第201話:影の暗躍
北の大地が雪に閉ざされる中、本州では薩長軍が東進を続けていた。
しかし、その背後には常に不穏な影がつきまとっていた。
北の大地が未だ深い雪に閉ざされている頃、本州の各地では、見えざる戦いが静かに、しかし確実に進行していた。
鳥羽・伏見の戦い以降、破竹の勢いで東進を続ける薩長軍であったが、その足並みは決して一枚岩ではなかった。彼らの背後には常に、得体の知れない不安の影がつきまとっていたのである。
奥州街道の宿場町、白河。
交通の要衝であるこの地は、薩長軍の補給拠点として重要な役割を果たしていた。街道を行き交う荷駄の列は絶えることがなく、兵士たちの喧騒が昼夜を問わず響いている。
そんな宿場の片隅にある旅籠「松葉屋」の土間に、一人の商人が荷を下ろした。
「へぇ、こりゃまた随分と景気のいいこって」
商人は手ぬぐいで額の汗を拭いながら、店先にいた古参の兵士に愛想よく話しかけた。丸眼鏡の奥の目は糸のように細められ、どこか人を食ったような笑みを浮かべている。
「うるさいぞ、商売人。用が済んだらさっさと失せろ」
兵士は苛立たしげに吐き捨てた。長州訛りのあるその男は、連日の行軍と寒さで疲弊しきっているようだった。
「まあまあ、そう邪険になさいますな。これ、ほんの気持ちでさぁ」
商人は懐から干し柿の包みを取り出し、兵士の手に握らせた。兵士の顔がわずかに緩む。
「……ふん、気が利くな」
「へへっ。ところで旦那、聞きましたかい? 北の方じゃあ、えらいことになってるそうで」
商人は声を潜め、兵士の耳元に顔を寄せた。
「えらいこと?」
「へえ。なんでも、会津の山奥で雪崩が起きて、先遣隊がごっそりやられたとか。それに、北の海には『黒い悪魔』が出るって噂で……」
「黒い悪魔だと?」
「ええ。蒸気を吐いて海を走り、雷のような音と共に船を沈める化け物だそうです。なんでも、異国の妖術使いが操ってるとか」
兵士の顔色がさっと青ざめた。
「馬鹿な。そんなものが……」
「火のない所に煙は立たねぇと言いますぜ。それに、最近じゃあ兵糧米に砂が混じってたり、火薬が湿ってたりすることが多いでしょう? あれも、北の呪いかもしれやせん」
商人は意味深に眉をひそめると、荷物を担ぎ直した。
「ま、桑原桑原。あっしはただの薬売りですから、詳しいことはわかりませんがね。旦那も、お気をつけて」
商人はぺこりと頭を下げ、足早に去っていった。
残された兵士は、手の中の干し柿を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。その不安は、瞬く間に宿場中の兵士たちへと伝染していった。
宿場を離れた商人は、人気のない林道に入ると、その足取りを一変させた。
猫背だった背筋は剣のように伸び、糸のように細められていた目が見開かれる。そこには、獲物を狙う猛禽類のような鋭い光が宿っていた。
彼は懐から手ぬぐいを取り出し、顔の汗を拭うふりをして、素早く変装を解いた。丸眼鏡を外し、髷の形を整える。
現れたのは、新選組局長・近藤勇であった。
いや、今の彼は「大久保大和」と名乗っている。かつての豪放磊落な武人の顔は鳴りを潜め、そこにあるのは冷徹な工作員としての仮面であった。
彼は懐から、一本の鉄扇を取り出した。使い込まれ、所々塗装が剥げた無骨な鉄扇。かつて芹沢鴨が愛用し、流山の別れに際して近藤に託された形見である。
「……芹沢さん。あんたの撒いた種、俺がしっかり育ててやるよ」
近藤は鉄扇を握りしめ、低く呟いた。
板橋の刑場で、自分の身代わりとなって散った男。かつて自分が粛清したはずの男が、最期に見せた「誠」。その重みが、今の近藤を支えていた。
「お疲れ様です」
林の奥から、数人の男たちが姿を現した。
先頭に立つのは、かつて新選組と袂を分かち、御陵衛士として敵対していた篠原泰之進である。彼は複雑な表情で近藤を見つめていた。
「どうだ、篠原。そっちの首尾は」
近藤の声は低く、重かった。
「ああ、上々だ。宇都宮方面へ向かう補給部隊の荷車、車軸に細工をしておいた。十里も行かずに使い物にならなくなるだろう」
篠原は淡々と報告した。かつては近藤の命を狙ったこともある男だが、今は奇妙な連帯感で結ばれている。
「薩長を倒すためなら、悪魔とでも手を組むさ。……そう言ったのはあんただぜ、近藤さん」
篠原は自嘲気味に笑った。
「違いない」
近藤は短く答え、腰の虎徹に手を添えた。
「俺たちは影だ。新選組の『誠』は土方や新八たちが守ってくれる。ならば俺たちは、その光を輝かせるための闇になればいい」
近藤の言葉には、悲壮な決意が滲んでいた。
流山での屈辱、処刑寸前での脱出、そして永倉新八によってもたらされた「史実」という名の未来図。それら全てが、近藤を変えた。
彼は知っていた。史実における自分が、どのように死に、どのように新選組が終わるのかを。だからこそ、彼は自ら汚れ役を買って出たのだ。
「行くぞ。次は二本松だ。薩長の連中に、たっぷりと悪夢を見せてやる」
近藤は踵を返し、北へと続く獣道を進み始めた。
篠原たちも無言でそれに続く。彼らの背中は、夕闇に溶け込むように消えていった。
数日後、薩長軍の本営に衝撃的な報告がもたらされた。
「北へ向かった第三部隊、行方不明との由!」
「兵糧庫より出火! 備蓄の半分が焼失!」
「兵士たちの間で奇病が流行! 嘔吐と下痢を訴える者多数!」
指揮官の机には、凶報の山が積み上げられていた。
薩長軍の指揮官、長州藩士・山田顕孝(市之允)は、苛立ちを隠せずに机を叩いた。
「ええい、何事だ! まるで亡霊と戦っているようではないか!」
彼の目には、焦りの色が濃く浮かんでいた。
圧倒的な兵力と最新鋭の装備を誇る薩長軍であったが、その進軍速度は明らかに鈍っていた。見えない敵による妨害工作、流言飛語による士気の低下、そして補給線の寸断。これらがボディブローのように効いてきているのだ。
「『黒い悪魔』……まさか、本当に……」
山田は、部下から上がってきた報告書の一節に目を落とした。そこには、兵士たちの間で囁かれる噂話が記されていた。
――北の地には、死んだはずの壬生狼たちが蘇り、復讐の牙を研いでいる。
「馬鹿な。新選組は鳥羽伏見で壊滅したはずだ。残党など、恐るるに足らん」
山田はそう自分に言い聞かせたが、心の奥底に芽生えた不安の種は消えなかった。
その夜、山田の陣営近くの森に、近藤たちの姿があった。
彼らは黒装束に身を包み、闇に紛れて監視を続けていた。
「警備が厳重だな。さすがに警戒しているようだ」
篠原が小声で囁く。
「だが、隙はある」
近藤は冷静に敵陣を見据えていた。彼の眼光は、かつて京の街で不逞浪士たちを震え上がらせた、あの鋭さを取り戻していた。
「あそこだ。見張りの交代の瞬間、一瞬だけ死角ができる」
近藤が指差した先には、武器庫の裏手にある小さな通用口があった。
「やるのか?」
「ああ。火薬を湿らせるだけじゃ生温い。派手に花火を上げてやろう」
近藤は不敵に笑うと、懐から油紙に包まれた塊を取り出した。永倉から教わった知識を元に、土方たちが改良を加えた時限式の発火装置である。
「篠原、お前は退路を確保しろ。俺が仕掛ける」
「おい、危険すぎるぞ。大将が先陣を切ってどうする」
「大将? 俺はただの『大久保大和』だ。それに、死に損ないの命だ。使い道くらい、自分で選ばせろ」
近藤はそう言うと、篠原の制止を振り切り、闇の中へと滑り込んでいった。
その動きは、巨躯に似合わず俊敏で、音もなく敵陣へと近づいていく。
見張りの兵士があくびをした一瞬の隙を突き、近藤は通用口を潜り抜けた。
武器庫の中には、木箱に入った弾薬や火薬樽が所狭しと並べられていた。近藤は手早く発火装置をセットし、導火線に火を点ける。
チリチリという微かな音が、静寂の中に響く。
近藤は素早く外へ出ると、来た道を戻り始めた。
その時だった。
「誰かいるのか!」
見回りの兵士が、近藤の影に気づき、声を上げた。
近藤は舌打ちをし、即座に刀を抜いた。
「見つかったか」
兵士が銃を構えるより早く、近藤の虎徹が閃いた。
袈裟懸けに斬られた兵士は、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちる。しかし、倒れる際に放たれた銃声が、夜の静寂を切り裂いた。
「曲者だ! 曲者が出たぞ!」
陣営中が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
近藤は血振るいをし、刀を鞘に納めると、全速力で森へと走った。
「逃がすな! 撃て!」
背後から無数の銃弾が飛んでくる。木の幹が削られ、土煙が上がる。
近藤は木々を盾にしながら、ジグザグに走った。
その直後、背後で轟音が響き渡った。
武器庫が爆発し、巨大な火柱が夜空を焦がしたのである。衝撃波が森を揺らし、追っ手の兵士たちが吹き飛ばされる。
「やったか!」
森の入り口で待っていた篠原が叫ぶ。
炎を背に、近藤が姿を現した。その顔は煤で汚れ、着物は破れていたが、その瞳は爛々と輝いていた。
「ずらかるぞ、篠原! これで奴らもしばらくは動けまい!」
「まったく、あんたって人は……!」
篠原は呆れたように言いながらも、近藤に肩を貸し、共に闇の中へと消えていった。
燃え上がる武器庫を呆然と見つめる山田顕孝の顔は、絶望に歪んでいた。
「おのれ……おのれ、亡霊どもめ……!」
彼は知らなかった。この爆発が、単なる破壊工作ではなく、北の大地で着々と進められている反攻計画のための時間稼ぎであることを。
そして、その計画の中心にいるのが、かつて京の都を震撼させた「新選組」であることを。
◇
遠く離れた北海道、五稜郭。
執務室の窓から、永倉新八は南の空を見上げていた。
「近藤さん……」
彼は呟く。
史実では、近藤勇はこの時期、板橋刑場にて斬首される運命にあった。しかし、今の彼は生きている。生きて、日本のために戦っている。
その事実は、永倉の胸に熱いものを込み上げさせた。
「無茶だけはしないでくださいよ」
永倉は祈るように目を閉じた。
彼らの活動により、薩長軍の北進計画は大幅に遅れ、北海道共和国は貴重な準備期間を得ることができた。
春はもうすぐそこまで来ている。
雪解けと共に始まるであろう決戦に向け、北の狼たちは静かに、しかし確実に牙を研いでいた。
近藤勇が「大久保大和」として暗躍する。
かつて自らが粛清した芹沢鴨の鉄扇を手に、新選組の光を輝かせるための闇となる覚悟を決めた近藤。
かつての敵・篠原泰之進とも手を組み、薩長軍へのゲリラ戦を展開する彼の姿には、悲壮な決意が滲む。
新八たちの戦いを裏から支える、もう一つの新選組の戦い




