第207話:孝明天皇、崩御
五稜郭が共和国樹立の祝賀ムードに包まれる中、北の大地にも遅い春が訪れていた。
史実とは異なり、薩長の手を逃れ新八たちと共に蝦夷地へ渡った孝明天皇。
しかし、最愛の皇子を奪われ国を追われた帝の心身は、すでに限界を迎えていた。
慶応五年、六月。
北の大地にようやく訪れた遅い春が、早くも初夏の気配へと変わりつつある季節。
五稜郭の周囲では、エゾヤマザクラが散り、新緑が目に眩しいほどに輝いていた。
史実において、孝明天皇が崩御されたのは慶応二年十二月のことである。死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視らによる毒殺説も根強く囁かれている。
しかし、この世界線において、帝は生き延びた。
薩長の手から逃れ、新選組に守られ、遥か北の大地へと渡ったのだ。
だが、運命は過酷だった。
帝の命は、三年という猶予を得たに過ぎなかったのかもしれない。
五稜郭の奥深くにある特別室は、重苦しい静寂に包まれていた。
帝の容態が急変したのは、北海道共和国樹立の祝賀ムードがまだ冷めやらぬ、ある雨の夜のことだった。
長旅の疲労、慣れない北国の気候、そして何より、最愛の息子・睦仁親王を暗殺され、国を追われたという精神的な重圧が、陛下の体を限界まで追い詰めていたのだ。
天然痘による高熱ではなく、心労と衰弱による静かな旅立ちであった。
「……家茂、和宮……」
薄暗い部屋に、掠れた声が響く。
枕元には、徳川家茂と和宮が控えていた。
家茂は、共和国の大統領として多忙な日々を送っていたが、帝の容態急変の報せを受け、すべての公務をキャンセルして駆けつけていた。
和宮は、兄の手を両手で包み込み、涙を堪えていた。
「兄上……ここに、おります」
「……そうか。……よく、来てくれた」
帝は、痩せ細った指で、和宮の手を握り返した。
その力は弱々しかったが、確かな温もりが伝わってきた。
「家茂……」
「はっ。……義兄上」
家茂は、膝をつき、帝の顔を覗き込んだ。
ここには、大統領と帝という関係はない。
ただ、義理の兄弟として、そして同じ志を持つ同志としての絆があるだけだった。
「……この国を……、日本を、頼む」
帝の瞳が、一瞬だけ強く輝いた。
「薩長の……逆賊どもに、この国を……渡してはならぬ。……睦仁の……仇を……」
「必ず!」
家茂は、涙を流しながら叫んだ。
「必ずや、逆賊を討ち果たし、正しき日本を取り戻してみせます! ……この家茂の命に代えても!」
「……うむ。……そなたなら、できる。……信じておるぞ」
帝は、安堵したように微笑んだ。
そして、視線を和宮へと移した。
「和宮……」
「はい、兄上」
「……苦労を、かけたな。……だが、そなたは……強い。……これからは、そなたが……」
言葉は、そこで途切れた。
帝の目が、ゆっくりと閉じられる。
握られていた手の力が、ふっと抜けた。
「……兄上? ……兄上!」
和宮の悲痛な叫びが、部屋に響き渡った。
外では、雨が激しさを増していた。
まるで、天もまた、帝の死を悼んでいるかのように。
その夜、五稜郭は深い悲しみに包まれていた。
雨音だけが、静寂を破るように響いている。
俺は、詰め所の軒下で、雨に打たれる五稜郭を見つめていた。
冷たい雨が、頬を伝う。
それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからなかった。
「……帝」
俺は、拳を握りしめた。
あの日のことが、昨日のことのように思い出される。
京の路地裏で、睦仁親王の遺体を見つけた時の絶望。
それを隠蔽し、偽物を立てて権力を握ろうとする薩長の卑劣さ。
そして、病身を押してまで、我々と共に北へ逃れることを選んだ帝の覚悟。
そのすべてが、今の俺たちを作っている。
「必ず、仇は討ちます」
俺は、雨に向かって誓った。
「そして、睦仁殿下の魂も、必ず救ってみせます。……見ていてください」
新選組の屯所では、土方歳三が隊士たちを集めていた。
広間に整列した隊士たちの顔は、一様に沈痛だった。
土方は、いつものように厳しい表情で、しかしどこか静かな声で告げた。
「……先ほど、帝が崩御された」
どよめきが走る。
すすり泣く声も聞こえる。
新選組にとって、帝は絶対的な存在であり、心の支えだった。
その帝が、志半ばで倒れたのだ。
「静まれ!」
土方の一喝が飛ぶ。
広間が再び静まり返る。
「我々の悲しみは深い。……だが、今は泣いている場合ではない」
土方の目が、鋭く光った。
「薩長の逆賊どもは、今ものうのうと生きているのだからな。……帝を死に追いやったのは、奴らだ。奴らが、帝の心を殺し、体を蝕んだのだ!」
その言葉に、隊士たちの目に、悲しみとは違う色が宿り始めた。
怒り。憎しみ。そして、復讐の炎。
「泣く暇があったら、刀を研げ! 銃の手入れをしろ!」
土方は、拳を突き上げた。
「我々は、帝の無念を晴らすために存在する! 逆賊どもを一人残らず地獄へ叩き落とすまで、我々の戦いは終わらん! ……わかったか!」
「おうっ!!」
隊士たちの咆哮が、雨音を掻き消した。
その中で、斎藤一だけは無言だった。
彼は、愛刀の柄を強く握りしめ、ただ一点を見つめていた。
その体からは、触れれば切れるような、鋭い殺気が立ち昇っていた。
言葉はいらない。
彼の背中が、すべてを語っていた。
一方、帝の遺体が安置された部屋では、和宮が一晩中、泣き明かしていた。
彼女は、兄の冷たくなった頬に触れ、何度も何度も名前を呼んでいた。
家茂は、そんな妻の背中を、優しくさすり続けていた。
かける言葉が見つからなかった。
どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かないことを知っていたからだ。
ただ、そばにいること。
それだけが、彼にできる精一杯のことだった。
「……宮さん」
夜が明けようとする頃、家茂は静かに口を開いた。
「泣きたいだけ、泣けばいい。……だが、明日は顔を上げてくれ」
和宮の肩が、びくりと震えた。
「民が、そなたを待っている。……そして、兄上も、そなたが泣き続けることを望んではおられぬはずだ」
和宮は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は赤く腫れ上がっていたが、そこには以前のような弱さはなかった。
「……はい」
彼女は、涙を拭い、家茂を見つめた。
「わかっております。……私は、徳川の妻であり、帝の妹ですから」
翌朝。
雨は上がり、雲の切れ間から薄日が差していた。
五稜郭の広場には、政府高官や軍の幹部たちが集められていた。
皆、喪章を付け、沈痛な面持ちで整列している。
そこへ、家茂と共に和宮が現れた。
彼女は、喪服に身を包んでいたが、その背筋はピンと伸び、凛とした空気を纏っていた。
彼女は、集まった人々の前で、静かに、しかしはっきりとした声で宣言した。
「兄上の遺志は、私たちが継ぎます」
その声は、五稜郭の隅々まで響き渡った。
「逆賊を討ち、日本を正しき道へ戻すまで、私たちは戦います。……たとえ、この身がどうなろうとも」
その姿は、もはや深窓の姫君ではなかった。
悲しみを乗り越え、覚悟を決めた、一国の指導者としての威厳に満ちていた。
俺は、その姿を見て、震えた。
この人は、強い。
家茂公が選んだ伴侶だけのことはある。
そして、この人たちとなら、俺たちはどこまでも戦える。
そう確信した。
土方が、俺の横で小さく呟いた。
「……女は強ぇな」
「ああ。……男以上にかもしれない」
俺たちは顔を見合わせ、微かに笑った。
悲しみは消えない。
だが、絶望ではない。
帝の死は、終わりではなく、新たな戦いの始まりなのだ。
北の大地に、冷たい風が吹き抜ける。
だが、その風は、どこか熱を帯びているように感じられた。
それは、我々の胸の中で燃え上がる、復讐と再生の炎の熱さだったのかもしれない。
帝の崩御という悲劇は、新八たち新選組に深い悲しみと同時に、薩長への激しい復讐心を植え付けた。
義兄として帝を看取った家茂の決意、そして土方の一喝により再び闘志を燃やす隊士たち。
悲しみを乗り越え、逆賊討伐という大義に向け、彼らの終わらない戦いが再び幕を開ける。




