第217話:近藤勇の帰還
仙台城での軍議後、土方は落ち着かない様子で窓の外を見つめていた。
新八もまた、ある男の到着を待ちわびていた。
やがて廊下に響く重厚な足音。襖が開き、旅姿の男が現れる。
仙台城の大広間は、軍議を終えた後も、熱気が冷めることなく漂っていた。
俺は、広げられたままの地図を見つめながら、これから始まる戦いのシミュレーションを繰り返していた。土方歳三は窓際に立ち、腕を組んで外の景色を眺めている。その背中は、いつになく落ち着かない様子だった。
「……遅いな」
土方が独り言のように呟く。
俺は苦笑しながら顔を上げた。
「土方さん、まだ予定の刻限までは間がありますよ。あの人が時間を守らなかったことがありますか?」
「分かってらぁ。だが、気が急くんだよ」
土方は振り返り、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
無理もない。彼にとって、近藤勇という男は単なる盟友ではない。自分の半身とも言える存在だ。その半身が、敵地深くで危険な任務に就いていたのだから、心配するなという方が無理な話だろう。
その時、廊下からドタドタという足音が近づいてきた。
襖が勢いよく開かれる。
「副長! 永倉先生! 到着されました!」
伝令の隊士が、息を切らせて叫ぶ。
土方の目が鋭く光った。
「通せ!」
一瞬の静寂の後、廊下の奥から、ゆっくりとした足音が響いてきた。
重厚で、それでいて迷いのない足取り。
俺と土方は、自然と背筋を伸ばし、その入口を見つめた。
現れたのは、旅姿の男だった。
深く被った編笠を取り、埃にまみれた道中合羽を脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、見慣れた浅葱色の羽織。そして、袖口に白く染め抜かれた山形の模様。
「……待たせたな、トシ、新八」
男が顔を上げ、ニカっと笑う。
日焼けした肌に、無精髭。目尻には深い笑い皺が刻まれているが、その瞳はかつてないほど澄み渡り、力強い光を宿していた。
「近藤さん……!」
俺の声が震えた。
近藤勇。
この世界では「大久保大和」と名を変え、影の存在として生き延びてきた我らが局長。
彼が今、再び「近藤勇」として、俺たちの前に帰ってきたのだ。
「よくやった、近藤さん」
土方が歩み寄り、近藤の肩を強く叩いた。その手は、微かに震えているように見えた。
「ああ。お前たちこそ、よくぞここまで持ちこたえてくれた。北海道での苦労、そしてこの仙台までの道のり……。俺は影から見ていることしかできなかったが、誇らしかったぞ」
近藤は土方の手を握り返し、そして俺の方を向いた。
「新八、お前の策も見事だった。あの『ビール』とやらの噂、江戸まで届いていたぞ。『北の国には、苦いが元気になる水がある』とな」
「ははっ、それは光栄ですね。近藤さんにも、あとでたっぷり味わってもらいますよ」
俺は目頭が熱くなるのを堪えながら、笑顔で答えた。
「おう、楽しみにしてるぜ。……だがその前に、土産話といこうか」
近藤は懐から分厚い書状の束を取り出し、地図の上に置いた。
ドサリ、と重い音が響く。
「敵の配置、兵力、補給線の状況、そして指揮官たちの不和……。全部調べてきた」
俺と土方は、顔を見合わせた。
近藤が持ち帰った情報は、想像を遥かに超える精度だった。
薩長軍の各部隊の現在位置だけでなく、兵糧の備蓄量、弾薬の残数、さらには兵士たちの士気に関する詳細なレポートまで含まれている。
「すごい……。これだけの情報を、どうやって?」
俺が驚嘆の声を上げると、近藤は悪戯っぽく笑った。
「何、簡単なことさ。商人や農民に変装して、酒場や宿場で話を聞いただけだ。薩長の兵隊さんは、酒が入ると口が軽くなるからな。それに、俺の人相書きも出回っちゃいねぇ。まさか死んだはずの近藤勇が、目の前で酒を注いでるとは夢にも思わなかったろうよ」
近藤の言葉に、土方が呆れたように笑う。
「相変わらずだな、あんたは。敵の懐に飛び込んで情報収集とは、肝が太すぎるぜ」
「それが俺の性分だからな。……見てみろ、ここだ」
近藤は地図上の一点を指差した。
奥州街道の要衝、白河の関から宇都宮にかけての防衛線だ。
「ここに薩摩の主力部隊が集結しているが、指揮系統が混乱している。大久保利通と西郷隆盛の意見が対立し、現場の兵士たちはどちらの命令に従うべきか迷っているようだ。さらに、長州軍との連携も取れていない。ここを突けば、敵の防衛線は一気に崩れる」
「なるほど……。敵の弱点は、まさにそこにあるわけか」
俺は近藤の情報を元に、脳内で作戦を修正していく。
薩長同盟は、あくまで「倒幕」という共通の敵がいたからこそ成立していた脆い同盟だ。共通の敵がいなくなった今、そして戦況が悪化している今、その結束に亀裂が入るのは必然だった。
「これなら勝てる」
俺は確信を持って言った。
近藤がもたらした情報は、勝利への最後のピースだった。
その時、広間の外がにわかに騒がしくなった。
何事かと顔を上げると、障子の向こうから聞き覚えのある大声が響いてくる。
「局長! どこですか局長ッ!」
「おい左之助、走るな! 廊下だぞ!」
「うるせぇ! 近藤さんが帰ってきたんだぞ! じっとしてられるか!」
ドタドタという足音と共に、原田左之助、藤堂平助、そして斎藤一たちが雪崩れ込んできた。
「局長!!」
左之助が真っ先に近藤に飛びついた。
大男の左之助が、まるで子供のように近藤にしがみつく。
「生きてたんですね! 心配させやがって!」
「痛ぇな、左之助! 骨が折れるわ!」
近藤は苦笑しながらも、左之助の背中をバンバンと叩く。
平助も目を潤ませながら駆け寄る。
「近藤さん……! 本当に、本当によかった……!」
「おう、平助。少し背が伸びたか? いい顔つきになったな」
斎藤は少し離れた場所で腕を組み、静かに頭を下げた。
言葉はなくとも、その表情には深い安堵と敬意が滲んでいた。
そして、その騒ぎの後ろから、静かに、しかし確かな足取りで近づいてくる二つの影があった。
「……近藤先生」
透き通るような声。
振り返ると、そこには沖田総司と、彼に付き添う琴の姿があった。
血色が回復して、沖田の顔色は少し赤みを帯び、その瞳には以前のような鋭さと、穏やかな光が同居していた。琴は、一歩下がった位置で沖田を見守るように立っている。
「総司……! 体はもういいのか?」
近藤が驚いて駆け寄る。
沖田は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ええ。琴さんの看病のおかげで、すっかり良くなりました。それに、近藤先生が帰ってくるって聞いたら、寝てなんかいられませんよ」
「総司さん、あまり無理をしないでください……」
琴が心配そうに、しかし控えめに声をかける。
彼女の献身的な支えがあったからこそ、沖田は病を撥ね退け、こうして再び立つことができたのだ。北の大地の清浄な空気と、西洋医学、そして何より琴の存在が、再びの奇跡を起こした。
「そうか、そうか……! よかった、本当によかった!」
近藤は沖田の両肩を掴み、涙ぐんだ。
一番隊組長、沖田総司。新選組最強の剣士であり、近藤が弟のように可愛がってきた男。彼が元気を取り戻して、ここにいる。それだけで、近藤の胸はいっぱいになっているようだった。
「先生、僕も戦いますよ。この体、まだ錆びついてはいませんから」
「馬鹿野郎。お前は大事な体だ。無理はさせん」
近藤は首を振ったが、沖田は譲らなかった。
「いいえ。僕たちの居場所を守るための戦いです。それに……」
沖田は琴の方をちらりと見て、優しく微笑んだ。
「守りたいものが増えましたから。強くなりましたよ、僕は」
その言葉に、琴がハッとして沖田を見つめ、すぐに頬を染めて俯く。
俺たちはその初々しい光景を見て、思わず顔をほころばせた。かつての血生臭い新選組にはなかった、温かい空気がそこにはあった。
「……賑やかだな」
その時、穏やかだが威厳のある声が響いた。
喧騒が一瞬で静まり返る。
入口に、一人の青年が立っていた。
洋装の軍服に身を包んでいるが、その気品は隠しようもない。
北海道共和国大統領、徳川家茂閣下だ。
隊士たちが一斉に平伏する。
近藤も慌てて居住まいを正し、深く頭を下げた。
「上様、いえ、大統領閣下……。このようなむさ苦しい場所へ、恐れ入ります」
「よい、近藤。面を上げなさい」
家茂閣下は静かに歩み寄り、近藤の前に立った。
その瞳は、深い慈愛と、指導者としての強い意志に満ちていた。
「そなたの働き、しかと報告を受けている。影となり、日陰の道を歩ませてしまったこと、心苦しく思っていた。……よう戻ってくれた」
「もったいないお言葉……。この近藤勇、命ある限り、閣下のため、そして日本のために尽くす所存でございます」
近藤の声は感極まって震えていた。
家茂閣下は微笑み、そして広間に集まった隊士たちを見渡した。
「そなたたちの絆こそが、この国の希望である。どうか、その絆で、新しい日本を切り開いてもらいたい。……そして、北に待つ我が妻、いや帝の元へ、吉報を届けてやってくれ」
「ははっ!!」
全員の声が重なり、広間を揺るがした。
家茂閣下の言葉には、箱館で待つ静寛の帝・和宮様への想いも込められていた。その想いを受け止め、俺たちは改めて決意を固めた。
その夜、仙台城の一角で、ささやかな祝宴が開かれた。
主役はもちろん、近藤勇だ。
俺、土方、近藤、そして左之助や平助といった幹部連中が車座になり、酒を酌み交わす。
沖田も、琴に「少しだけですよ」と釘を刺されながらも、嬉しそうに席に加わっている。琴は甲斐甲斐しく沖田の世話を焼きながらも、時折彼と目が合うと恥ずかしそうに逸らしていた。
肴は、近藤が道中で仕入れてきた干物と、仙台名物の笹かまぼこ。そして、例の「北海道ビール」だ。
「ほう、これが……。泡が立って、不思議な飲み物だな」
近藤はグラスに注がれた黄金色の液体を珍しそうに眺め、一口飲んだ。
途端に目を丸くする。
「苦っ! ……だが、なんだこの爽快感は。喉の渇きが一気に癒えるようだ」
「だろ? 最初は驚くが、癖になるんだよ」
土方がニヤリと笑い、自分のグラスを干す。
近藤も二口目を飲み、「うまい!」と声を上げた。
「新八、お前は本当に面白いものを作るな。これも蘭学書にあったのか?」
「ええ、まあ。古い文献の端っこに載ってましてね」
俺はいつもの言い訳を口にしながら、ビールを煽った。
この苦味が、今の俺には心地よい。
「総司はどうだ? 飲めるか?」
「ええ、少しだけなら。……うん、やっぱり苦いですね。でも、皆さんと飲むと美味しいです」
沖田が琴に酌をしてもらいながら、幸せそうに笑う。
その横顔を見て、俺は安堵した。史実では孤独に病死した彼が、こうして大切な人と共に笑っている。それだけで、歴史を変えた意味があったと思えた。
「さて、近藤さん。明日からのことですが」
土方が表情を引き締め、話題を切り替えた。
場の空気がピリッと張り詰める。
「ああ。俺の役目は分かっている」
近藤はグラスを置き、強い眼差しで俺たちを見据えた。
「俺は遊撃隊を率いて水戸街道を進む。派手に暴れて、敵の目を引きつける囮役だろ?」
「囮じゃありませんよ。近藤さんは『旗印』です」
俺は訂正した。
「近藤勇という名前には、敵味方問わず、強烈なインパクトがあります。あなたが水戸街道を堂々と進軍することで、敵は恐怖し、味方は奮い立つ。それこそが、最大の武器なんです」
「旗印、か……。悪くない響きだ」
近藤は満足げに頷いた。
「よし、引き受けた。新選組局長として、一番目立つ場所で、一番派手に暴れてやるよ」
「頼みますよ、局長。俺たちは奥州街道を抜けて、敵の背後を突きます。江戸で会いましょう」
土方が拳を突き出す。
近藤がその拳に自分の拳を合わせる。
そして俺も、二人の拳に自分の拳を重ねた。
「江戸で会いましょう。必ず」
三つの拳が、固く結ばれる。
それは、死線を越えてきた男たちの、言葉以上の誓いだった。
窓の外には、満月が輝いている。
その光は、これから俺たちが進む道を、明るく照らし出しているように見えた。
近藤勇の帰還。
それは、反撃の狼煙であり、勝利への確信だった。
新選組は、今ここに完全復活を遂げたのだ。
敵地で情報を集めていた近藤がもたらしたのは、薩長軍の致命的な弱点だった。
箱根での指揮系統の混乱と、薩長の不和。
勝利への確信を深める新八たちのもとへ、左之助や平助も駆けつける。
試練を乗り越え、新選組の絆はかつてないほど強固なものとなった。




