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第2話:詳説日本史研究

安定を愛する現代の官僚が、幕末最強の剣客集団の一人、永倉新八として目覚めた。


彼の武器は、未来の知識と霞が関で培った分析能力。

しかし、目の前にあるのは血と汗に塗れた稽古と、これから訪れる動乱の時代。

これは、自らの過酷な運命に抗い、平穏な未来を掴み取ろうとする男の、知略と剣の物語である。

 意識が「永倉栄吉」の肉体に収まってから、一月ひとつきが過ぎようとしていた。


 霞が関の官僚であった俺の精神は、未だこの若く強靭な肉体と、それが置かれた環境に馴染めずにいたが、幸か不幸か、体の方は驚くほど従順だった。夜明けと共に叩き起こされ、夜具を畳む間もなく道場へ。日がな一日、竹刀を振り、汗を流し、時には木刀で手荒い打ち込みを受ける。食事は麦飯に味噌汁、粗末な漬物。夜は仲間たちのいびきと寝言が満ちる雑魚寝部屋で、泥のように眠る。


 その繰り返し。思考を挟む余地のない、あまりに原始的な生活。だが、そのおかげで俺は、周囲から不審がられることなく、この「神道無念流・有隣館」での日常に溶け込むことができていた。


「栄吉!足が止まってるぞ!」

「気合が足らん!」


 師範や兄弟子たちの怒声が飛ぶ。そのたびに、俺の意思とは無関係に背筋が伸び、腹の底から「押忍!」という声がほとばしる。この肉体は、俺が乗り移る以前から、徹底的に剣の道に生きる者として鍛え上げられていたのだ。


 稽古は、はっきり言って地獄だった。三十数年間、頭脳労働しかしてこなかった俺にとって、全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げるこの苦痛は筆舌に尽くしがたい。打ち込まれる竹刀の痛みは、気絶しかけるほど強烈だ。


 しかし、不思議なことに、俺はこの苦痛に耐えることができた。いや、この「永倉栄吉」の肉体が、痛みも疲労も、強くなるための糧として受け入れているかのようだった。打ち込み稽古で相手の竹刀が頬を掠め、血が滲んでも、恐怖よりも先に「一本取られた」という悔しさが込み上げてくる。官僚だった頃の俺には、到底理解できない感覚だった。


 日々の生活は、情報収集の連続でもあった。中央省庁で叩き込まれた分析能力は、こんな時代でも錆びついてはいなかった。俺は五感をフル活用し、断片的な情報を集め、頭の中で整理していく。


 稽古の合間の雑談。

「聞いたか?また異人が横浜で斬られたそうだ」

「攘夷、攘夷と騒ぐが、幕府は一体何をしておるのだ」


 風呂場での会話。

「薩摩の島津様は、もう幕府を見限っておられるらしい」

「いや、長州の方が過激だ。京の都で何やら企んでいるとか」


 町へ使いに出された時に耳にする噂話。

「黒船がまた来るんじゃねえか?」

「物価は上がる一方だし、世の中どうなっちまうんだか」


 黒船、攘夷、薩摩、長州、京、幕府……。


 これらの単語は、俺の脳の奥底に眠る記憶を激しく揺さぶった。そうだ、これは、俺が高校時代に嫌々ながらも丸暗記した、あの時代のキーワードだ。


(間違いない。ここは、幕末だ)


 心臓が嫌な音を立てて脈打つ。日本の歴史上、最も激しく、そして最も多くの血が流れた時代。安定と秩序を重んじる官僚だった俺が、最も忌避すべき、混沌と暴力の時代。


(冗談じゃない……。なぜ俺がこんなところに……)


 絶望が胸を締め付ける。しかし、同時に、霞が関で鍛え上げた冷徹な分析能力が、状況を客観的に評価し始めていた。


【現状分析】


 1.時間軸: 幕末。ペリー来航以降、尊王攘夷運動が激化し、徳川幕府の権威が揺らぎ始めた時代。正確な年号を特定する必要がある。

 2.場所: 江戸。有隣館という道場の名前、周囲の地名から判断。

 3.自身: 「永倉栄吉」という名の若者。神道無念流の剣客。年齢は十代後半から二十歳前後か。家族の記憶は曖昧だが、松前藩を脱藩してきた、という断片的な記憶がある。

 そして、最も重要な問いが残る。


(俺は、一体「何者」なんだ?)


 歴史上の人物か、それとも名もなきモブか。後者であれば、歴史の奔流に飲み込まれて死ぬだけだ。だが、もし前者だとしたら……?


 転機は、ある日の夕餉の席で訪れた。


「しかし栄吉、お前も強くなったな。免許皆伝も近いんじゃないか?」


 兄弟子の一人が、にこやかに話しかけてきた。


「いえ、まだまだです」


 反射的に謙遜の言葉を返しながら、俺は好機と見た。


「そういえば、俺は自分の名前を全部、筆で書いたことがあまりないなと思いまして。今度、改めて教えていただけませんか?松前を出てから、どうも記憶が曖昧で」


 我ながら、不自然極まりない言い訳だ。だが、幸いにも、この時代の人間はおおらかだった。


「なんだ、そんなことか。お前の名前は、永倉新八。栄吉は幼名だ。めでたい名前じゃないか」


 ながくら、しんぱち。


 その名前を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。


 世界から音が消え、兄弟子たちの顔が遠のいていく。脳内で、雷鳴が轟いた。


 永倉新八。


 知っている。その名前を知っている。


 新選組。


 鬼の副長・土方歳三、一番隊組長・沖田総司と並び称された、最強の剣客集団の一人。


 新選組二番隊組長。


 数々の激戦を最前線で戦い抜き、そして……あの新選組の中で、数少ない生き残りとなった男。


 明治、大正まで生き延び、自らの体験を後世に語り継いだ、最強の「生存者」。


(俺が……永倉新八……?)


 混乱、驚愕、そして……恐怖。

 史実の永倉新八が、どのような人生を歩んだか。俺は、それを知っている。


 池田屋事件、禁門の変、鳥羽・伏見の戦い……。仲間たちが次々と死んでいく地獄の戦場を、彼は駆け抜けた。その果てに、孤独な晩年があったことも。


(そんな人生、冗談じゃない……!)


 官僚として、安定した未来、平穏な老後を夢見ていた俺が、なぜこんな過酷な運命を背負わなければならないのだ。仲間が死に、自らも常に死と隣り合わせの人生など、まっぴらごめんだ。


「どうした、栄吉?顔が真っ青だぞ」


 兄弟子の声で、我に返る。俺は慌てて笑顔を作った。


「いえ、何でもありません。自分の名前の響きが、なんだかとても……すごいものに思えて」


 その夜、俺は布団の中で眠ることができなかった。

 永倉新八。その名が持つ、重く、血塗られた響きが、頭から離れない。


(どうすればいい?どうすれば、この運命から逃れられる?)


 歴史から逃げる?新選組に関わらない?どこか田舎で、名前を変えて生きるか?

 いや、無理だ。この時代、人の移動は厳しく管理されている。脱藩者である俺に、安住の地などない。それに、この「永倉新八」の肉体と魂が、それを許さないだろう。剣の道から外れることなど、死んでも承服しないに違いない。


 八方塞がりだ。史実通り、血みどろの人生を歩むしかないのか。


 絶望に打ちひしがれ、天井の染みを眺めていた、その時だった。


 ふと、脳裏に、ある光景が鮮明に浮かび上がった。


 それは、俺が通っていた高校の、埃っぽい図書室の光景だった。大学受験のため、来る日も来る日も読み込んだ、一冊の本。


『詳説 日本史研究』


 分厚く、情報量がやたらと多い、受験生泣かせの参考書。その表紙のデザイン、ざらりとした紙の感触、インクの匂いまで、まるで今、手に取っているかのようにリアルに思い出せる。


(……待てよ)


 俺は、ゆっくりと目をつぶった。

 そして、意識を集中させる。


 ページをめくる。


 第一部 近代

 第四章 幕末の動乱

 第一節 開国と公武合体


(……見える)


 脳内に、教科書のページが、一字一句違わずに展開されている。黒の太字で書かれた見出し、赤字で強調された重要語句、欄外の細かい注釈、年表、勢力図、人物相関図……。


 ペリー来航(1853年)

 日米和親条約(1854年)

 安政の大獄(1858年)

 桜田門外の変(1860年)


(……思い出せる。いや、違う。これは記憶じゃない。これは、俺の頭の中にある「本」そのものだ)


 俺は、この『詳説日本史研究』を、いつでも、どこでも、好きなページを開いて「読む」ことができるのだ。


 それは、単なる歴史の知識ではない。

 いつ、どこで、何が起こるか。

 誰が、誰と手を組み、誰を裏切るのか。

 どの藩が力をつけ、どの藩が没落するのか。

 どの戦いで、どちらが勝つのか。


 政治、経済、外交、軍事。この国を動かす全ての要因と、その結果が、この一冊に網羅されている。


 これは、未来の出来事が全て書かれた、究極の「予言の書」だ。


(これだ……!)


 全身に、電流が走った。

 絶望の闇に、一条の光が差し込んだ。


(これさえあれば、俺は……いや、「俺たち」は、生き残れるかもしれない)


 永倉新八の運命。新選組の悲劇。それらは全て、この教科書に書かれている「過去」の出来事だ。

 だが、今の俺にとっては、これから起こる「未来」だ。


 未来がわかる。

 これほど強力な武器があるだろうか?


 官僚として培った、情報を分析し、最適解を導き出す能力。

 永倉新八として与えられた、常人離れした剣の才能と強靭な肉体。


 そして、この『詳説日本史研究』という、神の視点にも等しい知識。


 これらを組み合わせれば、どうなる?


(史実通りに、仲間たちが死んでいくのを黙って見ている必要はない。薩長に、幕府に、いいようにやられる必要もない)


 死亡フラグを叩き折る。

 敗北の運命を、勝利に書き換える。


(そうだ……どうせなら、やってやろうじゃないか)


 俺は、布団の中で固く拳を握りしめた。

 霞が関で腐っていた俺の魂が、永倉新八という男の激しい気性と共鳴し、燃え上がるのを感じた。


(新選組を、徳川幕府を、史上最強の近代国家に魔改造してやる)


 それは、一介の官僚が抱くには、あまりに途方もない野望だった。

 だが、俺の胸には、不思議な高揚感が満ちていた。


 これは、絶望的な転生ではない。

 これは、俺という男に与えられた、千載一遇のチャンスなのだ。


 この国の歴史を、この手で作り変えるための。


 夜が明け、稽古の始まりを告げる太鼓の音が響く。

 俺は、もはや昨日までの俺ではなかった。


 確固たる意志と、最強の武器を手に、永倉新八としての人生を、本当の意味で歩き始める。


 その足取りは、もはや昨日までのようには重くなかった。

 自らの運命を切り拓くための、力強い一歩だった。


第2話をお読みいただきありがとうございます。


ついに主人公は、自分が「新選組の永倉新八」であることを知ってしまいました。史実を知る彼にとって、それは希望ではなく絶望の宣告。

ここからが、彼の本当の戦いの始まりです。果たして彼は、歴史という巨大な奔流から逃れることができるのか。それとも運命は彼を捉えて離さないのか。

次回、物語が大きく動き出す予定です。ご期待ください。

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