第211話:薩長の動揺
北の女帝即位の報は、瞬く間に京の都を駆け巡る。
民衆の間で囁かれる「偽帝」の噂に、岩倉は焦りを募らせ、西郷と大久保の溝は深まっていく。
京の都は、うだるような暑さと、それ以上に息苦しい空気に包まれていた。
北の大地で和宮が即位し、「静寛の帝」として新たな朝廷を樹立したという報せは、瞬く間に日本全土を駆け巡った。
当初、薩長政府はこれを「徳川の謀略」として一笑に付そうとした。しかし、その甘い見通しは、民衆の反応によって脆くも崩れ去った。
「おい、聞いたか? 北の帝は、本物の宮様らしいぞ」
「ああ。なんでも、亡き孝明の帝の遺詔をお持ちだとか」
「それに比べて、こっちの帝は……」
鴨川の河原で、町人たちが声を潜めて噂話をしている。
彼らの視線の先には、御所がある。そこには、薩長が擁立した幼き帝がいるはずだが、その姿を見た者は誰もいない。
「やっぱりな、あんな子供が帝のはずがねぇ」
「薩長は、俺たちを騙してたんじゃねぇか?」
疑念は、夏の湿気のようにじっとりと、人々の心にまとわりついていた。
この事態に、岩倉具視は神経を尖らせていた。
二条城の一室で、彼は報告に来た部下を怒鳴りつけた。
「取り締まりが温い! 『偽帝』の噂を口にする者は、片っ端から捕らえよ!」
「は、はい! しかし、数が多すぎて牢に入りきりません!」
「ならば斬れ! 見せしめが必要なのだ!」
岩倉の目は血走り、扇子を握る手は震えていた。
彼は知っていた。権力というものが、いかに脆い基盤の上に成り立っているかを。
正統性という名の「錦の御旗」を失えば、薩長政府などただの暴力装置に過ぎない。
「北の魔女め……。よくも、よくもこのわしの顔に泥を塗ってくれたな」
岩倉は、北の方角を睨みつけた。その表情は、公家とは思えぬほど醜悪に歪んでいた。
一方、薩摩藩邸では、西郷隆盛と大久保利通が対峙していた。
かつては阿吽の呼吸で維新を推し進めてきた二人だが、今やその間には埋めがたい溝が生まれつつあった。
「一蔵どん。もう止めんか」
西郷の太い声が、部屋の空気を震わせた。
「民を騙してまで作る国に、何の意味がある! 北の帝が本物なら、我々は朝敵じゃ。これ以上、同胞同士で殺し合うてどうする」
大久保は、冷めた紅茶を一口啜り、静かに答えた。
「吉之助さぁ。今さら何を言うちょる」
その声は、氷のように冷徹だった。
「本物か偽物かなど、どうでもよいことじゃ。何度も言うとるじゃろう、勝った方が官軍。それが歴史の真理じゃろうが」
「一蔵どん!」
「情に流されるな。我々は、もう後戻りできんのじゃ。修羅の道を行くしかないのだ」
大久保は立ち上がり、窓の外を見やった。
「英国からの借款も決まった。最新の兵器も届く。力でねじ伏せれば、民などすぐに黙る」
「……おはん、変わったな」
西郷は、寂しげに呟いた。
「昔の一蔵どんは、もっと民のことを思うておったはずじゃ」
「変わらねば、国は守れん。おはんのように、いつまでも夢を見ていてはな」
大久保は振り返らずに言った。
西郷は、それ以上何も言えず、重い足取りで部屋を出て行った。
閉ざされた扉の向こうで、大久保は一人、拳を握りしめていた。その爪が、掌に食い込んでいた。
薩長軍の内部でも、動揺は隠しきれないものとなっていた。
伏見の屯所では、長州出身の兵士たちが車座になって酒を飲んでいたが、その雰囲気は陰鬱だった。
「なぁ、俺たちは何のために戦ってるんだ?」
一人の若兵士が、ポツリと漏らした。
「故郷の親父には、『帝のために賊軍を倒してくる』って言って出てきたんだ。でもよ、その帝が偽物だったら……俺たちはただの人殺しじゃねぇか」
「馬鹿野郎! 滅多なことを言うな!」
古参の兵士が怒鳴りつけたが、その声には力がなかった。
「……でもよ、北から流れてくるビラ、見たか? 『真の帝は北におわす』って」
「ああ、見た。……正直、あっちの方が筋が通ってる気がするんだよな」
脱走兵も相次いでいた。
夜陰に乗じて屯所を抜け出し、故郷へ帰ろうとする者。あるいは、北へ向かおうとする者。
軍の規律は、音を立てて崩れ始めていた。
◇
そんな中、京の闇に紛れて動く影があった。
新選組の密偵、市村鉄之助である。
まだあどけなさの残る少年だが、その瞳には強い意志が宿っていた。
彼は、新八から託された重要な任務を帯びていた。
それは、北政府の正当性を訴えるビラを、京の市中にばら撒くことだった。
「……よし、今だ」
鉄之助は、新京極の賑わいに紛れ、懐から取り出したビラを空中に放った。
ハラハラと舞い落ちる紙片。
そこには、静寛天皇の御影と共に、薩長政府の欺瞞を告発する文章が記されていた。
「なんだこれは?」
「おい、見ろ! 北の帝のお姿だぞ!」
人々がビラを拾い上げ、ざわめきが広がる。
鉄之助は、それを見届けると、素早く路地裏へと姿を消した。
「待て! 貴様、何奴だ!」
見回りの薩摩兵が気づき、追いかけてくる。
鉄之助は、迷路のような京の路地を駆け抜けた。
心臓が早鐘を打つ。息が切れる。
だが、彼は止まらなかった。
「土方さんのためなら……命なんて惜しくない!」
かつて、北へ向かう船の中で、土方歳三は彼にこう告げた。
『鉄、お前には別の戦場がある。剣ではなく、その目と耳で俺たちを助けろ』
小姓として側に置くのではなく、あえて危険な敵地での諜報任務を与えられたのだ。それは、土方が彼の才覚と胆力を認めた証でもあった。
◇
追手の足音が遠ざかるのを確認し、鉄之助は荒い息を整えていた。
俺は隠れ家である荒物屋の二階で、その帰りを待っていた。
階段を駆け上がってくる軽い足音。
戸が開き、汗まみれの鉄之助が飛び込んできた。
「戻りました、永倉さん」
その顔は紅潮し、目は興奮で輝いている。
「おう、鉄。無事だったか」
俺は安堵の息を漏らし、鉄之助の頭をポンと撫でた。
まだ子供のような柔らかい髪だ。だが、その芯には鋼のような強さが育ちつつある。
「よくやった。お前のおかげで、京の空気は確実に変わりつつあるぞ」
「はい! ……でも、薩長の取り締まりも厳しくなっています。仲間が何人か捕まりました」
鉄之助の表情が曇る。
仲間の犠牲。それは、何度経験しても慣れることのない痛みだ。
「ああ、わかってる。……無理はするなよ。お前は、土方さんが『俺の目となり耳となれ』と送り出した大事な男なんだからな」
俺は諭すように言った。
土方さんがこの子を俺に託した意味。それを無駄にするわけにはいかない。
「永倉さん……」
鉄之助は、潤んだ瞳で俺を見上げた。
その瞳に、かつての俺たち自身の姿が重なる。
純粋で、ひたむきで、そして危ういほどの情熱。
「俺、もっと役に立ちたいです。土方さんや近藤さんが、胸を張って京へ戻ってこられるように」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
そうだ。俺たちはまだ終わっていない。
近藤さんも、土方さんも、そして散っていった多くの仲間たちも、まだ終わってはいないのだ。
「ああ。その日は近いぞ」
俺は、窓の隙間から京の夜空を見上げた。
そこには、北極星が静かに、しかし力強く輝いていた。
あの星の下に、俺たちの帰るべき場所がある。
そして、そこから新しい夜明けが始まるのだ。
◇
翌日、俺は西郷との接触を試みるために動いた。
場所は、祇園の茶屋。
かつて京で暴れ回っていた頃には縁のなかった、静かで格式高い店だ。
芸妓に変装した協力者の手引きで、俺は奥座敷に通された。
畳の匂いと、微かなお香の香りが鼻をくすぐる。
緊張感がないと言えば嘘になる。相手は、今の日本を動かしている男の一人なのだから。
しばらくして、襖が静かに開いた。
現れたのは、巨体の男。西郷隆盛だ。
彼は、護衛もつけずに一人でやってきた。
その堂々たる姿に、俺は思わず息を呑んだ。敵ながら、やはり只者ではない。
「……久しぶりじゃな、永倉どん」
西郷は、どっかと座布団に座り、大きなため息をついた。
その吐息には、世界の重荷を背負ったような疲れが滲んでいた。
「ああ。鳥羽伏見以来だな」
俺は、対面に座り、西郷の顔をじっと見た。
あの頃の覇気はどこへ行ったのか。その顔には、深い疲労と苦悩の色が濃く刻まれていた。
まるで、老人のようだと思った。
「単刀直入に言う。……西郷さん、もう勝負はついたんじゃないのか?」
俺の言葉に、西郷は力なく苦笑した。
「勝負? ……ああ、そうかもしれん。わしらの負けじゃ」
西郷は、懐から一枚の紙切れを取り出した。
昨夜、鉄之助が命懸けで撒いたビラだ。
しわくちゃになったその紙を、彼は愛おしそうに、あるいは忌々しそうに見つめた。
「これを見た時、わしは思うたよ。ああ、天は我らを見放したとな」
「なら、なぜ戦う? なぜ、大久保を止めない?」
俺は問い詰めた。
あんたなら止められるはずだ。あんたなら、この無益な争いを終わらせることができるはずだ。
「……止められんのじゃ。一蔵どんは、もう引き返せんところまで行ってしもうた」
西郷は、遠くを見るような目をした。
その視線の先には、俺には見えない何かがあるようだった。
「それに、わしにも責任がある。ここまで多くの血を流させてしもうた。今さら、わしだけが『間違ってました』と言って逃げるわけにはいかん」
その言葉に、俺は戦慄した。
責任。その二文字が、この男を縛り付けているのか。
「死ぬ気か?」
俺の鋭い問いに、西郷は答えなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
その沈黙が、何よりも雄弁に彼の覚悟を語っていた。
「……永倉どん。もし、わしらが戦場で相まみえることがあれば、その時は手加減無用じゃ」
カッと目を見開き、西郷は言った。
その瞳には、かつての「鬼」の光が宿っていた。
「……わかった」
俺は立ち上がった。
これ以上、言葉は不要だ。
だが、去り際に一つだけ、どうしても伝えておきたいことがあった。
「だが、これだけは言っておく。俺たちは、あんたを殺したくはない。家茂閣下も、そう仰っている」
「……ありがたい言葉じゃ」
西郷は、深々と頭を下げた。
その背中は、あまりにも大きく、そして寂しげだった。
部屋を出て、廊下を歩く俺の耳に、西郷が茶を啜る音が聞こえた気がした。
その味は、きっとひどく苦かったに違いない。
茶屋を出ると、京の町には不穏な風が吹き荒れていた。
それは、時代の変わり目を告げる嵐の前触れであった。
薩長の動揺、民衆の離反、そして北からの圧力。
全てが、一つの結末に向かって収束しようとしているのを肌で感じる。
俺は隠れ家に戻ると、待っていた鉄之助に告げた。
「鉄、準備しろ。北海道に帰るぞ」
「帰る? ……京の任務は終わりですか?」
鉄之助がキョトンとした顔で尋ねる。
「ああ。ここでの種蒔きは終わった。次は、花を咲かせる番だ」
俺は、東の空を見据えた。
そこには、俺たちの帰りを待つ仲間たちがいる。
そして、新しい時代が待っている。
土方から託された密命を胸に、鉄之助は京の街で情報戦を仕掛ける。
ビラ一枚が剣よりも鋭く薩長の急所を突き、兵士たちの戦意を削いでいく。
新八が描いた「北の連帯」は、内部崩壊という形で敵を蝕み始めた。
揺らぐ巨城、その崩壊の序曲が鳴り響く。




