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第193話:沖田と琴

北へ向かう船内、沖田総司は長引く退却戦の疲労から体調を崩していた。

そんな彼を献身的に看病するのは、新徴組の中沢琴だった。

 仙台・松島湾を出航した旧幕府軍の艦隊は、鉛色の波を切り裂き、北へと進んでいた。

 俺たちが乗る輸送船の船底は、独特の湿気と油の匂い、そして数百人の兵士たちの体臭が混じり合った、むせ返るような空気に満ちていた。

 波が船体を打つたびに、ギシギシと木材が悲鳴を上げ、船内は大きく揺れる。

 その揺れに合わせるように、あちこちから船酔いに苦しむ呻き声が聞こえてくる。


 その一角、薄暗いランプの灯りに照らされた場所に、沖田総司は横たわっていた。

 かつて「新選組一番隊組長」として京の街を震え上がらせた天才剣士。

 新八から授かった未来の知識――栄養価の高い食事と徹底した安静療法によって、彼の労咳はひとたびは、奇跡的な回復を見せていた。

 頬には血色が戻り、前線で剣を振るえるほどにまでなっていたのだ。

 しかし、会津から仙台へと続く過酷な退却戦、そして慣れない船旅が、回復途上の体に再び負担をかけていた。


「ゴホッ、ゴホッ……!」

 乾いた咳が、沖田の口から漏れた。

 彼は眉を顰め、胸元をさする。

 発作というほど激しいものではないが、長引く咳は体力を奪う。

「総司さん」

 その背中を、一人の女性が慣れた手つきでさすった。

 中沢琴である。

 彼女は、新国軍の旅団から新徴組に戻り、その一員として、兄の中沢貞祇と共にこの船に乗り込んでいた。

 法神流の使い手であり、男勝りの長身と凛とした美貌を持つ彼女は、戦場では鬼神の如き強さを見せるが、今は慈母のような眼差しで沖田を見つめていた。


「大丈夫? 少し、熱があるみたい」

 琴は、自分の額を沖田の額に軽く当てて熱を測った。

 少し熱い。微熱があるようだ。

「……すみません、琴さん。せっかく良くなっていたのに」

 沖田は、悔しそうに唇を噛んだ。

 仙台では、土方歳三を助けようと無理をして指揮を執り、雨の中を行軍したこともあった。

 新八に「絶対に無理をするな」と釘を刺されていたにも関わらず、だ。

 そのツケが、今になって回ってきている。


「謝らないで。仙台でのあれは、仕方なかったわ。あなたも、武士なんだもの」

 琴は、手ぬぐいを水で濡らし、沖田の額に乗せた。

「それに、これは『ぶり返し』よ。新八さんも言ってたじゃない。一度良くなった体は、そう簡単には負けないって」

 彼女の声には、確信があった。

 以前の沖田は、死の影が色濃く漂っていた。

 だが今は違う。

 痩せてはいるが、その瞳には生気が宿っている。

 これは、回復への過程における一時的な停滞に過ぎない。


「そうですね……。新八さんの『栄養療法』のおかげで、体はずいぶん軽くなりましたから」

 沖田は、自分の腕を軽く握ってみた。

 以前のような骨と皮だけではない。薄くではあるが、筋肉の感触がある。

「卵に牛乳、それに牛や豚の肝臓だっけ? あんなにたくさん食べさせられたのは、生まれて初めてだったよ」

 沖田が苦笑すると、琴もつられて笑った。

「ふふっ。新八さん、お母さんみたいだったものね。『残さず食え!』って」

 二人の間に、温かい空気が流れた。

 船底の陰鬱な空気も、二人の前では少しだけ和らいで見えた。


 その時、船が大きく揺れた。

 沖田が顔をしかめる。船酔いだ。

「うっ……」

「気持ち悪い?」

 琴はすぐに背中をさすり、水筒の水を一口含ませた。

「少し、横になりましょう。揺れが収まるまで」

 琴は、沖田の頭を自分の膝に乗せた。

 膝枕だ。

 沖田は少し照れくさそうにしたが、抵抗する力もなく、素直に身を任せた。

 琴の体温と、ほのかな香りが、船の油臭さを消してくれるようだった。


「おーい、総司。生きてるか?」

 船内の見回りをしていた俺は、そこへ顔を出した。

 膝枕をされている沖田を見て、俺はニヤリと笑った。

「おっと、お邪魔だったかな? 随分と極楽じゃねえか」

「し、新八さん! これはその……」

 沖田が慌てて起き上がろうとするのを、琴が「動いちゃダメ」と制した。

 俺は、沖田の顔色を覗き込んだ。

 確かに顔色は優れないが、以前のような土気色ではない。

 目の光もしっかりしている。

「咳はどうだ?」

「少し出ますが、血は出ていません。ただ、体がだるくて」

「まあ、この揺れじゃな。健康な奴でも参ってるんだ、無理もねえ」

 俺は、沖田の手首を掴み、脈を診た。

 少し早いが、力強い。

 これなら大丈夫だ。

「心配すんな。これはただの疲れと船酔いだ。お前の体は、ちゃんと病気と戦えるようになってる」

 俺の言葉に、沖田はほっとしたように息を吐いた。

「よかった……。また、元の木阿弥になったらどうしようかと」

「なるわけねえだろ。俺がどれだけ高い肉や卵を貢いだと思ってるんだ」

 俺は冗談めかして言った。

 実際、仙台での食料調達は苦労したのだ。


「北海道に着いたら、もっといいものが食えるぞ。新鮮な魚に、牛乳も手に入るらしい」

「牛乳……またですか」

 沖田がげんなりした顔をする。

 彼は牛乳の独特の匂いが苦手なのだ。

「薬だと思って飲みな。な、琴さん?」

「ええ。私が鼻をつまんででも飲ませます」

 琴が真顔で言うので、沖田は「勘弁してください」と笑った。


 笑えるなら、大丈夫だ。

 気力さえあれば、免疫力も上がる。

 俺は、沖田に言った。

「総司。向こうに着いたら、少し養生して……また道場でもやるか?」

「道場……ですか」

「ああ。お前が師範で、俺が師範代だ。どうだ?」

 沖田は、少し考え込むように視線を彷徨わせた後、静かに首を振った。

「いいえ、新八さん。僕は……」

「ん?」

「僕は、子供たちに教えたいんです。強い剣じゃなくて、負けない心を」

 沖田の言葉に、俺はハッとした。

 彼は、自分の病と向き合う中で、強さの意味を問い直していたのかもしれない。

 ただ敵を倒すだけの剣ではなく、困難に立ち向かうための剣。

 それを伝えたいというのだ。

「……そうか。そいつはいいな。一番隊組長・沖田総司の『心を守る剣』か」

「はい。それに、琴さんも手伝ってくれるって」

 沖田が琴を見上げると、彼女は優しく微笑み返した。

「ええ。私が心を鬼にして、総司さんの鈍った体を叩き直して差し上げます」

「それは怖いな」

 俺たちは笑い合った。


 船は、波を乗り越え、北へ進む。

 沖田の体調は万全ではない。

 だが、ここには絶望はない。

 あるのは、確かな回復への手応えと、未来への希望だ。

 新八の知識と、琴の献身。

 二つの支えがある限り、沖田総司は何度でも立ち上がるだろう。

 北の大地で、彼が再び剣を握る日――いや、竹刀を握り、子供たちに囲まれて笑う日は、そう遠くないはずだ。

 俺はそう信じて、二人を残し、再び甲板へと戻っていった。


新八の励ましと琴の看病により、沖田は再び生きる気力を取り戻す。

北海道での新たな生活、そして道場を開くという夢を語り合う彼らの表情は明るい。

過酷な運命の中でも、希望の灯火は消えることなく、北の大地へと受け継がれていく。

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