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第138話:長州の奇跡

死の淵にあった高杉晋作のもとに届いた、差出人不明の書状。

そこには当時の常識を覆す治療法が記されていました。

罠か、希望か。

高杉は最後の賭けに出ます。

 慶応三年、一月。

 長州、下関。

 海峡を渡る風は冷たく、鉛色の空が重く垂れ込めていた。その寒風は、桜山神社の境内にある小さな庵にも容赦なく吹き付けていた。


「ゴホッ、ゴホッ……!」


 激しい咳き込みと共に、布団の上に鮮血が散る。

 高杉晋作は、痩せ細った体を小さく丸め、苦痛に顔を歪めていた。

 かつて奇兵隊を率い、幕府軍を震撼させた「革命児」の面影は、今の彼にはない。頬はこけ、眼窩は落ち窪み、死神の影が色濃く漂っている。


「晋作、大丈夫か!」


 枕元に駆け寄ったのは、木戸孝允(桂小五郎)だった。

 普段は冷静沈着な彼も、盟友の変わり果てた姿に、焦燥の色を隠せないでいる。


「……桂さんか。見苦しいところを、見せたな」

 高杉は、血に濡れた手ぬぐいを握りしめ、自嘲気味に笑った。

「もうじきだ。俺の命の灯火は、もう消えかかっている」

「何を弱気なことを! 長州には、日本には、まだお前が必要なんだ」


 木戸の悲痛な叫びに、高杉は力なく首を振る。

 自分の体のことは、自分が一番よく分かっている。労咳(結核)だ。それも、末期の。

 医者たちは皆、匙を投げた。「手の施しようがない」と。


 その時、庵の戸が荒々しく開かれた。

 冷気と共に飛び込んできたのは、高杉の腹心である奇兵隊士だった。


「高杉先生! 妙なものが届きました!」

「妙なものだと? 今はそれどころでは……」

 木戸が咎めようとするが、隊士は構わずに、懐から一通の書状と、小さな木箱を取り出した。


「差出人は不明です。ただ、表書きに『高杉晋作殿 治療法在中』とだけ」


 その言葉に、室内の空気が凍りついた。

 治療法? この期に及んで?


「見せろ」

 高杉が掠れた声で命じる。

 木戸が書状を受け取り、封を切る。中から出てきたのは、数枚の和紙だった。

 そこには、流麗な筆致で、驚くほど詳細な指示が書き連ねられていた。


「……なんだこれは」

 木戸が目を見開く。

「『部屋の換気を徹底し、日光を入れること』『一日に卵三個、鶏肉、牛乳を摂取すること』『喀血時は絶対安静、会話も禁ず』……?」


 当時の常識とはかけ離れた内容だった。

 労咳患者は部屋を閉め切り、精進料理を食べるのが一般的だ。卵や肉など、病人に毒だと言われていた。


「ふん、幕府の罠か」

 隊士の一人が吐き捨てる。

「毒でも盛るつもりでしょう。こんな出所の知れないもの、信用できません!」


 だが、高杉の目は違っていた。

 彼は震える手で書状を奪い取ると、食い入るように文字を追った。

 その瞳に、消えかけていた光が戻ってくる。


「……いや、違う」

 高杉が呟いた。

「これは、罠じゃない。……理に適っている」

「理だと?」

「読んでみろ。ここだ。『労咳は菌による病なり。菌は湿気を好み、日光を嫌う。故に換気と日光消毒が必要』……『身体の抵抗力を高めるため、高栄養の食事を摂るべし』……」


 高杉は、かつて上海へ渡航した際、西洋の事情を見聞している。

 その彼だからこそ、この書状に書かれていることが、単なる迷信ではなく、西洋医学に基づいた合理的なものであると直感できたのだ。


「それに、この筆跡……」

 高杉は書状の末尾に目を留めた。署名はない。だが、その筆致には、書き手の強烈な意志と、ある種の「品格」が漂っている。

「ただの医者じゃない。相当な人物だ」


「しかし、晋作。万が一ということもある」

 木戸が慎重に言うが、高杉はニヤリと笑った。死相の浮かんでいた顔に、かつての不敵な笑みが戻る。


「桂さん。俺はどうせ、このままでは死ぬんだ。座して死を待つより、毒だろうが何だろうが、喰らって死ぬ方がマシだろ?」

「……お前という奴は」

 木戸は呆れたように溜息をついたが、その目には微かな希望が宿っていた。


 その日から、下関の小さな庵で、奇妙な闘病生活が始まった。

 雨戸は開け放たれ、冷たいが新鮮な空気が部屋を満たす。

 布団は毎日天日干しされ、食器は煮沸消毒される。

 そして何より、食事だ。

 近隣の農家から卵や鶏が集められ、高杉の膳に並ぶ。

 最初は喉を通らなかったが、高杉は「これは薬だ」と自分に言い聞かせ、無理やり胃に流し込んだ。


 一日、二日……。

 変化は、一週間ほどで現れた。

 毎晩のように続いていた微熱が下がり始めたのだ。

 激しい咳も、少しずつ間隔が空くようになった。

 血の気のない顔に、薄っすらと赤みが差してくる。


「……おい、嘘だろ」

 見舞いに来た奇兵隊士たちが、目を丸くする。

 死にかけていた主君が、庭先で日向ぼっこをしているのだから。


「気分はどうだ、晋作」

 木戸が恐る恐る尋ねる。

「悪くない。……いや、むしろ良い」

 高杉は深呼吸をし、冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「肺の奥にあった鉛のような重みが、少し軽くなった気がする」


 奇跡だ。

 誰もがそう思った。

 だが、高杉だけは冷静だった。これは奇跡ではない。論理と科学の勝利だ。そして、その論理を提供した「誰か」の勝利だ。


「桂さん。この書状の出所、まだ分からんか」

 高杉は懐から、あの書状を取り出した。もう何度も読み返し、手垢で汚れている。

「ああ。商人を問い詰めたが、『京の知人から頼まれた』としか言わん。その知人とやらも、ただの仲介屋だ」

「京、か……」


 高杉は目を細め、東の空を睨んだ。

 京には、幕府の中枢がある。新選組がいる。

 敵地だ。

 その敵地から、なぜ自分を救うような情報が届く?

 幕府の瓦解を狙う長州の、その頭目を救うことに、何のメリットがある?


 高杉は思考を巡らせた。

 この治療法は、明らかに西洋医学の知識に基づいている。それも、長崎や横浜で聞きかじった程度のものではない。体系化され、洗練されている。

 幕府側で、これほどの知識を持つ医者といえば、奥医師頭取の松本良順くらいだろう。

 だが、松本良順は頑固な佐幕派だ。彼が独断で、敵将である自分に塩を送るとは考えにくい。

 誰かが、彼を動かしたのだ。

 松本良順を説得し、あるいは利用し、この情報を長州へ流せるだけの力と、奇抜な発想を持つ人物。


 さらに、この書状には「武士の情け」のような甘さがない。

 徹底的に合理的で、実利的だ。

 「死なれては困る」という、冷徹な計算すら感じる。

 そんな思考回路を持つ人間が、今の幕府にいるだろうか?

 旧態依然とした幕閣や、面子ばかり気にする会津藩士たちの中に?


 いや、一人だけ、異質な存在がいる。


 高杉の脳裏に、ある噂が蘇った。

 最近、京で囁かれている奇妙な噂だ。

 新選組の中に、「未来が見える」と噂される男がいるという。


「……まさか」

 高杉の口から、乾いた笑いが漏れた。

 松本良順と親交があり、西洋の知識に明るく、常識に囚われない発想を持ち、そして俺を生かそうとする動機を持つ男。


 高杉の中で全てのピースが噛み合った音がした。

 そうだ、奴だ。奴しかいない。

 あの男は、俺を助けることで、何を企んでいる?

 恩を売るためか? いや、そんな安っぽい男ではない。

 もっと大きな、俺たちの想像を超えるような絵を描いているのではないか。

 例えば、俺を生かしておくことで、長州の暴発を抑え、内戦を回避させる……そんな、神のごとき采配を振るおうとしているのか?


「ククッ……ハハハハ!」

 高杉は突然、高笑いを上げた。

「晋作?」

「面白い。面白すぎるぞ、桂さん!」


 高杉は立ち上がり、拳を握りしめた。

 その目には、病魔に打ち勝った者の力強い光と、新たな戦いへの闘志が燃え上がっていた。


「俺を生かしたことを、後悔させてやる。……いや、礼を言うべきか。おかげで、もっと面白い喧嘩ができそうだ」


 高杉晋作は復活した。

 死の淵から蘇った「奇兵隊の創設者」は、自分を救った見えざる敵に対し、最大級の敬意と、そして挑戦状を叩きつける覚悟を決めていた。


 歴史の歯車は、再び大きく動き出そうとしていた。

 だが、その回転は、もはや誰にも予測できない未知の領域へと突入していた。


高杉晋作の回復、まさに奇跡的でした。

しかし、高杉はただ助けられただけでは終わらない男。

京からの「贈り物」の意味に気づいた彼の次なる行動が気になります。

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