第214話:海峡突破
荒れ狂う津軽海峡に、薩長艦隊の黒い影が立ちはだかる。
数で勝る敵に対し、榎本武揚率いる北の艦隊は正面突破を敢行する。
津軽海峡は、鉛色の波が荒れ狂う魔の海域と化していた。
吹き荒れる強風が波頭を白く砕き、視界を遮るように水飛沫が舞う。だが、その荒天すらも、これから始まる死闘の前触れに過ぎなかった。
水平線の彼方に、無数の黒い影が浮かび上がる。
薩長を中心とした新政府軍の艦隊だ。彼らは、北海道共和国からの侵攻を阻止すべく、この海峡を鉄壁の封鎖線で塞いでいたのだ。
「来たか……」
旗艦「開陽丸」のブリッジで、榎本武揚は望遠鏡を下ろした。その表情には、緊張感と共に、獲物を前にした猛獣のような獰猛な笑みが浮かんでいる。
「数は向こうが上だ。だが、質はどうかな」
隣に立つ副官の荒井郁之助が、海図を広げながら冷静に分析する。
「敵艦隊の主力は、英国から供与された旧式艦が中心です。数で押し切るつもりでしょうが、この荒れた海では、まともな操船もままならないはず」
「ああ。それに比べて、我が艦隊の練度は世界一だ。フランス仕込みの操船技術、とくと見せてやろうじゃないか」
榎本さんは、伝声管に向かって叫んだ。
「全艦、戦闘配置! 目標、敵艦隊中央! 突き破るぞ!」
号令と共に、開陽丸の巨体が唸りを上げた。
蒸気機関が最大出力で稼働し、黒煙が空を覆う。それに呼応するように、後続の「甲鉄」「回天丸」「蟠竜丸」も速度を上げる。
俺たち北海道艦隊は、荒波をものともせず、矢のように敵陣へと突っ込んでいった。
敵艦隊からの砲撃が始まった。
水柱が次々と上がり、轟音が響き渡る。だが、榎本さんの指揮は的確だった。
「面舵一杯! 波に乗れ!」
開陽丸は、巨大な波のうねりを利用して、敵の砲弾を紙一重で回避する。まるで生き物のような動きに、敵艦隊は翻弄されているようだった。
「今だ! 主砲、撃てぇッ!」
榎本さんの叫びと共に、開陽丸の主砲が火を噴いた。
轟音。そして衝撃。
放たれた砲弾は、正確無比な軌道を描き、敵の先頭艦を直撃した。
爆炎が上がり、マストがへし折れる。敵艦はバランスを崩し、荒波に揉まれて横転していく。
「命中! 敵艦、沈黙!」
観測員の報告に、ブリッジ内が沸き立つ。
「これが、近代海軍の力だ!」
榎本さんは拳を握りしめた。
オランダ留学で培った知識、フランス軍事顧問団から学んだ戦術、そして北の大地で鍛え上げられた乗組員たちの魂。それら全てが結実し、今、圧倒的な力となって敵を粉砕しているのだ。
一方、戦場の側面では、もう一つの戦いが繰り広げられていた。
坂本龍馬率いる「海援隊」である。
彼らが操るのは、正規軍の大型艦ではなく、小回りの利く快速船だ。
「へへっ、デカイ図体して、動きが鈍いぜよ!」
龍馬は、自ら舵輪を握り、荒波の中を滑るように疾走していた。
彼の船「翔天丸」は、敵艦の砲撃を軽々とかわし、その懐へと潜り込んでいく。
「龍馬さん、近すぎます!」
部下の悲鳴にも似た声に、龍馬はニカっと笑う。
「近いからこそ、当たるんじゃ! 撃てぇ!」
至近距離からの砲撃。
ドォォォン!
敵艦の脇腹に風穴が開き、海水が奔流となって流れ込む。
「逃がさんぜよ! 次じゃ!」
龍馬の操船技術は、まさに神業だった。
波の動き、風の向き、そして敵の心理。全てを読み切り、戦場を自在に駆け巡る。それは、かつて土佐の海で黒潮を見て育った彼だからこそ成せる技だった。
「あっちの船も、こっちの船も、わしらの庭で好き勝手させんきに!」
海援隊の奇襲攻撃により、薩長艦隊の陣形は完全に崩壊した。
混乱する敵艦同士が衝突し、あるいは味方の砲撃を受けて炎上する。
津軽海峡は、鉄と火薬と悲鳴の渦に飲み込まれていた。
◇
数時間の激闘の末、勝敗は決した。
薩長艦隊は、半数以上の艦を失い、散り散りになって敗走していった。
海峡には、燃え盛る残骸と、漂流物が無数に浮かんでいる。
「勝った……のか」
開陽丸の甲板で、俺は呆然と海を見つめた。
圧倒的な勝利だった。
かつて、京で味わった無力感は、ここにはない。自分たちは、確かに強くなったのだ。
「永倉君、感傷に浸っている暇はないぞ」
榎本さんが、煤けた顔で笑いながら近づいてきた。
「制海権は奪った。これより、青森への上陸作戦を開始する」
「ああ。わかってます」
俺は、腰の刀を強く握りしめた。
海での戦いは終わった。だが、本当の戦いはこれからだ。陸に上がれば、そこには数万の薩長軍が待ち構えているはずだ。
北海道軍の艦隊は、悠然と青森港へと入港した。
港には、すでに敵の守備隊が布陣し、銃口をこちらに向けている。
「上陸部隊、用意!」
土方歳三の号令が響く。
揚陸艇が次々と降ろされ、新選組を中心とした精鋭部隊が乗り込んでいく。
俺もまた、斎藤一と共に一艘の艇に乗り込んだ。
「久しぶりの本土だな、一」
「ああ。空気の味が違う」
斎藤は、静かに愛刀・鬼神丸国重の鯉口を切った。その目は、すでに獲物を狙う狼のように鋭く光っている。
艇が砂浜に乗り上げると同時に、敵の銃撃が始まった。
ヒュンヒュンと弾丸が空を切り、水面を叩く。
「怯むな! 突っ込めぇッ!」
俺は、真っ先に艇から飛び出した。
足元の砂を蹴り、敵の防衛線へと疾走する。
前方に、土嚢を積んでバリケードを築いた敵兵たちの姿が見える。彼らは、最新のスナイドル銃を構え、必死の形相で引き金を引いていた。
だが、俺たちの速度はそれを上回る。
「龍飛剣!」
一閃。
バリケードごと敵兵をなぎ倒し、突破口を開く。
「続くぞ!」
俺の背後から、新選組の隊士たちが雪崩れ込む。
白兵戦となれば、新選組の独壇場だ。
狭い塹壕の中で、剣と槍が乱舞する。
「ギャアアアッ!」
断末魔の叫びが響き渡る。
その中で、一際異彩を放つ男がいた。
斎藤一だ。
彼は、左片手一本突きという独特の構えから、目にも止まらぬ速さで突きを繰り出していた。
「牙突」
その一撃は、敵の胴体を貫通し、背後の土嚢まで突き刺さるほどの威力を持っていた。
「化け物か……!」
敵兵が恐怖に顔を歪めて後ずさる。
「道を開けろ」
斎藤は、冷徹な声で告げた。
「さもなくば、死あるのみだ」
その威圧感に押され、敵兵たちは武器を捨てて逃げ出した。
防衛線は崩壊した。
北海道軍は、瞬く間に青森港を制圧し、橋頭堡を築くことに成功したのである。
上陸地点には、続々と後続部隊が到着していた。
その中には、大統領・徳川家茂の姿もあった。
彼は、護衛の兵士たちに囲まれながら、本州の土を踏みしめた。
「ようやくここまで……戻ってきた……」
家茂は、感無量の面持ちで呟いた。
かつて、追われるようにして未開の蝦夷地へと去ったあの日。
それから、彼は多くのものを失い、そして多くのものを得た。
北の大地での過酷な生活、民との触れ合い、そして新しい国づくり。それら全てが、彼を真の指導者へと成長させたのだ。
「閣下、ご無事で」
俺が駆け寄り、敬礼する。
「永倉、よくやってくれた。皆の働き、見事であった」
家茂は、俺の手を取り、力強く握り返した。
「だが、ここからが正念場だ。東北の諸藩が、我らを待っていよう」
「はい。すでに、各地で蜂起の狼煙が上がっているとの報告が入っております」
土方が、報告書を片手に近づいてきた。
「仙台、米沢、南部……。これまで薩長の圧力に屈していた藩が、一斉に動き出しました。我々の到着を、今か今かと待ちわびているようです」
「よし。直ちに進軍を開始する。まず目指すは仙台!」
家茂公の号令に、全軍が呼応した。
「オーッ!!」
青森の空は、いつの間にか晴れ渡っていた。
雲の切れ間から差し込む陽光が、北海道軍の旗を照らし出す。
それは、五稜郭の上に翻っていた「北辰旗」であった。
北極星を中心に、七つの星が輝くその旗は、新しい日本の希望の象徴として、風にはためいていた。
進軍を開始した北海道軍の列は、長く伸びていた。
沿道の村々からは、多くの民衆が飛び出し、彼らを歓迎した。
「お侍様! 待ってました!」
「薩長の役人どもを追い払ってくだせぇ!」
民衆は、口々に叫び、握り飯や水を差し出す。
彼らにとって、薩長の新政府軍は「官軍」ではなく、重税と圧政を強いる「侵略者」でしかなかったのだ。
俺は、老婆から渡された握り飯を頬張りながら、胸が熱くなるのを感じた。
「俺たちは、間違ってなかったんだな」
隣を歩く原田左之助に話しかける。
「おうよ。俺たちが正義だ。それを、これから証明してやるんだ」
原田は、槍を担ぎ直し、ニカっと笑った。
その頃、海峡を挟んだ箱館では、和宮様が一人、海を見つめていた。
彼女の元には、勝利の報せが届いていた。
「上様……。どうか、ご無事で」
彼女は、胸の前で手を組み、祈りを捧げた。
その祈りは、海を越え、戦場にある家茂公の元へと届いているはずだ。
海峡突破。
それは、単なる軍事的な勝利ではなかった。
長く閉ざされていた「希望」への扉を、力ずくでこじ開けた瞬間であった。
北海道軍の快進撃は、ここから始まる。
東北全土を巻き込み、やがて関東、そして京へと至る「真・大和創生戦争」の幕が、今、切って落とされたのである。
俺は、遥か南の空を見上げた。
そこには、まだ見ぬ激戦が待っている。だが、今の俺に恐れはなかった。
背中には仲間がいる。前には待っている人々がいる。そして心には、揺るぎない信念がある。
「全軍出立!」
俺の声が、春の風に乗って響き渡った。
榎本の采配と龍馬の奇襲により、北の艦隊は薩長の包囲網を打ち破る。
制海権を掌握した彼らは、休む間もなく青森への上陸を開始する。
土方の号令と共に、新八と斎藤一が敵弾の中へ飛び込んでいく。
海から陸へ、戦火は本土へと燃え広がろうとしていた。




