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第200話:和宮の献身

五稜郭の最奥部、孝明天皇の枕元には、かつての皇女・和宮の姿があった。

彼女は兄の看病に全てを捧げ、その命を繋ぎ止めようと必死に祈る。

家茂もまた、政務の合間を縫って妻を支え、夫婦で天皇を守り抜く覚悟を固めていた。

 新天地・北海道の冬は、容赦というものを知らなかった。

 五稜郭の空は連日鉛色に閉ざされ、吹き荒れる暴風雪は、まるでこの地に逃げ延びた者たちを拒絶するかのように唸りを上げていた。

 だが、その凍てつくような寒さの中に、ひときわ温かく、そして切ない灯火が揺れる場所があった。

 五稜郭最奥部、孝明天皇の仮御所である。


 障子越しに薄暗い光が漏れる部屋の中、和宮親子内親王は、兄である孝明天皇の枕元に座り続けていた。

 かつて京の御所で、十二単を纏い、多くの女官にかしずかれていた皇女の面影は、今の彼女にはない。

 髪を後ろで束ね、動きやすい小袖にたすきをかけたその姿は、一人の看病人のそれであった。だが、その凛とした横顔には、高貴な生まれだけが持つ気品と、兄を思う一途な情熱が宿っていた。


「兄上、お薬の時間でございます」

 和宮は、土鍋で煎じたばかりの薬湯を、漆塗りの椀に移し替えた。

 松本良順が調合したその薬は、独特の苦味と土の匂いがする。アイヌの人々から教わった薬草も加えられているという。

 彼女は、熱すぎないか自分の唇で確かめてから、匙ですくい、天皇の口元へと運んだ。


 孝明天皇は、薄く目を開けた。

 その顔色は蝋のように白く、頬はげっそりと落ち窪んでいる。かつて「薩長を撃滅せよ」と激しく叫んだ覇気は、今は見る影もない。

 だが、その瞳の奥には、まだ消えぬ炎がくすぶっていた。

「……うっ」

 薬を飲み込む喉が、苦しげに鳴る。

 天皇は顔をしかめ、咳き込んだ。

「兄上!」

 和宮は慌てて背中をさする。その背中のあまりの薄さに、彼女の指先が震えた。

 ほんの数ヶ月前までは、これほどまでに弱ってはいなかった。

 京を追われ、船に揺られ、極寒の地へと逃げ延びた過酷な旅路。そして何より、愛する息子・睦仁親王を殺され、自らの死を偽装されたという絶望的な事実が、天皇の生命力を根こそぎ奪い去ろうとしていたのだ。


 咳が収まると、天皇は荒い息をつきながら、和宮を見た。

「……宮、すまぬな。お前に、このような真似をさせて……」

 その声は、枯れ葉が擦れ合うように乾いていた。

「いいえ、兄上。謝らないでくださいませ」

 和宮は、手拭いを絞り、兄の額に浮かんだ脂汗を丁寧に拭った。

「私は、兄上の妹でございます。兄上のお世話ができるなら、どんなことでもいたします」

 彼女は微笑んで見せたが、その目には涙が溢れそうになっていた。

 幼い頃、京の御所で兄と過ごした日々が蘇る。

 厳格な父帝の目を盗み、兄はよく和宮を可愛がってくれた。

 公武合体のために将軍家への降嫁が決まった時も、兄は誰よりも和宮の身を案じ、涙ながらに送り出してくれたのだ。

 その兄が今、目の前で命の灯火を消そうとしている。


「兄上、生きてください。どうか、生きてください」

 和宮は、天皇の痩せ細った手を両手で包み込んだ。

 その手は氷のように冷たかった。

「あの者たちに……私たちをこんな目に遭わせた逆賊どもに、天罰を下すまでは、絶対に……」

 その言葉は、祈りというよりも、悲痛な叫びだった。

 天皇は、妹の手を弱々しく握り返した。

「……そうだな。朕は、まだ死ねぬ。あの世で睦仁に会う時に、土産話の一つも持っていかねばならぬからな……」

 天皇はそう言って、再び重い瞼を閉じた。


 夜が更け、風の音がさらに激しさを増した頃、襖が静かに開いた。

 徳川家茂である。

 彼は政務の合間を縫って、毎晩必ずこの部屋を訪れていた。

 家茂は、和宮の背中にそっと声をかけた。

「宮さん」

 和宮が振り返る。その目は赤く腫れ、疲労の色が濃く滲んでいた。

「……上様」

「無理をしてはいけない。少しは休まないと、そなたが倒れてしまう」

 家茂は、和宮の隣に座り、その肩を抱いた。

 外の寒さとは対照的に、家茂の体温は温かかった。

 その温もりに触れた瞬間、和宮の張り詰めていた糸が切れた。


「家茂様……」

 彼女は家茂の胸に顔を埋め、声を殺して泣き崩れた。

「兄上が……兄上が行ってしまわれそうです……。あんなに……あんなにお強かった兄上が……今は、息をするのもお辛そうで……」

 和宮の涙が、家茂の着物を濡らす。

 家茂は何も言わず、ただ優しく和宮の背中を撫で続けた。

 彼にとっても、孝明天皇は義兄であり、主君であり、そして何よりも、この国を守るための最大の理解者だった。

 攘夷を叫びながらも、幕府を信頼し、家茂にまつりごとを委ねてくれた天皇。

 その信頼に応えるため、家茂は奔走してきた。

 だが、運命はあまりにも残酷だった。


「私が……私がもっと早く、兄上をお守りできていれば……」

 和宮が自分を責める言葉を口にする。

 家茂は、彼女の顔を両手で包み込み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

「宮さん、自分を責めてはいけない。そなたは、誰よりも帝のために尽くしてきた。帝も、それを一番よくわかっておられるはずだ」

 家茂の声は、穏やかだが力強かった。

「大丈夫だ。余がついている。二人で、帝をお支えしよう。最期の時まで……いや、たとえその時が来ても、我々の志は終わらない」

 家茂の言葉に、和宮は小さく頷いた。

 夫婦の絆は、この極寒の地での苦難を経て、鋼のように強く、そして深くなっていた。

 二人は寄り添いながら、眠る天皇の寝顔を見守り続けた。

 その部屋には、悲しみと共に、静かな愛が満ちていた。


 ◇


 一方、五稜郭内に設けられた新選組の拠点。

 一番隊組長・沖田総司の部屋からは、雪に覆われた五稜郭の景色が見渡せた。

 沖田は、布団の上に上半身を起こし、窓の外を眺めていた。

 その顔色は、以前より少し良くなっているように見えた。松本良順の治療と、アイヌの薬草、そして何より、彼を支える人々の想いが効いているのだろう。

 だが、その白さは、雪の白さとは違う、どこか透き通るような儚さを帯びていた。


「きれいだね、琴さん」

 沖田が呟く。

 その視線の先には、月明かりに照らされた銀世界が広がっていた。

 雪は止み、雲の切れ間から満月が顔を出している。

 月光を浴びて輝く雪原は、まるで宝石を散りばめたように美しかった。


 隣には、中沢琴が座っていた。

 彼女は、沖田のために林檎の皮を剥いていた。

 その手つきは、剣を扱う時と同じように無駄がなく、美しい。

「ええ。でも、少し寂しい色だわ」

 琴は、剥いた林檎を一切れ、沖田に手渡した。

「ありがとう」

 沖田は林檎を齧る。シャリッという小気味良い音が響き、甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。

「寂しい色か……。でも僕は、この白さが好きだな。全てを覆い隠して、新しく生まれ変わらせてくれるような気がして」

 沖田は、自らの掌を見つめた。

 かつては多くの人を斬り、血に染まった手。

 京の街で、池田屋で、そして鳥羽伏見で。

 多くの命を奪ってきたその手が、今はこうして林檎を持っている。

 震えもせず、ただ静かに。


「……春になれば、きっときれいな花が咲くわ」

 琴は、小刀を置き、沖田の手をそっと握った。

 剣を振るうことしか知らなかった彼女の手もまた、今は温かい。

 彼女は、沖田の病状が決して楽観できるものではないことを知っていた。

 松本先生が、土方副長に深刻な顔で話しているのを聞いてしまったからだ。

 それでも、彼女は信じたかった。

 春が来れば、雪が溶け、花が咲くように、沖田の体も良くなるのではないかと。


「そうだね。春になったら、二人で花見をしよう。土方さんや、新八さんたちも誘って」

 沖田は、琴の手を握り返した。

 その笑顔は、子供のように無邪気だった。

「五稜郭の桜は、どんな色だろうね。京の桜よりも、色が濃いのかな」

「きっとそうよ。北国の花は、厳しい冬を越える分、色が鮮やかだって聞いたことがあるわ」

「へえ、そうなんだ。楽しみだなあ」

 沖田は目を細めた。

 その瞳には、まだ見ぬ春の景色が映っているようだった。


「約束よ、総司さん」

 琴は、沖田の目を見て言った。

「ええ、約束です」

 二人は微笑み合った。

 外は凍てつくような寒さだが、この部屋の中には、確かな春の予感があった。

 たとえそれが、幻のような予感であったとしても。


 その時、遠くで風が唸りを上げた。

 窓ガラスがガタガタと音を立てる。

 沖田はふと、視線を窓の外に戻した。

「……風の音が、変わったね」

「え?」

「なんだか、誰かが泣いているような……そんな音がする」

 琴は耳を澄ませたが、聞こえるのは風の音だけだった。

「気のせいよ。きっと、疲れが出たのね。もうお休みなさい」

 琴は、沖田を優しく布団に寝かせた。

 沖田は素直に従い、目を閉じた。

「……おやすみ、琴さん」

「おやすみなさい、総司さん」


 琴は、沖田の寝息が聞こえるまで、そのそばを離れなかった。

 彼女は知らなかった。

 沖田が聞いた「誰かが泣いているような音」が、何を意味していたのかを。


 ◇


 翌朝、空は嘘のように晴れ渡っていた。

 放射冷却現象により、気温はさらに下がっていたが、空気は澄み切り、氷塵ダイヤモンドダストが朝日に輝いていた。

 キラキラと舞う氷の粒は、天から降り注ぐ光の粉のようだった。

 世界は、残酷なほど美しかった。


 俺は、早朝の巡回を終え、屯所に戻ろうとしていた。

 雪を踏む音が、キュッキュッと心地よく響く。

 吐く息は真っ白で、鼻毛が凍るほどの寒さだ。

 だが、この凛とした空気は嫌いではなかった。

 身も心も引き締まる思いがする。


 ふと、御用邸の方角を見る。

 そこには、まだ灯りが灯っていた。

 和宮様は、一睡もせずに看病を続けておられるのだろうか。

 俺は、心の中で深く頭を下げた。


 帝の命の灯火は、風前の灯火だ。

 松本先生の言葉が、脳裏をよぎる。

「この冬を越せるかどうか……」

 だが、帝はまだ生きている。

 そして、俺たちも生きている。


 俺は、拳を握りしめた。

 悲しんでいる暇はない。

 帝が命を削って耐えている間に、俺たちは力を蓄えなければならない。

 春が来れば、再び戦いが始まる。

 薩長という巨大な敵との、最後の戦いが。


 俺は、冷たい風の中で、深く息を吸い込んだ。

 その空気は、肺を凍らせるほど冷たかったが、俺の体の中で燃える炎を消すことはできなかった。

 俺は、白く染まる五稜郭を見渡し、心に誓った。

 必ず勝つ。

 帝のため、和宮様のため、そして、この国のために。


 俺は再び歩き出した。

 雪を踏む音が、力強く響いた。

 冬はまだ続く。だが、その先には必ず春が来る。

 


和宮の涙と家茂の温もりが、凍てつく夜に小さな灯りをともす。

天皇の命は風前の灯火だが、彼らの絆は鋼のように強く結ばれていた。


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