第212話:江戸の抵抗
薩長軍による占領下、江戸の町は重苦しい空気に包まれていた。
新政府軍の横暴に憤る町火消しの辰五郎を、千葉佐那は静かに諭す。
薩長を中心とする新政府軍が江戸城を接収してから、季節は巡った。
彼らは「王政復古」を掲げ、京では新しい元号の制定を画策しているという噂が流れている。だが、江戸っ子にとってこの街はあくまで「江戸」であり、徳川の世であった。
しかし、その江戸の空には今、重苦しい雲が垂れ込めている。
新政府軍がもたらしたのは、新しい時代の光ではなく、占領軍としての横暴と混乱だけであった。
神田お玉ヶ池にある千葉道場。
北辰一刀流の看板を掲げるこの道場は、かつて坂本龍馬も汗を流した名門である。表向きは、剣術を学ぶ門弟たちの気合に満ちた声が響いているが、その実態は大きく変貌していた。
道場主の娘であり、「千葉の鬼小町」と謳われた千葉佐那は、今や江戸における反薩長勢力の精神的支柱となっていたのである。
「佐那先生! 聴いてくだせぇ!」
道場の板の間をドカドカと踏み鳴らし、一人の男が入ってきた。半纏を粋に着こなした、鳶の頭・新門辰五郎である。その顔は朱に染まり、額には青筋が浮いている。
佐那は稽古をつけていた木刀を下ろし、静かに振り返った。
「どうなさいました、辰五郎親分」
「またあの『芋侍』どもだ! 日本橋の呉服屋に押し入って、『官軍への献金が足りねぇ』だと難癖つけやがった! 挙句の果てに、店の若い衆を殴り飛ばして売り物を荒らし放題だ。あいつら、自分たちが何様だと思ってやがる!」
辰五郎の怒声に、稽古中の門弟たちも手を止め、憤りの表情を浮かべる。彼らの多くもまた、彰義隊の残党や、薩長のやり方に反発して集まった旧幕臣たちであった。
「俺たちが火事場で命張って守ってきた江戸を、あんな田舎侍どもに好き勝手されてたまるか! 佐那先生、もう我慢ならねぇ。俺の組の若いのに合図すりゃ、あんな奴ら袋叩きにしてやるんだが!」
いきり立つ辰五郎を、佐那は凛とした瞳で見据えた。
「なりません、親分」
その声は決して大きくはなかったが、道場内の空気を一瞬で凍らせるほどの威厳があった。
「今、手を出せば、彼らに『暴徒鎮圧』という口実を与えるだけです。そうなれば、江戸の町が火の海になります。親分、あなたは火消しの頭でしょう? 町を燃やしてどうするのです」
「ぐっ……そりゃあ、そうだがよ……」
辰五郎は悔しげに拳を握りしめたが、佐那の理路整然とした言葉に反論できず、肩を落とした。
「今は耐えてください。耐えて、力を蓄えるのです。……必ず、反撃の時は来ます」
佐那の言葉には、確信めいた響きがあった。彼女の視線は、北の空――遥か彼方の北海道へと向けられていた。
その夜、道場の奥座敷には、二人の男の姿があった。
一人は、べらんめえ口調で知られる勝海舟。もう一人は、かつて勘定奉行として幕府財政を支えた小栗忠順である。
行灯の薄明かりの下、佐那は一枚の地図と数冊の帳簿を広げていた。
「これが、今現在の薩長軍の配置図です。品川、板橋、千住……主要な街道口には検問所が設けられていますが、裏道や水路の監視は杜撰そのものです」
佐那が淡々と説明する。
「また、こちらは兵糧の出納帳の写しです。彼らの兵站は限界に来ています。商人たちへの支払いが滞り、米の調達もままなっていません。兵士たちの士気は低下の一途を辿っています」
小栗が帳簿を手に取り、感心したように唸った。
「なるほど。商人たちから裏帳簿を入手したのか。さすがは佐那殿だ。数字は嘘をつかない。薩長の財政基盤は、英国の支援があるとはいえ、末端のやり繰りは、もはや火の車だ」
勝海舟は、扇子をパチリと鳴らして笑った。
「いやはや、千葉の小町は、戦の天才かもしれねぇな。剣の腕だけじゃなく、情報戦でも俺たち古狸の上を行くとは。こりゃあ、西郷どんも夢にも思うめぇよ。江戸のど真ん中に、こんな毒針が仕込まれてるとはな」
「買い被りです、勝先生。私はただ、皆様が繋いでくださった縁を頼りに動いているだけです」
佐那は謙遜したが、その手腕は並外れていた。彼女は道場に出入りする様々な身分の人々――町人、職人、御家人、そして芸者衆に至るまで――を情報源として組織化していたのだ。
「この情報は、すぐに北へ?」
小栗の問いに、佐那は頷いた。
「はい。横浜港に入港している外国商船の中に、坂本龍馬様が手配してくださった協力者の船があります。密書はそこを通じて、北海道政府へ」
「龍馬の野郎、死んだふりして裏で糸を引きやがって。相変わらず食えねぇ男だ」
勝は悪態をつきながらも、その表情はどこか楽しげだった。
「だが、これで『大統領閣下』も動きやすくなるだろう。江戸の民は、徳川の帰還を待ち望んでいる。その火種を絶やさずにいるのが、あんたの役目だ」
「心得ております」
佐那は深く頭を下げた。
小栗は、真剣な眼差しで佐那を見つめた。
「佐那殿。君がいれば、江戸は持ちこたえられる。だが、危険な役回りだ。くれぐれも身の安全だけは……」
「ご心配には及びません。この命、あの方との約束を果たすまでは、決して散らしはしません」
深夜、密談を終えた客たちが去り、道場は静寂に包まれた。
佐那は一人、道場の祭壇の前に座っていた。そこには、一振りの刀が安置されている。
それは、永倉新八が北へ向かう際に、彼女に預けた愛刀・播州住手柄山氏繁であった。
佐那は、その刀を手に取り、鞘からわずかに引き抜いた。
冷ややかな刃の輝きが、彼女の瞳を照らす。
「新八様……」
かつて、この道場で共に汗を流した日々が脳裏をよぎる。不器用で、真っ直ぐで、誰よりも仲間思いだった男。
彼は今、北の大地で新しい国を作るために戦っている。
家茂公を支え、土方歳三らと共に、日本を守るために。
佐那の胸に去来するのは、寂しさではなく、熱い闘志だった。
「私は負けません。あなたが帰ってくる、その場所を守り抜いてみせます」
彼女は刀を鞘に納めると、それを胸に抱きしめた。
刀身から伝わる冷たさが、逆に彼女の心を熱く燃え上がらせる。
外では、風が強まり始めていた。
それは、季節の変わり目を告げる風であり、時代の転換を予感させる嵐の前触れでもあった。
翌日、佐那は再び町に出た。
表向きは、道場の用事で出歩く市井の女。しかし、その帯の間には、北へ送るための極秘文書が隠されている。
すれ違う町人たちが、目配せを送ってくる。
魚屋が、威勢よく声をかけるふりをして、「北の風が強くなってきやしたぜ」と囁く。
髪結いが、「そろそろ、新しい髪型が流行りそうで」と意味深に笑う。
江戸は死んでいない。
薩長の支配という重石の下で、噴火を待つ火の山のように、内側に激しい熱を溜め込んでいる。
その中心に、千葉佐那がいた。
彼女が繋ぐ見えない糸は、江戸と北海道を結び、やがて来る反転攻勢の日に向けて、着実に網を広げていたのである。
北の空を見上げれば、そこには厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいるように見えた。
待っていてください、新八様。
江戸の門を開くのは、私たちです。
佐那は強く帯を締め直し、雑踏の中へと歩みを進めた。その背中は、一人の剣客のものではなく、一軍を率いる将のそれであった。
「千葉の鬼小町」佐那が張り巡らせた情報網は、薩長の兵站の脆さを暴き出し、その情報は龍馬の手引きで北政府へと送られる。
江戸の民の怒りを力に変え、彼女は新八との再会を信じて耐え忍ぶ。
北と東、二つの拠点が呼応し、反撃の時は刻一刻と迫っていた。




