩長軍は江戸を火の海にしてでも抵抗する構えです。このままでは、江戸が燃えてしまいます」


 佐那は顔を上げ、辰五郎を真っ直ぐに見据えた。


「親分。江戸っ子の意地、見せてやりましょう。私たちで、江戸を守るのです」


 その言葉は、辰五郎の胸に突き刺さった。

 彼は、煙管を灰吹きに叩きつけると、ニヤリと笑った。その笑顔は、かつて京の町で新選組と共に暴れ回った頃の、不敵な笑みだった。


「へっ、言われなくてもそのつもりよ! 薩長の田舎侍に、俺たちの江戸を好き勝手させてたまるかってんだ!」


 辰五郎は立ち上がり、大声で叫んだ。


「おぅ! 半纏はんてんを持ってこい! まといを出せぇ!」


 その号令一下、屋敷の中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 若い衆が次々と飛び出し、半纏を羽織る。辰五郎自身も、背中に「新門」の文字が染め抜かれた半纏を粋に着こなすと、巨大な纏を軽々と担ぎ上げた。


「野郎ども! 出入りだ! 火事場より熱い喧嘩になりそうだぜ!」

「おうよ!!」


 浅草の町に、威勢の良い掛け声が響き渡った。

 新門辰五郎が動いたという噂は、風のように江戸中を駆け巡った。

 「を組」だけではない。「め組」「い組」……江戸四十八組の火消したちが、次々と立ち上がった。さらに、鳶職人、大工、魚河岸の若い衆までもが、手近な道具を武器にして集まってくる。

 彼らは、刀や鉄砲は持っていない。だが、鳶口とびぐち梯子はしご掛矢かけやといった、使い慣れた商売道具を手にしていた。


「佐那様についていけ!」


 誰かが叫んだ。

 先頭を行くのは、薙刀を構えた千葉佐那だ。

 彼女の姿は、まさに戦乙女。あるいは、民衆の怒りと悲しみを一身に背負った「鬼小町」であった。


 薩長軍の兵士たちは、この異様な集団を見て度肝を抜かれた。

 正規軍ではない。ただの町人の集まりだ。だが、その数は数千、いや数万にも膨れ上がっていた。

 しかも、彼らは江戸の地理を熟知している。

 路地の奥から、屋根の上から、神出鬼没に現れては、薩長軍の退路を断ち、補給物資を奪っていく。


「こ、こいつら、何なんだ!」

「火消しか!? なんで火消しが襲ってくる!」


 薩長兵が銃を構えるが、火消したちは梯子を使って屋根伝いに移動し、頭上から鳶口を振り下ろす。

 鳶口とは、本来は建物を解体するための道具だが、その鋭い鉤爪は、人の肉をも容易く引き裂く凶器となる。


「てめぇら、ここがどこだと思ってやがる! お江戸の真ん中だぞ!」

「田舎へけぇれ!」


 辰五郎が纏を振り回し、薩長兵を薙ぎ払う。その怪力は、並の剣客など相手にならない。

 そして、佐那の薙刀が閃く。

 彼女の剣技は、北辰一刀流の精髄。美しく、そして致命的だ。

 襲いかかる兵士の腕を斬り、脚を払い、次々と無力化していく。だが、彼女は決して命までは奪わなかった。


「退きなさい! これ以上、無益な血を流す必要はありません!」


 佐那の凛とした声が、戦場に響く。

 その姿に、逃げ惑っていた町人たちも勇気づけられた。

 鍋や釜、石ころを持って、薩長兵に投石を始める者まで現れた。

 もはや、これは暴動ではない。江戸という都市そのものが、異物である薩長軍を排除しようとする、免疫反応のようなものだった。


 この日、江戸市中の主要な街道や橋は、町人たちによって封鎖された。

 薩長軍は分断され、各個撃破されていく。

 彼らが頼みの綱としていたアームストロング砲も、火消したちによって水路に沈められたり、部品を外されたりして、使い物にならなくなっていた。


 夕暮れ時。

 日本橋の上に立った佐那は、夕日に染まる江戸の町を見渡した。

 あちこちで煙が上がっているが、それは戦火の煙ではなく、町人たちが炊き出しをする煙だった。

 彼女の隣に、辰五郎が並ぶ。


「へへっ、やったな、小町」

「はい。皆様のおかげです」


 佐那は、汗と煤で汚れた顔を拭い、微笑んだ。

 その視線の先には、北の方角がある。

 そこから、愛する人が、新しい時代の風と共にやってくる。


「もう少しです……新八様」


 佐那の呟きは、風に乗って北へと流れていった。

 北海道軍が江戸の入り口である千住に到着したのは、その翌日のことだった。

 そこで彼らが見たのは、整然と矢来やらい拒馬きょばが組まれ、町人たちが自主的に警備を行う、解放された江戸の姿だった。


北の大地で新八たちが命を懸けて戦っている間に、ここ江戸でも、彼を待ち続ける佐那と、意気軒昂な火消したちによる、もう一つの「守るための戦い」が繰り広げられていたのだ。


佐那の呼びかけで、新門辰五郎ら江戸の町火消したちが立ち上がった。

銃を持たずとも、商売道具と地の利を活かした戦法で薩長軍を圧倒していく。

新八の到着を前に、鬼小町と火消したちによる江戸を守るための熱い戦いが繰り広げられる。

江戸っ子の意地が炸裂した。

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