第20話:天才の咳
沖田総司の天才的な剣技。
しかし、稽古の後に聞こえた乾いた咳は、主人公に恐ろしい未来を思い出させます。
仲間を救うと決めたばかりの彼に、不治の病という新たな壁が立ちはだかります。
変えられない運命に抗う、彼の新たな戦いが始まります。
後書き案
冬の朝の冷気が肌を刺す試衛館の道場は、夜明けと共に門人たちの熱気で満たされていた。板張りの床を踏みしめる音、竹刀が鋭く空を切る音、そして腹の底から絞り出すような気合の声。それらが混じり合った交響曲は、俺にとって、転生後の日常を象徴する音となっていた。
「そりゃあッ!」
ひときわ甲高い、しかし芯の通った声が響き渡る。その声の主、沖田総司が打ち込んだ面は、あたかもそこに吸い込まれるかのように、相手の防具の真芯を正確に捉えていた。受けた門人がたたらを踏み、体勢を崩す。だが、沖田は追撃の手を緩めない。流れるような体さばきで相手の側面に回り込み、がら空きになった胴へ、今度はほとんど音もなく、しかし確実な一撃を叩き込んだ。
「……そこまで!」
師範である近藤勇の、朗々とした声が響く。
沖田は残心の姿勢を崩さず、ゆっくりと竹刀を納めると、屈託のない笑顔で相手に一礼した。その所作の一つひとつに無駄がなく、まるで水が低きに流れるかのような自然さがあった。
「見事だ、総司! 今の踏み込みは、また一段と速くなったんじゃないか?」
「えへへ、そうですか? 夢中でやっていたので、よく分かりません」
近藤の称賛に、沖田は子供のように頭を掻く。その無邪気な姿と、先ほどまでの鬼気迫る剣客の姿との落差に、道場の誰もが苦笑を漏らした。俺もまた、その一人だった。
(これが、天才か……)
俺、永倉新八は、神道無念流の免許皆伝だ。剣の腕には、それなりの自負がある。試衛館の中でも、近藤先生や土方歳三と並び、師範代として門人たちを指導する立場にあった。だが、沖田総司の剣は、そうした序列や格付けを軽々と飛び越えてしまう、異次元の輝きを放っていた。
彼の剣は、理屈ではない。
天然理心流の型に忠実でありながら、その一挙手一投足は、型に縛られていない。まるで剣に愛された申し子のように、その瞬間に最も合理的で、最も速く、最も鋭い一撃を、いとも容易く繰り出すのだ。それは努力や鍛錬だけで到達できる領域ではない。天賦の才としか言いようのない、神の領域だった。
「新八っつぁん、一本、お願いできますか?」
俺が感嘆の息を漏らしていると、その沖田が竹刀を担ぎ、にこにこしながら近づいてきた。その瞳は、早く稽古がしたくてたまらない、といった純粋な光に満ちている。
「ああ、もちろんだ。手加減はしないぞ、総司」
「望むところです!」
俺たちは道場の中央に進み出て、互いに竹刀を構えた。
しん、と道場の空気が張り詰める。先ほどまでの喧騒が嘘のように、門人たちは固唾を飲んで俺たちの対峙を見守っていた。
対峙して改めて分かる。沖田の構えには、一切の隙がない。剣先はわずかに揺れながらも、その切っ先は俺の喉元に吸い付くようにぴたりと定まっている。どこから打ち込んでも、即座にカウンターが飛んでくるだろう。
(だが、俺も伊達に修羅場をくぐってきたわけじゃない!)
俺は、先手を取るべく、床を強く蹴った。狙うは、沖田の小手。神道無念流の真髄とも言える、一撃必殺の斬り下ろしだ。
しかし、俺の竹刀が振り下ろされるよりも早く、沖田の体が沈み込む。
「――っ!」
空を切る、俺の竹刀。
その刹那、下から突き上げるような衝撃が、俺の胴を襲った。体を「く」の字に折り曲げながら、俺は沖田がいつ俺の懐に潜り込んだのか、全く認識できなかった。
「胴あり!」
近藤の声が響く。
俺は息を整えながら、沖田を睨みつけた。彼は悪戯が成功した子供のような顔で、ぺろりと舌を出している。
「新八っつぁん、今のは少し大振りでしたね」
「……うるさい」
憎まれ口を叩きながらも、俺の背中には冷たい汗が流れていた。今の攻防は、俺の完敗だった。俺の動き、思考、そのすべてが、この年下の天才にはお見通しだったのだ。
その後も、俺たちは息つく間もなく打ち合った。俺が渾身の一撃を放てば、沖田はそれを紙一重でかわし、あるいは柳のように受け流し、即座に反撃を加えてくる。彼の剣は、激しい嵐のようでありながら、どこまでも静かな湖面のようでもあった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「そこまで!」という近藤の声で、俺たちはようやく竹刀を納めた。全身は汗でぐっしょりと濡れ、肩で大きく息をする。対する沖田も、さすがに息が上がっているようだった。
「はぁ……はぁ……。やっぱり、新八っつぁんとやると面白いです」
汗を拭い、満面の笑みを浮かべる沖田。その額に張り付いた髪が、彼の若さを際立たせていた。
俺は竹刀を杖代わりにしながら、その姿を眺めていた。純粋な賛嘆と、ほんのわずかな嫉妬。そして、このかけがえのない仲間と共に剣を振るうことのできる、言いようのない喜び。様々な感情が入り混じり、俺の胸を満たしていた。
だが、その時だった。
「……こほっ、こほ……」
沖田が、ふと背中を丸め、口元を手で覆った。
激しい稽古の後だ。息が乱れて咳き込むこと自体は、何ら不思議ではない。他の門人たちも、特に気にした様子はなかった。
しかし、俺の耳には、その咳が妙に乾いた、空虚な音として響いた。まるで、肺の奥深くから絞り出すような、力のない音。
沖田はすぐに何事もなかったかのように顔を上げ、仲間たちの輪に加わっていった。
だが、俺はその場から動けずにいた。
俺の脳裏に、忘れていたはずの記憶が、雷に打たれたかのように鮮明に蘇る。
霞が関の官僚だった俺が、休憩時間に読んでいた歴史雑誌の特集記事。
高校時代、受験勉強のために暗記した「詳説日本史研究」の、小さな脚注。
『沖田総司。新選組一番隊組長。若くして労咳(結核)を患い、江戸で病没』
――労咳。
その四文字が、俺の頭の中で警鐘のように鳴り響いた。
この時代の医学では、不治の病。一度発症すれば、あとはゆっくりと死を待つしかない、絶望の病。
まさか。
そんなはずはない。まだ、そんな兆候が出るには早すぎる。
俺は必死に頭を振って、不吉な妄想を打ち消そうとした。
だが、一度芽生えた疑念は、毒のように心を蝕んでいく。
思えば、最近の沖田は、時折顔色が優れないことがあった。食が細くなったようにも見える。そして、今しがたの、あの咳。あれは、ただの咳払いだったのか? それとも、俺だけが知る、恐ろしい未来の、最初の兆候だったのか?
「どうした、新八。腹でも減ったか?」
俺が立ち尽くしていると、いつの間にか隣に来ていた土方歳三が、ニヤリと笑いながら声をかけてきた。その向こうでは、近藤が沖田の肩を抱き、「うちの総司は天下一だ!」と豪快に笑っている。
温かい、いつもの試衛館の光景。
だが、今の俺には、その光景がまるで砂上の楼閣のように、ひどく脆く、儚いものに思えた。
俺は、未来の知識を持つがゆえに、気づいてしまった。
まだ誰も知らない、本人すら自覚していないであろう、この天才の身を蝕み始めた病の影に。
そして、それが何を意味するのかも。
千葉道場での一件を経て、俺は「合理性」という名の鎧を脱ぎ捨て、仲間たちを「心」で救いたいと願うようになったばかりだ。近藤勇を、史実の運命から救い出すという、途方もない計画。その第一歩を踏み出したばかりだというのに。
目の前に、また一つ、巨大な「死亡フラグ」が突きつけられている。
「……いや、何でもない」
俺は土方に力なく笑い返すと、仲間たちが集まる輪にゆっくりと歩み寄った。
近藤に褒められ、照れ臭そうに笑う沖田の横顔。
その無邪気な笑顔が、俺の胸に鋭く突き刺さる。
(救いたい)
それは、もはや官僚としての計算や、歴史の最適化などという理屈ではなかった。
ただ、純粋に。
一人の仲間として、友として。
この、あまりにも早く駆け抜けようとしている、無垢な天才の命を。
(絶対に、死なせはしない)
不治の病。変えられない運命。
そんなものに、この男を渡してなるものか。
俺の知識が、この転生が、何のためにある。
俺は手の中の竹刀を、強く、強く握りしめた。
その掌に食い込む痛みが、俺に新たな決意を刻みつけていた。
孤独な介入者の戦いは、また一つ、新たな局面を迎えようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
天才・沖田総司に、早くも忍び寄る病の影。史実という名の「不治の病」に、主人公はどう立ち向かうのでしょうか。
仲間を救うという彼の決意が試されます。次回の彼の苦悩と選択にご期待ください。




