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第139話:好敵手の名

回復した高杉晋作は、自らを救った人物が敵である新八だと確信します。

 下関の海峡を望む高台。

 春の兆しを含んだ風が、高杉晋作の羽織を揺らしていた。

 彼は三味線を膝に置き、海を見つめている。

 その顔色は、一月前とは比べ物にならないほど良い。死の淵から生還した男の顔には、以前よりも深い陰影と、鋭い光が宿っていた。


「……三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」


 高杉は爪弾きながら、都々逸を口ずさむ。

 だが、その目は笑っていない。

 彼の思考は、京にいる「見えざる敵」へと向かっていた。


「新選組、永倉新八……」


 確信に近い推測だった。

 松本良順を動かし、西洋医学の粋を集めた治療法を送りつけ、あまつさえ「死なれては困る」というメッセージを込める。

 そんな芸当ができるのは、今の幕府側には彼しかいない。


 高杉は、かつて京で耳にした永倉の噂を反芻する。

 「神算鬼謀の剣客」「未来を知る男」。

 池田屋事変で長州の計画を看破し、禁門の変では圧倒的な力で長州軍を粉砕した。

 普通なら、憎むべき仇敵だ。

 だが、高杉の胸に去来するのは、憎しみではなく、奇妙な共感だった。


「あいつは、分かっているんだ」


 高杉は独り言ちた。

 幕府も長州も、所詮は小さな枠組みに過ぎない。

 このまま内戦を続ければ、日本は疲弊し、欧米列強の餌食になる。

 それを防ぐためには、強力なリーダーシップが必要だ。

 長州には俺がいる。薩摩には西郷や大久保がいる。

 だが、幕府には?

 徳川慶喜は切れ者だが、保身に走るきらいがある。

 そんな中、永倉新八という異分子が現れた。


「あいつは、俺を生かすことで、長州を制御しようとしている。暴発させず、しかし死に体にもせず、幕府改革の『当て馬』として利用するつもりか」


 なんと傲慢で、なんと壮大な絵図か。

 敵の将を駒として使い、日本の未来という盤面を動かそうとする。

 その発想のスケールは、高杉自身のそれと共鳴する。


「面白い男よ」


 高杉は三味線を置き、立ち上がった。

 海峡の向こう、京の方角を睨み据える。


「永倉新八。お前が俺を救ったのか? だが、それは飼い犬にするためじゃないだろう? 俺が噛み付いてくることも、計算済みのはずだ」


 高杉の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。

 好敵手。

 思想も立場も違う。いずれ戦場で相まみえるかもしれない。

 だが、彼らは「日本を守る」という一点においてのみ、誰よりも深く繋がっている。


「受けて立つぞ、永倉。お前が描く未来と、俺が描く未来。どちらが面白いか、勝負だ」


 高杉は懐から、あの治療法の書状を取り出した。

 そして、風に乗せて空へと放った。

 紙片はひらひらと舞い上がり、海峡の彼方へと消えていった。

 それは、過去の自分との決別であり、新たな戦いへの狼煙でもあった。



 一方、京。

 新選組屯所の一室で、俺は筆を走らせていた。

 宛先は、江戸の佐那さんだ。


 『拝啓

 京の梅もほころび始めましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 先日、長州より風の便りが届きました。

 例の患者は、奇跡的な回復を見せているとのことです』


 俺はそこで筆を止め、窓の外を見た。

 高杉晋作が生還した。

 これは、史実に対する重大な改変だ。

 本来なら、彼は今年の四月に亡くなるはずだった。

 彼の死によって、長州の主導権は過激な討幕派へと移り、戊辰戦争への道が確定する。

 だが、彼が生きていれば、話は変わる。

 高杉はリアリストだ。無益な内戦を避け、より合理的な形で新国家を建設しようとするだろう。

 それは、俺が目指す「公議政体」とも、どこかで接点を持てるかもしれない。


 『これで、歴史が変わります。

 多くの血が流れるはずだった未来を、少しだけ、良い方向へ捻じ曲げることができたかもしれません』


 俺は再び筆を動かす。

 佐那さんにも、全てを話しているわけではない。俺が未来から来たことも、具体的な歴史の結末も。

 だが、彼女は聡明だ。俺の言葉の端々から、俺が背負っているものの重さを感じ取ってくれている。


 『ですが、これは賭けでもあります。

 生き延びた彼が、幕府にとって最大の脅威となる可能性も否定できません。

 それでも、私は彼に生きていてほしかった。

 英雄不在の時代に、英雄を殺すことは、日本にとっての損失だと信じたからです』


 書き終えた手紙を封筒に入れ、封をする。

 その時、ふと佐那さんの顔が浮かんだ。

 凛とした眼差し。竹刀を構えた時の美しさ。そして、俺を見る時の、少しだけ憂いを帯びた優しい瞳。


 俺は、彼女に甘えているのかもしれない。

 孤独な戦いの中で、彼女への手紙だけが、俺の心を繋ぎ止めるアンカーになっている。


 「……待っていてください、佐那さん」


 俺は小さく呟いた。

 この動乱が終わったら、必ず生きて帰る。

 そして、君に伝えたいことがある。

 それはまだ、手紙には書けない言葉だ。


 数日後、江戸の千葉道場。

 稽古着姿の佐那は、届いたばかりの手紙を読み終え、深く息を吐いた。


「……永倉様」


 彼女の胸に去来するのは、安堵と、そして微かな恐れだった。

 敵将を救うという、常人には理解しがたい決断。

 それを「歴史を変えるため」と言い切る、永倉の視座の高さ。

 彼は、一体どこを見ているのだろう。

 時折、彼が遠い世界――自分たちの手の届かない場所――から来ているのではないかと感じることがある。


「貴方は、優しすぎます」


 佐那は手紙を胸に抱いた。

 その優しさは、時に彼自身を傷つける刃となるかもしれない。

 敵を生かすことは、自分を窮地に追い込むことと同義だ。

 それでも彼は、その道を選んだ。


「……身震いするほど、大きな方」


 佐那は道場の神棚を見上げた。

 武神・鹿島大明神。

 どうか、彼をお守りください。

 彼が背負う重荷を、少しでも軽くしてください。

 そして願わくば、その重荷を共に背負える強さを、私にください。


 佐那は竹刀を握りしめた。

 その手には、以前よりも強い力が込められていた。

 ただ待つだけの女にはならない。

 彼が帰ってくる場所を守るために、私もまた、戦わねばならないのだ。


 京と江戸。

 離れた場所にいる二人の心は、手紙を通じて、より強く結びついていた。

 そして西の空の下では、復活した龍が、新たな時代の風を呼び込もうとしていた。


 真の「夜明け前」――最も暗く、激しい嵐の季節が始まろうとしていた。


敵将を救い、歴史を「良い方向」へ捻じ曲げようとする新八の真意。

互いに認め合う好敵手としての関係が、日本の未来を大きく動かそうとしています。


歴史の改変は吉と出るか凶と出るか?

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