第202話:佐那の戦い
官軍の支配下にある慶応五年の江戸。北の大地で戦う新八を想い、千葉佐那は道場を守り続けていた。
だが彼女はただ待つだけの女ではない。
勝海舟らと連携し、裏から北を支える補給線を築いていたのだ。
第202話:佐那の戦い
北の大地に遅い春が訪れようとしていた頃、かつての幕府の中心地であった江戸は、重苦しい空気に包まれていた。
薩長を中心とする新政府軍が江戸城を接収し、街の至る所に「官軍」の旗が翻っている。しかし、その支配は決して盤石なものではなかった。
表向きは恭順を示しながらも、裏では薩長の専横に反発する勢力が、静かに、しかし確実に根を張り始めていたのである。
神田お玉ヶ池。
かつて多くの剣客たちが汗を流した北辰一刀流・千葉道場。
その道場主である千葉定吉は、娘の佐那と共に、道場の奥座敷で一人の男と対峙していた。
「……なるほど。北への物資輸送、順調のようだな」
そう言って茶を啜ったのは、勝海舟である。彼は隠居の身を装いながらも、その鋭い眼光は衰えていなかった。
「はい。父や兄の協力もあり、米や医薬品、それに……」
佐那は声を潜め、懐から一枚の目録を取り出した。
「最新式の雷管と、硝石です。これらは、横浜の外国人居留地にいる知人を通じて手配しました」
勝は目録に目を通し、感嘆のため息を漏らした。
「たいしたもんだ。これだけの量を、薩長の鼻先で動かすとはな。千葉の小町は、剣だけでなく商才もあると見える」
「お戯れを。……私はただ、あの方のためにできることをしているだけです」
佐那は凛とした表情で答えた。その瞳には、遠く北の地にいる想い人、永倉新八への揺るぎない愛と信頼が宿っていた。
永倉が北へ旅立ってからも、佐那はただ待つだけの女であることを、良しとしなかった。彼の志を支えるため、自らも戦い続けることを選択したのだ。
彼女は道場のネットワークを駆使し、旧幕臣や商人たちと連携して、北海道共和国への支援ルートを確立していた。表向きは「道場の門弟への差し入れ」や「商取引」を装い、裏では軍需物資を送り続けている。
「佐那殿、君は立派な武士だ」
ふすまが開き、もう一人の男が入ってきた。小栗忠順である。
彼は勘定奉行として幕府財政を支えた切れ者だが、今は薩長から「朝敵」として追われる身であった。佐那は彼を道場の隠し部屋に匿い、その知恵を借りていたのである。
「小栗様。……いいえ、私は武士ではありません。ただ、愛する人の帰りを待つ女です」
佐那は首を振り、北の空を見上げた。
「新八様、もう少しの辛抱です。必ず、この物資を届けます」
その夜。
道場は静寂に包まれていた。
佐那は道場の床を雑巾で拭きながら、心を鎮めていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい音が、静寂を刻む。
ふと、佐那の手が止まった。
表の通りから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえたからだ。それも、ただの通行人ではない。鉄の鋲が打たれた草鞋の音。そして、微かに聞こえる鞘走りの音。
(……来た)
佐那は雑巾を置き、壁に立てかけてあった薙刀を手に取った。
最近、薩長の見廻組が頻繁に道場の周辺を嗅ぎ回っていた。物資の輸送ルートが露見したわけではないだろうが、人の出入りが多いことを怪しんでいるのだろう。
ドンドンドン!
激しく門が叩かれる。
「御用だ! 開けろ!」
荒々しい声が響く。
佐那は深呼吸をし、着物の襟を正すと、静かに玄関へと向かった。
父の定吉や兄の重太郎も、すでに木刀を手に奥から出てきていた。
「佐那、下がっていろ」
重太郎が言うが、佐那は首を振った。
「いいえ、兄上。ここは私が対応します。小栗様を奥へ」
佐那は小声で指示すると、毅然とした態度で閂を外した。
ガラリと扉が開くと、提灯を持った数人の男たちが雪崩れ込んできた。
揃いの羽織には、薩摩の家紋。見廻組である。
「夜分に何用ですか」
佐那は薙刀を突き立て、冷ややかに問うた。
「ふん、女か。……怪しい動きがあるとの密告があった。道場を改めさせてもらう」
隊長らしき男が、佐那を舐めるような目で見下ろす。
「ここは千葉道場。神聖な稽古場です。土足で踏み入るような無礼は許しません」
佐那の声は低く、しかしよく通った。
「黙れ! 官軍に逆らう気か!」
男が怒鳴り、佐那の肩を突き飛ばそうと手を伸ばす。
その瞬間。
ヒュンッ!
風を切る音がして、男の手が空を切った。
佐那が半身を引き、薙刀の石突で男の手首を軽く弾いたのだ。
「痛っ!」
男は手首を押さえて後ずさる。
「……無礼な振る舞いは許しません、と申し上げました」
佐那は薙刀を構え直した。その切っ先は、男の喉元を正確に捉えている。
「き、貴様……!」
男たちは色めき立ち、一斉に刀に手をかけた。
「おやめなさい!」
奥から定吉が一喝した。
「千葉道場は、天下の北辰一刀流。いかなる理由があろうと、理不尽な暴力には屈しません。もし強引に押し入ろうとするなら、それ相応の覚悟をしていただきましょう」
定吉の後ろには、重太郎をはじめとする屈強な門弟たちが、木刀を構えて並んでいた。
その気迫に、見廻組の男たちはたじろいだ。
彼らは所詮、戦勝の余韻に浸って威張り散らしているだけの兵士だ。本気で殺し合いをする覚悟などない。
「……チッ。覚えておけよ」
隊長は捨て台詞を吐くと、部下たちを連れて逃げるように去っていった。
嵐が去った後のような静けさが戻る。
佐那は薙刀を下ろし、ふぅと息を吐いた。
「佐那、見事だったぞ」
定吉が娘の肩を叩く。
「いえ……。ですが、これで目を付けられたことは間違いありません」
佐那の表情は曇っていた。
「ああ。早急に手を打つ必要があるな」
奥から小栗が出てきた。
「私の存在が知られれば、千葉道場ごと潰される。……ここを出よう」
「小栗様、しかし……」
「心配無用だ。勝殿が、別の隠れ家を用意してくれている。それに、私もいつまでも隠れているつもりはない」
小栗は力強い目で佐那を見つめた。
「君の勇気に、私も火がついたよ。……佐那殿、君が守ろうとしているのは、単なる物資ではない。日本の未来そのものだ」
その言葉に、佐那は胸が熱くなるのを感じた。
「はい。……必ず、守り抜きます」
数日後。
横浜港の片隅に、一隻の外国商船が停泊していた。
闇に紛れて、数台の荷車が桟橋へと進んでいく。
その先頭には、男装した佐那の姿があった。
「急いで! 夜明けまでに出航させないと!」
佐那は小声で指示を飛ばす。
荷車には、米俵や木箱が山積みされている。その中には、小栗が手配した最新鋭の兵器や、勝が集めた海図なども隠されていた。
船員たちが手際よく荷物を積み込んでいく。
「これで最後です」
最後の荷物が積み込まれた時、背後から声がかかった。
「おやおや、こんな夜更けに夜逃げですかい?」
佐那が振り返ると、そこには数人の男たちが立っていた。
見廻組ではない。着流しに大小を差した、浪人風の男たちだ。だが、その目つきは鋭く、只者ではない雰囲気を漂わせている。
(……薩摩の隠密か)
佐那は瞬時に悟った。
「何の用だ」
佐那は声を低くし、男のような口調で問うた。
「用? そりゃあ、その荷物の中身を拝見させてもらおうと思ってな。……随分と重そうじゃねぇか」
男の一人が、ニヤニヤしながら近づいてくる。
「ただの米と味噌だ。貧乏道場の食い扶持だよ」
「へぇ。米と味噌にしちゃあ、火薬の匂いがするがな」
男は刀の柄に手をかけた。
「……勘が鋭いな」
佐那は懐から鉄扇を取り出した。薙刀は持ってきていないが、北辰一刀流の技は剣だけではない。
「やっちまいな!」
男の号令と共に、浪人たちが襲いかかってくる。
佐那は鉄扇を開き、先頭の男の剣を受け流すと、その手首を鋭く打った。
「ぐあっ!」
男が刀を取り落とす。佐那はすかさず、その鳩尾に肘打ちを叩き込んだ。
流れるような動き。無駄のない体捌き。
それは、長年修練を積んだ者だけが持つ、洗練された武術だった。
「な、なんだこいつ!?」
浪人たちが怯む。
「積荷には指一本触れさせない!」
佐那は鉄扇を構え、仁王立ちになった。
その時、桟橋の向こうから、新たな足音が聞こえてきた。
「おいおい、寄ってたかって女一人をいじめるたぁ、薩摩の男も落ちたもんだな」
現れたのは、鳶口を持った半纏姿の男たちだった。
「辰五郎親分!」
佐那が叫ぶ。
新門辰五郎が、ニカッと笑って鳶口を肩に担いだ。
「佐那先生、遅くなってすまねぇ。……野郎ども、やっちまえ!」
「おう!」
火消したちが、威勢のいい掛け声と共に浪人たちに殴りかかる。
形勢は一気に逆転した。
浪人たちは多勢に無勢と悟り、散り散りに逃げ出した。
「助かりました、親分」
佐那が頭を下げる。
「いいってことよ。勝先生から頼まれてたんだ。『千葉の小町に怪我させたら、承知しねぇ』ってな」
辰五郎は豪快に笑った。
「さあ、船が出るぜ。早く行きな」
汽笛が鳴り、商船がゆっくりと岸を離れていく。
佐那は、遠ざかる船を見送りながら、胸の中で呟いた。
(新八様……どうかご無事で。この荷物が、あなたの力になりますように)
東の空が白み始めていた。
新しい時代の夜明けは近い。だが、その前にはまだ、長く厳しい戦いが待っている。
佐那は朝日に照らされた海を見つめ、決意を新たにした。
私は戦う。この場所で。あなたと共に。
薩長の見廻組を薙刀一つで退けた佐那。その凛とした姿は、北辰一刀流の誇りそのものである。
新八への想いを力に変え、小栗忠順を匿いながら兵站を支える彼女の戦い。




