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第194話:蝦夷地上陸

慶応四年十月、旧幕府軍艦隊はついに蝦夷地・箱館へ到着した。

寒風吹きすさぶ荒涼とした大地を前に、人々の心には不安が広がる。

 慶応四年(一八六八年)十月。

 旧幕府軍艦隊は、ついに蝦夷地・箱館(函館)の港に入港した。

 旗艦「開陽丸」の甲板に立つ俺は、吹き付ける冷たい風に身を震わせながら、目の前に広がる景色を見つめていた。


 鉛色の空の下、荒涼とした大地が広がっている。

 その中央に、臥した牛のような独特の形をした山――箱館山が鎮座し、その麓に小さな港町がへばりつくように存在していた。

 山肌は既に枯れ色に染まり、所々に白い雪が残っている。

 江戸や京とは全く違う、厳しくも美しい、北の果ての光景だった。


「これが、蝦夷地か……」

 隣にいた原田左之助が、呆然としたようにつぶやいた。

「なんというか……寂しいところだな。本当にここで暮らせるのか?」

 その言葉は、船に乗っている多くの人々の不安を代弁していた。

 甲板には、兵士だけでなく、その家族や、幕府を慕ってついてきた町人たちも集まっていた。

 彼らは皆、不安げな表情で、見知らぬ土地を見つめている。

 無理もない。

 彼らにとって蝦夷地は、罪人が流される最果ての地であり、鬼や熊が棲む魔境という認識なのだ。

 寒風が吹き抜けるたびに、赤ん坊の泣き声や、女性のすすり泣く声を思わせる音が聞こえてくる。

 空気は重く、沈んでいた。


 その時だった。

「皆の者、面を上げよ!」

 凛とした声が、甲板に響き渡った。

 徳川家茂である。

 彼は、厚手の陣羽織を羽織り、腰には名刀を佩き、堂々とした足取りで船首へと歩み出た。

 その顔には、かつての線の細い若君の面影はない。

 数々の修羅場を潜り抜け、一国の主としての威厳と覚悟を纏った、真の指導者の顔があった。


 家茂は、箱館山を指差し、力強く宣言した。

「見よ! あれが我らの新しい大地だ!」

 彼の声は、風を切り裂き、人々の耳に届いた。

「確かに、ここには何もないかもしれぬ。寒く、厳しい土地かもしれぬ。だが、ここには自由がある! 薩長の理不尽な暴力も、古い因習もない、真っ白な大地だ!」

 家茂は、振り返り、一人一人の顔を見渡した。

「皆、よくぞここまでついてきてくれた。余は、其の方らを誇りに思う。……何もないなら、作ればいい! 家も、畑も、町も! 我々の手で、一から作るのだ! ここが、我らの新しい国だ!」


 その言葉は、凍り付いていた人々の心に火を灯した。

 何もないなら、作ればいい。

 その単純で力強い理屈が、不安を希望へと変えていく。

「上様……」

「そうだ、俺たちが作るんだ!」

「やってやろうじゃないか!」

 あちこちから、歓声が上がり始めた。

 家茂は満足げに頷くと、タラップの前に立った。

「余が先に行く。皆、続け!」

 将軍自らが先頭に立ち、未開の地へと第一歩を踏み出す。

 その背中は、どんな言葉よりも雄弁に、未来への道を指し示していた。


 俺は、その光景を見て、胸が熱くなるのを感じた。

 歴史は変わった。

 かつて史実では、大坂城で病没し、悲運の将軍として終わった徳川家茂。

 彼が今、生きて、新しい国を作ろうとしている。

 俺が未来から来た意味は、ここにあったのかもしれない。


「冷たいが、美味い空気だ」

 俺は大きく深呼吸をして、肺いっぱいに北の冷気を吸い込んだ。

 凛として、澄み切った空気。

 それは、新しい時代の始まりの匂いがした。

「ああ。ここから全てが始まるんだな」

 隣に立った榎本武揚が、感慨深げに言った。

 彼はオランダ仕込みの知識と技術で、この艦隊をここまで導いてきた。

 その瞳は、既にこの荒野の上に築かれる未来都市を夢見ているようだった。

「永倉君、忙しくなるぞ。五稜郭の改修に、開拓、外交……やることは山積みだ」

「望むところですよ。退屈してる暇なんてなさそうだ」

 俺たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。


 タラップを降り、固い大地を踏みしめると、一人の男が駆け寄ってきた。

 ボロボロの着物に、アイヌ文様の入った厚手の羽織を重ね着し、腰には大きな野帳をぶら下げている。

 日焼けした顔に、白い髭を蓄えたその男は、満面の笑みを浮かべていた。

「ようこそ! ようこそ、北の大地へ!」

 松浦武四郎だ。

 彼は、幕末最大の探検家であり、蝦夷地の内陸部まで踏破し、詳細な地図を作った男である。

 俺とは、以前江戸で面識があった。

 彼は、この日のために先乗りし、現地のアイヌの人々との調整や、地理の調査を行ってくれていたのだ。


「松浦先生、久しぶりです」

 俺が声をかけると、松浦は俺の手を両手で強く握りしめた。

「おお、永倉君! 無事で何よりだ。それに、上様まで……夢のようだ」

 松浦は、家茂の前に進み出ると、深々と頭を下げた。

「上様、この松浦武四郎、首を長くしてお待ちしておりました」

「松浦、大儀であった。そちの地図のおかげで、ここまで来られたぞ」

 家茂のねぎらいの言葉に、松浦は感極まったように目を潤ませた。


「ところで、松浦。この地を、何と呼ぶつもりだ? いつまでも『蝦夷地』では、異民族の地という意味合いが強すぎる」

 家茂の問いに、松浦は待っていましたとばかりに、懐から一枚の紙を取り出した。

 そこには、力強い筆文字で、六つの候補が書かれていた。

 日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道。

 松浦は、その中の一つ、「北加伊道」を指差した。


「上様、私はこれを推します。『北加伊道』です」

「ホッカイドウ……か。どういう意味だ?」

「『加伊カイ』とは、アイヌの言葉で『この地に生まれた者』を意味します。かつて、私がアイヌの古老から聞いた話では、彼らは自分たちの国を『カイ』と呼んでいたそうです」

 松浦は、熱っぽく語った。

蝦夷えみしという字は、中華思想に基づく蔑称です。しかし、カイという音には、この大地に生きる人々の誇りが込められています。北にある、カイの道。すなわち、アイヌの人々と共に歩む道……という意味を込めました」


 家茂は、「北加伊道」という文字をじっと見つめた。

 そして、何度か口の中で呟いた。

「北加伊道……北海道……」

 やがて、彼は顔を上げ、晴れやかな表情で言った。

「良い名だ。実に良い」

 家茂は、周囲の家臣たちに向かって宣言した。

「これより、この地を『北海道』と改める! 字は、海を渡って来た我らの道という意味も込めて、『海』の字を当てよう。『北海道』だ!」


 おおっ、というどよめきが起こった。

 北海道。

 その響きは、新しく、そしてどこか懐かしく、人々の胸に落ちた。

「そして、我らが作る新しい国の名は……『北海道共和国』とする!」

 家茂の声が高らかに響き渡る。

 その瞬間、冷たい北風がふっと止み、雲の切れ間から一筋の光が差し込んだ。

 それはまるで、天が新しい国の誕生を祝福しているかのようだった。


「北海道共和国……!」

「万歳! 上様万歳! 北海道万歳!」

 兵士たちが、帽子を投げて歓声を上げる。

 その声は、箱館山にこだまし、遠くの海へと広がっていった。


 俺は、その光景を見ながら、松浦に言った。

「いい名前ですね、先生」

「ああ。だが、名前だけ立派でも仕方がない。中身を作るのは、これからだぞ、永倉君」

 松浦は、厳しくも温かい目で俺を見た。

「わかっています。アイヌの人たちとも、うまくやっていきたい」

「うむ。彼らは、この大地の先輩だ。敬意を持って接すれば、必ず力になってくれる」


 俺は頷き、再び海の方を見た。

 遠く南の空は、厚い雲に覆われている。

 そこには、薩長という強大な敵が待ち構えている。

 だが、恐れることはない。

 俺たちには、この広い大地と、新しい名前がある。

 そして何より、未来を変えるという強い意志がある。


 俺は、腰の刀の柄をぎゅっと握りしめた。

 これは、愛刀「播州住手柄山氏繁」ではない。あの刀は、江戸を発つ夜、佐那に預けてきた。

 「必ず迎えに来る」という約束と共に。

 今、俺の腰にあるのは、会津で調達した無銘の刀だ。

 だが、その重みは変わらない。

 この刀で、未来を切り拓く。

 遠く江戸の空の下で待つ彼女のためにも、そして、この北の大地に骨を埋める覚悟を決めた仲間たちのためにも。


 北の大地に、自由と平等の国を築くための、長く険しい、しかし希望に満ちた戦いが始まる。


将軍・徳川家茂は力強く宣言する。「ここが我らの新しい国だ」と。

新八たちは、未開の地での国作りに挑む。

家茂の言葉に鼓舞され、人々は希望を取り戻す。

上陸した彼らを迎えたのは、探検家・松浦武四郎だった。

彼は家茂に、この地の新しい名を提案する。

「北加伊道(北海道)」。

その名には、アイヌの人々と共に生きるという決意が込められていた。

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