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第196話:開拓の槌音

五稜郭の拡張と並行して、新八たちは食料確保という喫緊の課題に直面していた。

将軍家茂自らが鍬を握り、開拓の先頭に立つ姿は、人々の心を一つにする。

 五稜郭の拡張工事と並行して、俺たちにはもう一つ、緊急に取り組まなければならない課題があった。

 それは「食」の確保である。

 数千の兵士と、その家族、そしてこれから増えるであろう移住者たちを養うためには、本土からの輸送だけに頼るわけにはいかない。

 自給自足の体制を整えること。

 それが、この北の大地で生き残るための絶対条件だった。


「総員、野に出よ! 武士も町人も関係ない。くわを持てる者は全て、開拓に従事せよ!」

 五稜郭に掲げられた高札には、そう記されていた。

 身分制度の厳しい江戸時代において、これは異例中の異例の布告だった。

 だが、不満の声は上がらなかった。

 なぜなら、その先頭に立っていたのが、他ならぬ徳川家茂公だったからだ。


 五稜郭の北側に広がる荒れ地。

 そこに、粗末な野良着をまとい、泥だらけになって鍬を振るう若者の姿があった。

「よいしょっ! ……ふぅ、土が硬いな」

 額の汗を袖で拭い、白い歯を見せて笑うその青年こそ、かつての征夷大将軍、徳川家茂である。

「上様、少しお休みください。あまり無理をなされては……」

 側近が心配そうに声をかけるが、家茂は首を振った。

「何を言う。民が働いているのに、余だけが休むわけにはいかぬ。それに、こうして土を耕していると、心が落ち着くのだ。自分が生きているという実感が湧く」

 家茂は再び鍬を握り直し、力強く地面に打ち込んだ。

 その姿を見た周囲の人々は、目頭を熱くし、さらに力を込めて作業に励んだ。

「上様が泥まみれになって働いておられるのだ。俺たちも負けていられない!」

「そうだ! この土地を、俺たちの手で豊かな畑にするんだ!」

 将軍の率先垂範は、何百回の演説よりも雄弁に、人々の心を一つにしていた。


 俺は、その様子を見守りながら、新たな制度の導入に奔走していた。

 それは「屯田兵制度」。

 本来の歴史では、明治政府が士族授産と北辺防備のために導入したシステムだ。

 兵士たちに土地を与え、平時は農業に従事させ、有事には武器を取って戦わせる。

 前世の記憶にある「屯田兵」の知識を、俺はこの時代で少し早めに、そしてより大規模に展開しようとしていた。

 これは、防衛と開拓を両立させるための最善策であり、同時に、職を失った武士たちに新たな生きがいを与えるための施策でもあった。


「新八さん、こいつはいい考えだ」

 屯田兵の募集名簿を見ながら、原田左之助が感心したように言った。

「食い扶持に困ってた浪人たちが、こぞって志願してきてるぜ。『自分の土地が持てる』ってのが魅力らしいな」

「ああ。人は、守るべきものがあれば強くなる。自分の畑、自分の家、自分の家族……それを守るために戦う兵士は、金で雇われた兵士よりも強いはずだ」

 俺は、集まった志願者たちの顔を見た。

 彼らの目は、不安よりも希望に輝いていた。

 かつては刀一本で世を渡ろうとしていた荒くれ者たちが、今は鍬を担ぎ、未来の収穫を夢見ている。

 その変化が、俺には嬉しかった。


 一方、松平容保率いる会津藩士たちは、さらに過酷な挑戦を始めていた。

 彼らが選んだ入植地は、五稜郭から西へ離れた余市よいち仁木にきといった地域だった。

 そこは、まだ手つかずの原生林が広がる、厳しい土地だった。


「殿、本当によろしいのですか? このような僻地に……」

 家老の西郷頼母が、不安げに尋ねる。

 だが、容保の決意は固かった。

「我ら会津武士は、逆境にこそ燃えるものだ。それに、この土地には可能性がある」

 容保は、手に持った林檎りんごの苗木を愛おしそうに撫でた。

 彼は、欧米の農業書を読み漁り、この地域の気候が果樹栽培に適していることを見抜いていたのだ。

「米が採れぬなら、果物を作ればいい。この林檎がたわわに実る頃には、ここを日本一の果樹園にしてみせる」


「武士の刀は、今は鍬だ」

 容保はそう宣言し、自ら先頭に立って巨木の根を掘り起こし始めた。

 慣れない農作業に、手のひらは豆だらけになり、血が滲む。

 だが、彼は決して弱音を吐かなかった。

 その背中を見て、会津藩士たちも奮い立った。

「殿に続け!」

「会津魂を見せてやる!」

 彼らの不屈の精神と勤勉さは、荒れ地を少しずつ、しかし確実に変えていった。

 数年後、この地が「北のフルーツ王国」と呼ばれるようになるいしずえが、今まさに築かれようとしていた。


 そして、経済の面からこの国づくりを支えていたのが、坂本龍馬だった。

 彼は、箱館港の一角に「北海道商会」の看板を掲げ、精力的に動き回っていた。

「金がなけりゃ、国は作れんぜよ」

 龍馬は、机の上に広げた帳簿を弾きながら、ニヤリと笑った。

「昆布、干しナマコ、ニシンかす……北の海は宝の山じゃ。こいつを本土や、清国しんこく、さらには欧米に売り込む」

 彼は、持ち前の交渉力と人脈を駆使して、独自の貿易ルートを開拓していた。

 特に、薩長の影響力が及ばない海外との直接取引は、北海道共和国にとって生命線となる外貨をもたらした。


「龍馬、また新しい商談か?」

 俺が訪ねると、龍馬は目を輝かせて言った。

「おう、新八! 今度は氷じゃ」

「氷?」

「ああ。冬の間に凍った湖の氷を切り出して保存し、夏に横浜や江戸へ運んで売るんじゃ。『函館氷』……こいつは高く売れるぜよ!」

「だが、横浜や江戸は薩長の支配下だぞ。どうやって売るつもりだ?」

 俺が懸念を示すと、龍馬は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「そこは『抜け道』がある。表向きはイギリスやアメリカの商船に積んで、外国の品として卸すんじゃ。暑さに参ってる連中は、氷がどこから来たかなんて気にせん。それに、商人ってのは国境よりも利益を優先する生き物じゃき」

 彼の発想は、常に常識の枠を超えていた。敵対関係すらも商売の種にしてしまうしたたかさが、この男にはあった。

 厄介者扱いされていた雪や氷さえも、彼にかかれば商品に変わるのだ。

「それに、武器や弾薬の買い付けも順調じゃ。グラバーの野郎も、最近は薩長よりわしらの方に興味を持っちょるみたいじゃしな」

 龍馬は豪快に笑った。

 その笑顔の裏には、冷徹な計算と、この新しい国を何としても守り抜くという強い意志があった。


 五稜郭の拡張、農地の開拓、そして経済の基盤作り。

 それぞれの場所で、それぞれの槌音つちおとが響いていた。

 それは、まだ生まれたばかりの頼りない音かもしれない。

 だが、多くの人々が心を一つにして奏でるその音は、確かに未来へと繋がる力強いリズムを刻んでいた。


 俺は、夕日に染まる開拓地を見渡した。

 泥にまみれながらも、笑顔で言葉を交わす人々の姿。

 そこには、かつての殺伐とした空気は微塵もない。

 ここにあるのは「生」だ。

 生きようとする力、育てようとする意志だ。


「悪くないな……」

 俺は小さくつぶやき、心地よい疲労感と共に、五稜郭への帰路についた。

 明日もまた、忙しい一日になるだろう。

 だが、それが今は楽しみでならなかった。


会津藩士たちは果樹栽培に挑み、坂本龍馬は独自の貿易ルートを開拓する。

それぞれの場所で、それぞれの役割を果たす人々。

彼らの努力が、北の大地に希望の種を蒔いていく。

新八は、龍馬の新たな商談に耳を傾けながら、この国の未来が明るいものであると確信する。

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