第199話:孝明天皇の怒り
五稜郭の奥深く、孝明天皇のもとに京からの密書が届く。
そこには、睦仁親王を騙る偽物の即位と、新政府樹立の報せが記されていた。
五稜郭の最奥部、厳重に警備された一角に、その部屋はあった。
表向きは「御用邸」とされているが、実質的には、この国の真の主である孝明天皇の隠れ家である。
外は猛吹雪が吹き荒れていたが、部屋の中は炭火の暖かさに満ちていた。
だが、その空気は凍てつくように冷たかった。
「……なんと言った?」
孝明天皇の声は、低く、震えていた。
その手には、京から届いたばかりの密書が握りしめられている。
目の前に平伏しているのは、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保である。彼は、京に残した間者からの命がけの報告を、ここまで届けに来ていた。
「申し上げます……」
容保は、額を畳に擦り付けたまま、声を絞り出した。
「去る一月九日、京の御所におきまして、睦仁親王殿下の即位の礼が執り行われました。……いえ、正確には、親王殿下を騙る『何者か』の即位式でございます」
密書には、その詳細が記されていた。
即位した新天皇は、本来の睦仁親王とは似ても似つかぬ、屈強な体つきをした男であること。
そして、その背後には岩倉具視と薩摩の大久保利通が控え、新政府の樹立を宣言したこと。
さらに、先帝――つまり孝明天皇は、天然痘により崩御されたと公表されていること。
「朕は……死んだことになっておるのか」
天皇は、乾いた笑い声を漏らした。
「我が子を殺し、偽物を玉座に座らせ、朕を亡き者として葬り去ったか。……岩倉め、そこまで腐り果てたか!」
激昂と共に、天皇は手にした密書を火鉢に投げ込んだ。
紙が炎に包まれ、黒く縮れていく。
それはまるで、天皇の心の中で燃え上がる怒りの炎そのものだった。
「おのれ……おのれ……!」
天皇は布団を握りしめた。その指は白く変色し、爪が食い込んでいる。
全身がわななき、呼吸が荒くなる。
「兄上! お気を確かに!」
隣に控えていた和宮が、悲鳴のような声を上げて駆け寄った。
家茂もまた、膝行して天皇のそばへ寄る。
「帝、お体に障ります! どうか、お心を鎮めてください!」
だが、天皇の怒りは収まらなかった。
顔は朱に染まり、目は血走っている。
「鎮められるか! これが……これが朕が信じた臣下たちのすることか! 朕は、この国を憂い、民を思い、異国からこの国を守ろうとしただけだ。それなのに……!」
その時だった。
「ごふっ!」
天皇の口から、鮮血が迸った。
真っ赤な血が、白い布団と畳に飛び散る。
「兄上!」
「帝!」
和宮と家茂が絶叫する。
天皇は胸を押さえ、苦しげに咳き込んだ。口元から溢れる血が、長い髭を赤く染めていく。
すぐに松本良順が呼ばれた。
部屋の外で控えていた俺も、事態の深刻さを察し、中へと踏み込んだ。
松本先生の処置により、喀血はどうにか止まった。
だが、天皇の顔色は土気色になり、呼吸は浅く、早くなっていた。
それでも、その瞳だけは、鬼火のように爛々(らんらん)と輝いていた。
「……家茂、和宮」
天皇は、血に染まった口元を懐紙で拭い、二人を睨みつけた。
その形相は、もはや人ではなく、修羅のそれだった。
「朕は、決して許さぬ。あの逆賊どもを、一人残らず地獄へ送るまでは、死んでも死にきれぬ!」
その声には、底知れぬ怨念が込められていた。
「岩倉も、大久保も、西郷も……そして、朕の息子を殺した下手人も。全員の首を、この手で刎ねてやる。そうでなければ、睦仁に顔向けができぬ!」
部屋中の空気が、その執念に圧倒され、重く沈んだ。
誰も言葉を発することができなかった。
ただ一人、俺を除いては。
「帝」
俺は静かに進み出て、平伏した。
「そのお怒り、必ずや晴らしてみせます」
天皇の視線が、俺に突き刺さる。
「永倉……そちも、朕を慰めるか」
「いいえ。慰めなど不要です。必要なのは『力』です」
俺は顔を上げ、天皇の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「帝がご存命であるという事実。そして、京にいるのが偽物であるという真実。これこそが、奴らを討つための最強の武器となります」
俺は言葉を続けた。
「奴らは、帝が崩御されたと嘘をつくことで、自分たちの正当性を主張しています。ならば、その嘘を暴けばいい。帝が御自ら旗を掲げ、号令をかければ、日本中の心ある武士たちは、必ずやこちらに味方します」
天皇の目に、理性の光が戻り始めた。
「……朕が、旗頭となれと申すか」
「はい。ですが、今はまだその時ではありません。この冬を耐え、力を蓄え、春の訪れと共に反撃を開始するのです。それまでは、どうかご静養ください。帝のお命こそが、我らの希望なのです」
天皇は、しばらく俺を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、布団に身を沈めた。
「……よかろう。永倉、そちの言葉、信じよう」
天皇は天井を見上げた。その目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「睦仁よ……すまぬ。父は、もう少しだけ、この世にしがみつくぞ。お前の無念を晴らすためにな」
俺たちは部屋を辞した。
廊下に出ると、家茂が俺の肩を掴んだ。
「永倉、礼を言う。そちがいなければ、帝はどうなっていたか……」
「いえ。ですが上様、覚悟を決めてください」
俺は小声で言った。
「帝の命の灯火は、そう長くはありません。松本先生の診断では、この冬を越せるかどうか……」
家茂の顔が強張った。
「……わかっている。だからこそ、急がねばならぬのだ」
外に出ると、雪はさらに激しくなっていた。
だが、俺の心の中には、確かな炎が燃えていた。
孝明天皇の怒り。
それは、薩長という巨悪を焼き尽くすための、業火となるだろう。
俺は、白く染まる五稜郭を見上げ、拳を固く握りしめた。
再戦の時は、刻一刻と迫っていた。
我が子を殺され、自らも亡き者とされた天皇の怒りは凄まじく、喀血するほどに激昂する。
新八は、その怒りを力に変えるべく、ある策を献言する。
天皇の生存と偽帝の即位という真実は、新政府を討つ最強の武器となる。
新八は、春の反撃に向けて力を蓄えることを進言し、天皇もそれを受け入れる。
しかし、天皇の命の灯火は残りわずか。
家茂と新八は、覚悟を決め、薩長という巨悪を焼き尽くすための戦いへと備えるのだった。




