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第19話:孤独な介入者

千葉佐那の言葉が、新八の心の鎧を砕きました。


「合理性」という名の孤独な道。仲間たちの温かい輪が、その孤独を浮き彫りにし、罪悪感を増幅させます。

史実を知る介入者として、非情な計画を進めるはずでした。

だけど、湧き上がるのは「救いたい」という純粋な願い。これは、新八の本当の戦いの始まりです。

 千葉道場を後にして、試衛館への帰路につく頃には、江戸の空は茜色に染まり始めていた。家路を急ぐ人々のざわめき、天秤棒を担ぐ物売りの声、どこかの家から漏れ聞こえる子供たちの笑い声。それらが混じり合った、活気と生活の匂いに満ちたいつもの江戸の夕暮れが、今日に限ってはどこか現実感なく、一枚の薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように感じられた。


 俺の意識は、先ほどからずっと、あの静かな道場の片隅で交わした言葉の反芻に費やされていた。


『剣は、心を映す鏡です』

『あなたの剣は……ひどく、迷っていました』


 千葉佐那。

 北辰一刀流の宗家が娘にして、「鬼小町」とまで呼ばれるほどの使い手。彼女が放った言葉の数々が、俺の心の最も深い部分に突き刺さり、抜けずにいる。


 転生してから今日まで、俺は「合理性」という鎧を身に纏い、自らの心を殺すことで、この過酷な時代を生き抜こうとしてきた。未来の知識という絶対的なアドバンテージ。それを最大限に活用するためには、個人的な感情や情に流されてはならない。誰を救い、誰を見捨てるか。その非情な選択を、俺は「歴史の最適化」という大義名分のもと、冷徹な神の視点で下そうとしていた。


 仲間たちの死という悲劇を回避し、日本をより良い未来へ導く。その崇高な目的のためならば、俺自身の人間性など、些末な犠牲に過ぎない。そう信じ、いや、信じ込もうとしてきた。


 だが、佐那の純粋な剣と、全てを見透かすような澄んだ瞳に触れたことで、その信念は根底から揺さぶられてしまった。彼女は、俺の剣に映る「迷い」を正確に指摘した。それは、俺自身が「合理性」という名の蓋で無理やり押さえつけ、見て見ぬふりをしてきた、俺自身の心の叫びだった。


「おい、新八」


 不意に、隣を歩いていた土方歳三が、低い声で呼びかけてきた。その声に、俺は思考の海から無理やり引き戻される。


「さっきから何を考え込んでいる。まさか、あの千葉の小娘に骨抜きにでもされたか?」


 ニヤリと口の端を吊り上げて、土方がからかうように俺の顔を覗き込む。その言葉は、あながち的外れではないだけに、俺は内心の動揺を悟られまいと、ことさらに軽く笑ってみせた。


「馬鹿なっ。少し、試合の反省をしていただけです。あの人の剣は、俺たちの天然理心流とは全く違う理で動いている。次やるときはどう攻略すべきか、考えていただけですよ」

「ほう。反省、ねえ」


 土方は俺の答えに納得したのかしないのか、探るような視線を向けたまま、ふっと鼻で笑った。


「お前は時々、妙な顔をする。すべてを見通しているような、それでいて、すべてを諦めているような顔だ。今日の試合中も、そんな顔をしていたぞ」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 佐那に言われた「強い光と、それと同じくらい深い影」。土方の言葉は、奇しくもそれと同じ響きを持っていた。この男の、人の本質を見抜く洞察力の鋭さには、いつもながら舌を巻く。


「……考えすぎだ、歳さん。俺はただの永倉新八だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 そう答えるのが精一杯だった。

 誰にも理解されるはずがない。俺が抱える秘密と孤独は、この時代の人間には到底分かり得ないものだ。俺は永倉新八でありながら、永倉新八ではない。この世界に存在するはずのない、未来からの介入者。その事実が、俺と仲間たちの間に、決して越えることのできない透明な壁を作っている。


 だが、土方の鋭い視線に射抜かれていると、心の片隅で、相反する感情が芽生えるのを感じた。

 もし、この男になら。

 この、誰よりも現実的で、それでいて誰よりも理想を追い求める男になら、俺の抱える途方もない計画と苦悩を、ほんの少しでも理解してくれるのではないか、と。


 そんなあり得ない妄想は、すぐに自嘲の笑みと共にかき消した。馬鹿なことを考えるな。俺の知識は、俺一人が背負うべき十字架だ。それを誰かに打ち明けることは、この世界の理を歪めるだけでなく、打ち明けられた相手をも、計り知れない重圧で押し潰すことになるだろう。


 俺は、孤独でなければならない。

 孤独な介入者として、この歴史という巨大な舞台の脚本を、たった一人で書き換えなければならないのだ。


 そんなことを考えているうちに、見慣れた試衛館の門構えが視界に入ってきた。門の前では、一足先に帰っていた近藤勇が、仁王立ちで俺たちの帰りを待っていた。


「おう、お前たち、遅かったじゃないか! 待ちくたびれたぞ!」


 俺たちの姿を認めるなり、近藤は顔をくしゃくしゃにして、太陽のような笑顔を向けた。その手には一升瓶がぶら下がっている。


「今日は永倉の見事な試合を祝して、無礼講だ! 俺がとっておきの酒を用意した! さあ、今夜はぱーっとやろうぜ!」


 そのあまりにも屈託のない、温かい出迎えに、俺は胸の奥を強く突かれたような衝撃を受けた。

 この人だ。

 この、誰よりも人間臭く、情に厚く、仲間を愛する男を、俺は史実通り、見殺しにする計画を立てている。徳川幕府を救い、日本を近代国家へと魔改造するという壮大な計画の、最初の「必要悪」として。


 ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。

 強い罪悪感が、黒い波のように足元から這い上がってきて、俺の心臓を鷲掴みにした。


「……ありがとうございます、近藤先生」


 俺は俯き、感謝の言葉を絞り出す。その顔を、きっと近藤には見せられなかった。


 その夜の試衛館は、近藤の言葉通り、賑やかな宴の場となった。

 俺の健闘を称える声、千葉道場との交流を喜ぶ声、そしてただ酒が飲めるのが嬉しいだけの声。道場に集った門人たちの熱気が、初冬の冷たい空気を温めていた。


 俺は、その輪の中心にいながら、どこか一人だけ違う場所にいるような感覚に囚われていた。仲間たちの笑い声が、まるで水中で聞いているかのように、くぐもって遠くに聞こえる。差し出される酒を黙って受け、口に運びながら、俺はただ、彼らの笑顔をぼんやりと眺めていた。


 沖田総司が、子供のようにはしゃぎながら山南敬助に絡んでいる。

 原田左之助と藤堂平助が、どっちが多く食えるかで言い争っている。

 井上源三郎が、そんな若者たちを、父親のような優しい目で見守っている。

 そして、土方歳三が、呆れたような顔をしながらも、その輪から離れようとはしない。

 中心には、いつものように近藤勇がいる。豪快に笑い、一人ひとりに声をかけ、この場所を一つの大きな家族のようにまとめ上げている。


 温かい光景だ。

 俺が官僚時代に失い、心のどこかでずっと渇望していた、人間と人間の、剥き出しの繋がりがここにはある。


 だが、俺はこの輪の中に完全には溶け込めない。

 俺は「孤独な介入者」だ。

 この温かい場所を守るという大義のために、彼らの運命に、歴史に、不自然な形で手を加えようとしている異分子。


 以前の俺なら、この孤独感を、自らに課せられた宿命として、冷徹に受け入れていただろう。だが、今の俺は、その孤独を、はっきりと「痛み」として感じていた。千葉佐那の剣がこじ開けた心の扉から、人間としての生々しい感情が溢れ出して止まらない。


 彼らと同じ人間として、笑い合いたい。

 彼らと同じ未来を、何の打算もなく、ただ信じたい。


 史実を知るがゆえの傲慢さ。神の視点に立とうとする愚かさ。その欺瞞に満ちた自分自身が、今はひどく醜いものに思えた。


「――救いたい」


 それは、計算や合理性を超えて、俺の心の奥底から、ほとんど祈りに近い形で湧き上がってきた、純粋な願いだった。

 この温かい場所を、このかけがえのない仲間たちを、一人残らず救いたい。

 たとえ、それがどれほど困難で、矛盾に満ちた道であろうとも。


 俺は手の中の杯に残っていた酒を、一気に呷った。喉を焼く熱い液体が、俺の迷いを洗い流していくような気がした。


 孤独な道は変わらない。

 だが、その先に守るべきものの輝きが、以前よりもずっと強く、鮮やかに見えている。


 俺はゆっくりと立ち上がり、仲間たちが作る輪の中へと、今度こそ自らの意志で足を踏み入れた。

 俺の本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。



最後まで感謝です。千葉佐那の剣が、主人公の心の扉をこじ開けました。


合理という名の孤独な介入者に、「痛み」と「願い」が芽生える。

仲間を全員救うという決意は、計算から祈りへと変わりました。この心の変化が、彼の計画にどう影響するのか。次回の葛藤にご期待ください。

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― 新着の感想 ―
当時瓶はないですね。強いて言えば一升徳利か角樽かなあ。
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