第210話:南北朝の再来
静寛元年、夏。
京には薩長が擁立した幼き偽帝、北には正統な皇位を継ぐ女帝・静寛天皇。
二つの朝廷が並立する「南北朝」の再来に、日本は揺れていた。
静寛元年(1869年)、夏。
史実では、明治二年に相当し、五月には箱館戦争が終結していた年。
日本列島は、かつてない異常事態に見舞われていた。
京には、薩長が擁立した幼き偽帝。
北には、孝明天皇の遺詔を受け継ぎ、自ら皇位を継承した女帝・静寛天皇(和宮)。
二人の天皇、二つの朝廷が並立する、「南北朝」の再来である。
京の都は、重苦しい空気に包まれていた。
御所の奥深く、幼帝の御座所の前で、西郷隆盛は平伏していた。
御簾の向こうにいるのは、まだ物心もつかない幼児である。
岩倉具視や大久保利通は、これを「玉」として利用し、自分たちの政権に正統性を持たせようとしている。
だが、西郷の心は晴れなかった。
「……おいどんは、何のために戦ってきたんじゃろうか」
退出した後、西郷は一人、御所の庭で空を見上げた。
夏の強い日差しが、容赦なく降り注ぐ。
脳裏に浮かぶのは、かつて勝海舟と語り合った「新しい日本」の姿であり、そして敵ながら天晴れな態度を貫いた徳川家茂の顔だった。
民のための政治。
異国に負けない強い国。
その理想を掲げて倒幕に邁進してきたはずが、気がつけば、自分たちは幼子を盾にし、異国の力を借りて同胞を殺そうとしている。
北からは、和宮即位の報せと共に、彼女が発した「民の安寧を第一とする」という宣言が届いていた。
その言葉の重みは、皮肉にも、今の薩長政府が失ってしまった「大義」そのものではないか。
「吉之助さぁ」
背後から声をかけられた。大久保利通だった。
幼馴染であり、盟友である男の顔は、能面のように冷徹だった。
「北の女帝の件、耳に入っておるか」
「ああ……。民は、動揺しとるそうじゃな」
「動揺などさせん。あれは偽帝じゃ。徳川がでっち上げた傀儡に過ぎん」
大久保は吐き捨てるように言った。
「徹底的に情報統制を敷く。北からの流言飛語を広める者は、容赦なく処罰せよ」
「……一蔵どん。民の口は塞げても、心までは塞げんぞ」
「甘いことを言うな。今は非常時じゃ。勝てば官軍、負ければ賊軍。我々は勝つしかないんじゃ」
大久保の瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
西郷は、それ以上何も言えず、ただ黙って頷くしかなかった。
一方、北の大地、北海道。
五稜郭の執務室で、俺は巨大な日本地図を広げていた。
その地図には、無数の赤い矢印と、青い丸印が書き込まれている。
赤い矢印は薩長軍の動き、青い丸印は北政府に好意的な藩を示していた。
「……やはり、北陸と東北が鍵だな」
俺は、独り言のように呟いた。
周りには、山のように積まれた報告書がある。
それらは全て、北前船のルートを使って日本海側の諸藩から届けられた密書だった。
北前船。
かつて北海道と大坂を結び、莫大な富をもたらした海の道。
薩長が瀬戸内海や太平洋側の航路を封鎖しようとも、日本海側のこのルートまでは完全に抑えきれていない。
俺は、この「海の道」を「情報の道」、そして「反攻の道」に変えようとしていた。
「永倉さん、加賀藩からの使者が到着しました」
扉をノックして入ってきたのは、山南敬助だった。
彼は現在、新選組の総長という立場に加え、北政府の情報分析官としての役割も担っている。
その手には、分厚い封書が握られていた。
「加賀百万石か。……どうだ、感触は?」
「悪くありません。彼らも、薩長の重税には辟易しているようです」
山南は、眼鏡の位置を直しながら報告を始めた。
「薩長は、戦費調達のために、諸藩に対して過酷な御用金を課しています。特に、裏切りを警戒している北陸や東北の諸藩に対しては、懲罰的とも言える額を要求しているとか」
「なるほど。……自分たちで自分の首を絞めているようなもんだな」
俺は皮肉っぽく笑った。
「民衆の間でも、『偽の帝』の噂は広まっています。特に、和宮様が即位されたことで、『あの方こそ、孝明天皇の正統な後継者だ』という声が強まっています」
「血筋、カリスマ性、そして実績。……カードは揃ったな」
俺は地図上の加賀、越前、そして仙台といった要衝を指でなぞった。
「今こそ、彼らに檄を飛ばす時だ。『偽りの帝を倒し、真の日本を取り戻そう』とな」
数日後、五稜郭の会議室に、土方歳三、榎本武揚、そして徳川家茂大統領が集まった。
俺は、彼らの前で反攻作戦の概要を説明した。
「現在、薩長軍の主力は、関東と京に集中しています。日本海側の守りは手薄です」
俺は指示棒で地図を叩いた。
「我々は、北前船を使って、北陸・東北の諸藩に武器と資金を援助します。そして、彼らを一斉に蜂起させる。……名付けて『北の連帯』作戦です」
「面白い」
土方が、ニヤリと笑った。
「薩長の連中は、俺たちが北海道に引き籠もっていると思っているだろう。その背中を、内側から刺すわけか」
「ええ。……それに、彼らには大義名分があります。『静寛天皇陛下の御為』という錦の御旗が」
家茂閣下が、深く頷いた。
「宮の名が、それほどの力を持つとはな。……だが、民を戦火に巻き込むことになる。その覚悟はできているか?」
「はい。……だからこそ、短期決戦で決める必要があります」
俺は、家茂の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「長引けば、国が疲弊し、それこそ異国の思う壺です。……一気に、京まで駆け上がります」
その夜、函館の港から、数隻の高速船が出航した。
積み荷は、最新式のライフル銃と、和宮(静寛天皇)の署名が入った親書。
そして、それぞれの船には、新選組の隊士たちが密使として乗り込んでいた。
斎藤一は越後へ。
原田左之助は仙台へ。
そして、俺自身もまた、ある重要な人物に会うために、密かに船上の人となっていた。
日本海は、夏の穏やかな波に揺られていた。
船の甲板で、俺は夜風に当たっていた。
「……近藤さん。そっちはどうです?」
俺は、暗い海原の向こう、京の方角を見据えて呟いた。
表舞台からは姿を消したが、あの人は今も戦っている。
地下に潜り、薩長の足元を崩すために。
俺たちが北から攻め下る時、必ず内側から呼応してくれるはずだ。
歴史は変わった。
だが、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本当の戦いだ。
薩長という巨大な敵を倒し、新しい日本を作る。
そのために、俺はあらゆる手を使う。
たとえそれが、修羅の道だとしても。
北陸の某所。
深夜の寺院に、数人の男たちが集まっていた。
彼らは皆、身分の高い武士の格好をしているが、その表情は一様に暗い。
「……薩長の要求は、もはや限界を超えている」
「このままでは、藩が潰れるぞ」
「しかし、逆らえば朝敵の汚名を着せられる……」
重苦しい沈黙が流れる中、一人の僧侶が襖を開けた。
「お客様がお見えです」
僧侶の背後から現れたのは、旅姿の男だった。
男は笠を取り、不敵な笑みを浮かべた。
「朝敵? ……誰が朝敵だと言うのです?」
その男、斎藤一は、懐から一通の書状を取り出した。
そこには、菊の御紋と共に、鮮やかな筆致でこう書かれていた。
『朕ガ臣民ヨ、今コソ立チ上ガレ』
静寛天皇からの勅書であった。
男たちは息を呑み、そして震える手でその書状を受け取った。
「こ、これは……」
「本物の帝は、北におわす。……京にいるのは、薩長が操る偽物だ」
斎藤の声は、低く、しかし力強く響いた。
「あんたたちの忠義、捧げる相手を間違えちゃいないか?」
同様の光景が、東北各地で繰り広げられていた。
仙台では、原田左之助が豪快に酒を飲みながら、藩の重役たちを説得していた。
「細かいことは気にするな! 勝てば官軍だろ? 俺たちには、最強の大統領と、最高の女帝がついてるんだ!」
彼の底抜けに明るい態度は、不安に沈んでいた仙台藩士たちの心を解きほぐしていった。
そして、五稜郭。
情報が集約される作戦司令室で、山南敬助は次々と入る報告に目を通していた。
加賀、越前、秋田、新庄、仙台、米沢、……。
地図上の青い丸印が、一つ、また一つと増えていく。
それはまるで、北から南へと広がる、希望の火のようだった。
「副長」
山南は、窓辺で煙草をふかしている土方に声をかけた。
「機は熟しました。民心は、我にあります」
土方は、ゆっくりと煙を吐き出し、振り返った。
その顔には、かつて京で「鬼の副長」と呼ばれた頃の、鋭く、そして楽しげな笑みが浮かんでいた。
「よし。……そろそろ、喧嘩の支度をするか」
土方は、腰の和泉守兼定を軽く叩いた。
「薩長の連中に教えてやるよ。……本物の『官軍』が、どっちなのかをな」
北の風が、強く吹き始めた。
その風は、やがて嵐となり、日本全土を巻き込む大きなうねりとなろうとしていた。
南北朝の再来。
それは、単なる権力争いではない。
日本の未来を賭けた、思想と魂の戦争の始まりであった。
北陸・東北諸藩を巻き込む「北の連帯」作戦。
薩長の圧政に苦しむ諸藩に対し、女帝という錦の御旗を掲げ、新八たちは反攻の狼煙を上げる。
北前船が繋ぐ海の道は、武器と情報を運び、京へと続く革命の導火線となる。
日本を二分する戦いが始まる。




