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第205話:春の訪れ

長く厳しかった冬を越え、北の大地にもようやく春が訪れた。

西洋医学の力で快方に向かう沖田総司の姿や、開拓地で芽吹く新たな命に、新八たちは確かな希望を感じていた。

 北の大地に、ようやく遅い春が訪れた。

 五稜郭の堀を覆っていた厚い氷も解け始め、水面には柔らかな日差しが反射してきらきらと輝いている。

 長く、厳しかった冬。

 それは、我々にとって試練の季節であった。

 寒さと飢え、そして見えない未来への不安。

 だが、人々は耐え抜いた。

 凍てつく大地の下で、じっと春を待つ種子のように、希望を捨てずに生き抜いたのだ。


「生き延びたな……」

 俺は、五稜郭の土手に腰を下ろし、頬を撫でる春風を感じながら呟いた。

 風には、まだ微かに冬の冷たさが残っているが、その奥には確かな温もりがある。土の匂い、若草の匂い、そして生命の息吹。

 足元を見れば、枯れ草の間からフキノトウがひょっこりと顔を出している。

 その淡い緑色は、どんな宝石よりも美しく、力強く見えた。


「新八さん、桜はまだですかね」

 隣で、穏やかな声がした。

 沖田総司である。

 彼は、厚手の羽織を肩にかけ、少し眩しそうに空を見上げている。

 その顔色は、以前のような土気色ではなく、ほんのりと赤みが差していた。頬も少しふっくらとして、かつての少年の面影を取り戻しつつある。

 北海道の清浄な空気と、西洋医学による治療、そして何より、生きるという強い意志が、彼の体を蝕む病魔を押し留めているようだった。

「ああ、こっちの桜は五月になってからだそうだ。江戸よりはずいぶん遅いな」

「五月ですか……。待ち遠しいですね」

 沖田は微笑んだ。

「でも、こうして春を迎えられただけで、僕は幸せですよ。もう二度と桜は見られないかも、と思っていましたから」

「馬鹿野郎。縁起でもないことを言うな」

 俺は、沖田の頭を軽く小突いた。

「お前はまだ死なねぇよ。俺たちが作る新しい国を、その目で見届けるまではな」

「ええ。そうですね」

 沖田は、遠くの山々を見つめた。

 その瞳には、かつてのような死の影はなく、未来への希望の光が宿っていた。


 五稜郭の内部では、人々が忙しく動き回っていた。

 開拓地へ向かう農民たち、物資を運ぶ荷車、そして練兵場から聞こえる兵士たちの掛け声。

 冬の間、じっと耐え忍んでいたエネルギーが、一気に爆発したかのような活気がそこにはあった。

 畑には作物の芽が出始め、家々の煙突からは炊事の煙が立ち上る。

 子供たちの笑い声が響き、女たちの井戸端会議にも花が咲く。

 それは、どこにでもある平和な日常の風景だった。

 だが、その日常こそが、我々が命を懸けて守り抜いたものなのだ。


 しかし、その穏やかな時間は、嵐の前の静けさでもあった。

 午後、俺は徳川家茂に呼び出され、奉行所の大広間へと向かった。

 そこには、土方歳三、榎本武揚、そして松浦武四郎ら、北海道共和国の主要メンバーが集まっていた。

 皆、表情は硬い。

 上座には家茂が座り、その隣には和宮が控えている。

 家茂の顔つきは精悍さを増し、一国の指導者としての威厳に満ちていた。

「皆、集まってくれたか」

 家茂が、静かに口を開いた。

「先ほど、坂本龍馬より急報が入った」

 その言葉に、室内の空気が張り詰める。

「薩長軍が、動いたそうだ」

 予想していたこととはいえ、実際にその言葉を聞くと、背筋に冷たいものが走る。

「雪解けを待っていたのでしょう。……奴らも、必死だということです」

 土方が、腕を組みながら言った。

「規模は?」

「総勢、三万。……それに、英国から供与された最新鋭の艦隊も随伴しているとのことだ」

 榎本が、苦渋の表情で答えた。

 三万。

 我々の兵力は、国民皆兵でかき集めても一万に満たない。

 数だけで言えば、圧倒的な劣勢だ。

「三倍か……。上等じゃねぇか」

 原田左之助が、強がって見せるが、その声には微かな緊張が滲んでいた。

「数だけが戦の勝敗を決めるわけではない。……だが、厳しい戦いになることは間違いない」

 家茂は、全員の顔を見渡した。

「皆に問う。……恐ろしいか?」

 沈黙が流れた。

 恐ろしくないと言えば嘘になる。

 相手は、官軍の名を掲げ、最新兵器で武装した大軍だ。

 負ければ、我々は逆賊として処刑され、この国は薩長の思い通りになるだろう。

 だが、ここで引くわけにはいかない。

「上様」

 俺は、一歩前に進み出た。

「俺たちは、ここまで来ました。もう、後戻りはできません。……それに、俺たちには守るべきものがあります」

 俺の脳裏に、先ほど見たフキノトウや、子供たちの笑顔が浮かんだ。

「この北の大地で、俺たちは新しい希望の種を蒔きました。それを、奴らの軍靴で踏みにじらせるわけにはいきません」

「その通りだ」

 土方も続いた。

「俺たちは、負けるためにここまで来たんじゃねぇ。勝つために、そして生きるために来たんだ」

 他の者たちも、次々と頷く。

 その目には、恐怖を乗り越えた決意の炎が燃えていた。


 家茂は、満足げに頷いた。

 そして、ゆっくりと立ち上がった。

「冬は終わった」

 その声は、力強く、そして透き通るように響いた。

「長く、暗い冬は終わったのだ。これより、我らの反撃の季節が始まる!」

 家茂の言葉に、全員が居住まいを正す。

「我々は、ただ逃げ延びた敗残兵ではない。新しい日本を創るための、開拓者だ! 薩長が古い権威と武力でこの国を支配しようとするなら、我々は自由と共和の精神でそれに対抗する!」

 家茂は、拳を握り締めた。


 その時、榎本武揚が分厚い書物を机の上に置いた。

 『万国公法』である。

「上様、そして皆さん。戦争にもルールがあります」

 榎本は、オランダ留学で培った知識を武器に語り始めた。

「我々が『交戦団体』として認められるためには、明確な領土、組織された政府、そして軍隊が必要です。これらが揃って初めて、諸外国は我々を対等な交渉相手として認めるのです」

 同席していたフランス軍事顧問団のブリュネ大尉も、通訳を介して発言した。

「ムッシュ・エノモトの言う通りです。もし貴国が正式な政府を樹立し、選挙によって指導者を選出したとなれば、フランスとしても公然と支援しやすくなります。『民主主義の守護者』という大義名分が立ちますからね」

 ブリュネの言葉に、家茂は深く頷いた。

「なるほど。……つまり、薩長軍が到着する前に、我々が『国』としての形を整えれば、彼らは容易に手出しできなくなるということか」

「はい。国際法を盾に、彼らの侵攻を『不当な侵略』として世界に訴えることができます」

 榎本が力を込めて言った。

「薩長は『官軍』を名乗っていますが、我々が正当な手続きを経て建国すれば、どちらが本当の『官軍』か、世界は判断に迷うでしょう。……いや、民主的な手続きを経た我々の方に、理があると見るはずです」


 家茂は、決断を下した。

「わかった。直ちに建国を宣言し、入札(選挙)を行う。……これは、薩長に対する政治的な先制攻撃だ」

 その言葉に、場がどよめいた。

「入札……ですか?」

 旧幕臣の一人が、戸惑ったように尋ねる。

「そうだ。身分に関係なく、民の意志で指導者を選ぶ。……それが、この国の新しい形だ」

 家茂は、真っ直ぐに俺たちを見つめた。

「余は、将軍としてではなく、民に選ばれた代表として、この国を率いたい。……皆、力を貸してくれ」

 その瞬間、俺の中に熱いものが込み上げてきた。

 将軍自らが、特権を捨てて民の審判を仰ぐ。

 これほどの覚悟が、かつてあっただろうか。

「承知いたしました!」

 俺は、誰よりも早く声を上げた。

「俺たちが、必ず成功させてみせます。……世界初の、武士による民主主義国家を!」


 会議が終わった後、俺は和宮に呼び止められた。

「永倉様」

 彼女は、凛とした表情で俺を見つめた。

 かつて、京の御所で見た深窓の姫君の面影は残っているが、その瞳には強い意志が宿っている。

「これをお願いします」

 彼女が差し出したのは、美しい刺繍が施されたお守りだった。

「これは……?」

「私が縫いました。……皆様の無事を祈って」

 和宮は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「戦場に出ることはできませんが、心は皆様と共にあります。……どうか、生きて帰ってください」

「……ありがたく、頂戴いたします」

 俺は、そのお守りを大切に懐にしまった。

 それは、どんな名刀よりも、どんな最新兵器よりも、俺に勇気を与えてくれる気がした。

 和宮もまた、戦っているのだ。

 彼女は、愛する夫を、そして兄である帝を守るために、自らの運命と戦っている。

 その覚悟に、俺は胸が熱くなった。


 夕暮れ時、俺は再び土手に出た。

 空は茜色に染まり、五稜郭の星型がくっきりと浮かび上がっている。

 その美しい要塞は、これから始まる激戦の舞台となるだろう。

 だが、不思議と不安はなかった。

 俺の中にあるのは、静かな闘志だけだ。

「新八」

 土方がやってきた。

 彼は、俺の隣に並び、同じ夕日を見つめた。

「いよいよだな」

「ああ」

「……勝てると思うか?」

 土方が、珍しく弱気なことを口にした。

 俺は、ニヤリと笑って答えた。

「勝てますよ。……俺たちがいるんだ」

 根拠のない自信かもしれない。

 だが、俺たちは数々の修羅場をくぐり抜けてきた。

 池田屋、禁門の変、鳥羽伏見……。

 その度に、仲間を失い、傷つきながらも、生き残ってきた。

 その経験が、俺たちを支えている。

「そうだな。……俺たちが負けるわけがねぇ」

 土方も笑った。

 その笑顔は、かつて試衛館で見た、負けず嫌いの悪ガキの顔だった。


 風が吹いた。

 春の風だ。

 それは、新しい時代の到来を告げる風であり、同時に戦いの始まりを告げる風でもあった。

 俺は、懐のお守りを握り締めた。

 その温もりが、俺の心に火を灯す。

 この北の大地で、俺たちは歴史を変える。



圧倒的な戦力差を前にしても、新八たちの瞳から決意の炎が消えることはなかった。

ただ逃げ延びた敗残兵ではなく、新しい日本を創る開拓者としての誇り。

家茂の力強い言葉が、五稜郭に集う者たちの心を一つにする。

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