第213話:反転攻勢の狼煙
雪解けの箱館港に北の艦隊が集結する。
旗艦「開陽丸」と最新鋭装甲艦「甲鉄」。
榎本武揚、土方歳三、そして新八。苦難の冬を耐え抜いた男たちの眼差しは、海峡の向こう、奪われた故郷へと向けられていた。
箱館の山々から雪解けの水が、轟音をあげて川を走り、海へと雪崩れ込んでいく。その冷たく澄み切った水音は、長く辛い冬の終わりと、新しい季節の到来を高らかに告げる、凱旋の調べのようでもあった。。
箱館港は、かつてない熱気に包まれていた。
港を埋め尽くすのは、大小様々な軍艦や輸送船の群れだ。その中心に鎮座するのは、北海道共和国海軍が誇る二大巨頭――旗艦「開陽丸」と、最新鋭装甲艦「甲鉄」である。
フランスの支援により極秘裏に入手した「甲鉄」は、その異様な姿で周囲を威圧している。鋭角的な衝角を持つ艦首、装甲に覆われた船体、そして中央に鎮座する巨大な砲塔。それはまさに、海に浮かぶ鉄の城塞であった。
だが、今回の反転攻勢において、艦隊司令官・榎本武揚が旗艦に選んだのは、やはり「開陽丸」だった。
「甲鉄は確かに強力だ。一対一の殴り合いなら、間違いなく最強だろう」
出航前の作戦会議で、榎本さんはそう語った。
「だが、艦隊全体の指揮を執るには、居住性と通信能力に優れた開陽丸の方が適している。それに、何より俺たちの魂が染み付いているからな」
その言葉に、俺も深く頷いた。開陽丸は、俺たちが苦難の時を共にし、北の大地へと逃げ延びた際の「箱舟」でもあった。この船こそが、新生・北海道共和国の象徴として、先頭に立つにふさわしい。
「いよいよだな、新八」
桟橋に立つ俺に、土方歳三が声をかけてきた。
土方は、洋装の軍服に身を包み、腰には愛刀・和泉守兼定を帯びている。その顔つきは、京で「鬼の副長」と呼ばれていた頃の鋭さを取り戻しつつも、どこか憑き物が落ちたような晴れやかさがあった。
「ああ、本当に長かった。ここに来るまで」
俺もまた、軍服姿で海を見つめた。
京、そして江戸からの撤退、北への逃避行。多くの仲間を失い、泥水をすするような屈辱を味わった。しかし、俺たちは決して諦めなかった。この北の大地で、歯を食いしばり、爪を研ぎ続けてきたのだ。
「だが、これで終わりじゃねぇ。ようやく祭りの始まりだ」
土方がニヤリと笑う。
「久しぶりの里帰りだ。土産に、薩長の首の一つも持って帰ろうぜ」
「違いない。向こうも、俺たちがただの雪だるまになってるとは思ってないでしょうが……まさか、これほどの大軍勢で押し寄せるとは夢にも思わないだろうな」
俺の視線の先には、整列した新選組の隊士たちがいた。
原田左之助が、自慢の槍をブンブンと振り回し、周囲の隊士たちを笑わせている。
「へへっ、俺の槍が錆びついてねぇか、薩長の連中で試し斬りといこうじゃねぇか!」
その横で、斎藤一が腕を組み、いつものように不敵な笑みを浮かべている。
「無駄口を叩くな、左之助。槍が折れても泣くなよ」
「はんっ、俺の槍は金剛石より硬てぇんだよ!」
彼らの姿を見ていると、京の屯所にいた頃の空気が蘇ってくるようだった。だが、彼らは確実に強くなっている。個人の武勇だけでなく、組織としての規律と戦術を身につけ、近代的な軍隊へと進化していた。
その時、港に設置された演壇に、一人の男が立った。
北海道共和国大統領、徳川家茂だ。
彼は、かつての将軍としての煌びやかな装束ではなく、機能的な軍服を身に纏っていた。しかし、その身から発せられる高貴なオーラは、以前にも増して輝きを放っている。
ざわめいていた港が、一瞬にして静まり返った。数千の兵士たちの視線が、一点に集中する。
家茂公は、ゆっくりと全軍を見渡した。その瞳には、深い慈愛と、揺るぎない決意が宿っていた。
「皆の者、長らく待たせた」
よく通る声が、潮風に乗って響き渡る。
「我らは、敗れてこの地に逃れたのではない。力を蓄え、時を待っていたのだ。そして今、その時は来た!」
家茂公は、拳を握りしめ、力強く宣言した。
「これより、我らは本土へ戻る! だが、ゆめゆめ忘れるな。これは復讐ではない。私利私欲のための戦いでもない。日本を、異国の傀儡となろうとしている薩長の暴走から救い出し、真の独立と安寧を取り戻すための、聖なる戦いである!」
その言葉は、兵士一人一人の魂を揺さぶった。
俺たちは知っている。この若き指導者が、どれほど民を思い、どれほど苦悩し、そしてどれほど強くあろうとしてきたかを。
「我らの背には、北の大地で共に汗を流した民がいる。そして海に隔てられた向こうには、我らの帰還を待ちわびる同胞がいる。恐れることはない。正義は我らにあり!」
「オーッ!!」
地鳴りのような歓声が、箱館の空を揺るがした。
兵士たちは帽子を振り、武器を掲げ、主君への忠誠と勝利への誓いを叫んだ。それは、単なる軍隊の雄叫びではなく、一つの巨大な意志の塊となって、津軽海峡の波濤を越えていくようだった。
演壇の脇で、その様子を見守る女性がいた。
静寛天皇こと、和宮様である。
彼女は、白無垢のような清らかな正装を身に纏い、祈るように手を組んでいた。
「上様……いえ、閣下。ご立派になられました」
かつて、京の御所で深窓の姫君として育った彼女は今、北の女帝として、夫と共に過酷な運命に立ち向かっている。その横顔には、以前の儚げな面影はなく、母性にも似た強さが宿っていた。
家茂公が演壇を降り、和宮様の元へと歩み寄る。
「行って参ります、陛下。いや、宮さん」
「はい。皆様、どうかご武運を」
和宮様は、家茂公の手を両手で包み込んだ。その温もりが、家茂公の緊張を解きほぐしていく。
「必ず、勝って戻ります。そして、あなたを再び、日の本の都へ」
「私は、あなたがご無事であれば、どこへでも参ります。……どうか、ご無理だけはなさいませぬよう」
二人は見つめ合い、言葉にならぬ想いを交わした。それは、夫婦としての愛であり、同志としての信頼でもあった。
「さあ、色男の別れ話はそこまでにして、そろそろ出番ぜよ」
独特の土佐弁と共に現れたのは、坂本龍馬だ。
彼は、相変わらずのボサボサ髪に、着崩した袴姿だが、その目には鋭い光が宿っている。彼が率いる「海援隊」の船団もまた、出航の準備を整えていた。
「龍馬、準備はいいか」
俺が問うと、龍馬はニカっと笑って親指を立てた。
「バッチリじゃ。わしの船も、最新のアームストロング砲を積んでるぜよ。薩長の船なんぞ、一捻りじゃきに」
龍馬の海援隊は、正規軍とは異なる遊撃艦隊として、敵の側面を突く役割を担っている。その神出鬼没な動きは、薩長海軍にとって最大の脅威となるはずだ。
「それに、あの『甲鉄』がおるきに、怖いもん無しじゃ。ありゃあ、海に浮かぶ要塞ぜよ」
龍馬は、畏敬の念を込めて甲鉄艦を見上げた。
「ああ。頼むぞ。お前の操船技術だけが頼りだ」
「任せちょき。世界の海を見てきたわしの腕、とくと見せてやるぜよ」
そして、艦隊の指揮を執る男が、開陽丸のブリッジに立った。
榎本武揚だ。
彼は、望遠鏡で水平線の彼方を確認すると、静かに、しかし力強く命令を下した。
「全艦、抜錨! 機関始動! 目標、江戸!」
蒸気機関が唸りを上げ、黒煙が空へと立ち昇る。
巨大な錨が巻き上げられ、開陽丸がゆっくりと動き出した。その右舷には「甲鉄」が、左舷には「回天丸」が続き、さらに「蟠竜丸」「千代田形」といった艦艇が、堂々たる陣形で港を離れていく。
その光景は、まさに壮観の一言であった。
かつて、黒船の来航に怯えた国が、わずか十数年でこれほどの艦隊を持つに至ったのだ。しかも、それを率いるのは、旧来の幕府軍ではない。新しい思想と技術を取り入れ、生まれ変わった「北海道共和国軍」である。
俺は、輸送船の甲板から、遠ざかる箱館の街を見つめた。
五稜郭の星形の城壁が、小さくなっていく。
あそこで過ごした日々は、苦しくも充実していた。土を耕し、家を建て、新しい国を作る。それは、剣を振るうことしか知らなかった自分にとって、得難い経験であった。
「必ず帰ってくる。……勝って、胸を張ってな」
俺は心の中で呟き、視線を南へと転じた。
その先には、津軽海峡が横たわり、さらにその先には江戸が待っている。
そして、そこには愛する人――千葉佐那がいる。
「待っていろ、佐那。今、行くぞ」
俺の手が、腰の刀の柄に触れた。
その刀身には、佐那の想いと、新選組の誇りが宿っている。
風が変わった。
北からの冷たい風が、南への追い風となって帆を膨らませる。
反転攻勢の狼煙は上がった。
時代を分ける大戦の幕が、今、切って落とされたのである。
艦隊が進む先、海峡の向こうには、不気味な静けさが漂っていた。
薩長もまた、ただ手をこまねいているわけではないだろう。彼らも必死だ。この海を越えさせれば、自分たちの喉元に刃を突きつけられることになるのだから。
だが、俺たちに迷いはなかった。
俺たちは知っている。自分たちが背負っているものが、単なる権力争いではなく、日本の未来そのものであることを。
波しぶきを上げ、艦隊は進む。
その先に待ち受ける激闘を予感しながらも、兵士たちの士気は天を衝くほどに高まっていた。
「これは復讐ではない。日本を救う聖戦である」。
家茂の言葉に、兵士たちの魂が震える。
傍らで見守る和宮の祈りを背に、ついに北の獅子たちが動き出した。
新八ら新選組もまた、研ぎ澄ませた牙を剥く。
津軽海峡を越え、日本を二分する決戦の幕が上がる。




