第137話:敵に塩を送る
新八は幕府奥医師頭取・松本良順のもとを訪れます。
目的は、敵将・高杉晋作を救うための治療法の作成。
医者としての本分と、新八の「計算」という名の情熱が、松本良順の心を動かします。
底冷えのする夜だった。吐く息は白く、石畳からは冷気が這い上がってくる。
部屋の中央には火鉢が置かれているが、張り詰めた空気のせいか、暖かさは微塵も感じられない。
俺の目の前には、幕府医学所頭取であり、将軍・家茂公の主治医でもある松本良順が座っている。彼は俺が差し出したメモを食い入るように見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……永倉さん。これは、本気ですか」
その声には、驚きと、それ以上の戸惑いが滲んでいた。
無理もない。俺が彼に頼んだのは、長州の軍事指導者・高杉晋作を救うための治療法の作成なのだから。
「本気です、先生。高杉晋作は今、労咳(結核)に侵され、死の淵にあります。彼を救わねばなりません」
「彼は、幕府の敵ですぞ。憎むべき敵将だ。それを救えと?」
松本先生の鋭い視線が俺を射抜く。
だが、俺は視線を逸らさずに答えた。
「ええ。敵だからこそ、救うのです」
俺は居住まいを正し、言葉を継いだ。
「先生もご存知の通り、高杉は過激な攘夷論者ですが、同時に極めて合理的な考えを持つ男です。彼は無益な内戦で日本が疲弊し、異国の植民地となることを誰よりも恐れています。もし彼が死ねば、長州の主導権は、後先を考えない狂信的な攘夷派や、薩摩の言いなりになる者たちに移るでしょう」
俺は一息つき、さらに畳み掛ける。
「そうなれば、待っているのは泥沼の内戦です。何万という日本人が死に、その隙を突いてイギリスやフランスが介入してくる。それを防ぐための『重石』として、高杉には生きていてもらわねばならないのです」
松本先生は腕を組み、目を閉じた。
部屋に沈黙が落ちる。炭がパチリと爆ぜる音だけが響く。
長い沈黙の後、先生は深く嘆息し、目を開いた。そこにあったのは、迷いではなく、医師としての澄んだ光だった。
「……上杉謙信は、敵である武田信玄に塩を送ったといいますな」
「はい。ですがこれは、武士の情けではありません。日本の未来を守るための、冷徹な計算です」
「フフッ、計算、ですか。あなたはそう言いますがね、永倉さん」
松本先生は口元に微かな笑みを浮かべた。
「あなたの目は、計算高い策士のそれではない。純粋に、人が死ぬのを止めたいと願う者の目だ。……沖田君の時と同じですよ」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。
先生は机に向き直り、矢立を引き寄せた。
「よろしい。協力しましょう。もっとも、私は政治のことは分からん。ただ、目の前に救える命があるなら、敵味方を問わず手を尽くす。それが医者の本分というものです」
そう言うと、先生は筆を走らせ始めた。
「労咳に対する特効薬は、残念ながら今の医学にはありません。しかし、延命し、あわよくば寛解に持ち込む手立てはあります。沖田君の治療で得た知見と、あなたの持っていた知識……これを組み合わせれば」
俺が現代知識として提供したのは、二十世紀の結核治療の基本となる「安静・栄養・大気」の三原則だ。
抗生物質がないこの時代、結核菌を直接叩くことはできない。だが、免疫力を極限まで高めることで、菌を封じ込めることは可能だ。
「まずは栄養ですな。卵、鶏肉、牛乳。とにかく精のつくものを摂らせる。それから、新鮮な空気。部屋を閉め切るのではなく、換気を良くして日光を入れること。そして何より、絶対安静」
先生の筆が滑らかに動く。
西洋医学の知識に裏打ちされたその指示書は、当時の常識――「風邪を引かぬよう部屋を閉め切り、精進料理で身を清める」といった迷信――を真っ向から否定するものだった。
「喀血した際の処置、熱発時の対応……それから、周囲への感染を防ぐための手洗いと、食器の煮沸消毒についても書き加えておきましょう」
書き上げられた数枚の和紙。
そこには、現代医学の萌芽とも言える最新の治療法が、松本良順という当代きっての名医の手によって体系化されていた。
「これを、どうやって長州へ?」
「私の知己を通じて、長州に出入りする商人に託します。差出人の名は伏せ、『一介の医師』として」
「なるほど。幕府の奥医師からの手紙となれば、彼らも警戒して読まないでしょうからな」
松本先生は苦笑しながら、その書状を俺に手渡した。
受け取った紙の重み。それは、一人の男の命の重みであり、日本の未来の重みでもあった。
「感謝します、先生」
「礼には及びません。……高杉晋作という男、私も一度会ってみたくなりましたよ。これほどの治療をしてまで生かしたいと思う男が、どんな人物なのか」
「きっと、先生とは話が合うと思いますよ。彼もまた、新しいもの好きですから」
俺たちは顔を見合わせ、短く笑い合った。
◇
松本先生の宿所を辞した後、俺はすぐにその足で飛脚問屋へと向かった。
宛先は、江戸の千葉道場にいる佐那さんだ。彼女の情報網を使えば、この書状は確実に高杉の元へ届く。
だが、俺の仕事はまだ半分しか終わっていない。
屯所へ戻る道すがら、俺は夜空を見上げた。
冬の星座が瞬いている。その星々の彼方、東の空に思いを馳せる。
江戸城。
そこには、もう一人の重要人物がいる。
将軍・徳川家茂公の正室、和宮親子内親王だ。
俺は屯所の自室に戻ると、再び筆を執った。
今度の相手は、高杉よりもさらに繊細な配慮が必要だ。
家茂公の健康問題。
史実における彼の死因は「脚気衝心」。ビタミンB1不足による心不全だ。
原因は明白で、白米中心の食生活と、激務によるストレス、そして甘いものの摂りすぎにある。
俺は家茂公に食事改善を提案し、麦飯や豚肉などを勧めているが、彼は根っからの江戸っ子気質で、白米と甘味が大好きだ。
「上様、お体に障ります」と俺や松本先生が言ったところで、隠れて饅頭を食べてしまうかもしれない。
彼を真に制御できるのは、この世でただ一人。愛妻である和宮様だけだ。
『啓啓。京の寒さも厳しくなってまいりましたが、宮様におかれましては……』
時候の挨拶もそこそこに、俺は本題に入った。
家茂公が公務に忙殺され、食事が疎かになりがちであること。
脚気の兆候が見られるため、食事療法が不可欠であること。
特に、麦飯や小豆、豚肉などが薬となるが、上様はこれらを好まれないこと。
『つきましては、宮様より上様へ、お体をお大事になさるよう、また、医師の勧める食事を摂るよう、強くお勧めいただけないでしょうか。上様にとって、宮様のお言葉は何よりの良薬にございます』
無礼を承知で、かなり踏み込んだ内容を書いた。
だが、夫婦仲の睦まじい二人なら、この意図を汲んでくれるはずだ。
俺は祈るような気持ちで筆を置いた。
◇
それから半月ほどが過ぎた頃。
京の屯所に、江戸からの荷物が届いた。
差出人は記されていないが、桐の箱に納められたその品々は、明らかに高貴な方からのものだった。
中には、乾燥させた小豆がぎっしりと詰まった袋と、一通の手紙。
宛名は「永倉新八殿」。
震える手で封を切る。そこには、流麗な文字でこう記されていた。
『永倉殿の忠義、嬉しく思います。
上様は、昔から甘いお菓子がお好きで、虫歯に悩まされながらも羊羹を召し上がるような、子供のようなところがあります。
また、白いご飯こそが将軍の証であると信じておられ、麦を混ぜることを嫌がることでしょう。
ですが、私の言葉であれば、きっと聞いてくださいます。
上様には、私から別に文を送りました。「麦飯を召し上がらねば、私が江戸で断食をします」と書き添えて。
この小豆は、上様の好物である汁粉にするためのものですが、砂糖は控えめに、薬として召し上がるよう、料理人に伝えてください。
どうか、上様をお守りください。京の空の下、あの方の無事を、一日千秋の思いで待っております』
読み終えた俺の目頭が、熱くなった。
「断食をする」という脅し文句。それほどまでに、彼女は家茂公の身を案じているのだ。
そして、ただ禁止するのではなく、好物の小豆を送るという心遣い。
これが、夫婦の絆というものか。
「……永倉君、どうした? 泣いてるのか?」
通りかかった原田左之助が、怪訝な顔で覗き込んでくる。
俺は慌てて袖で顔を拭った。
「馬鹿言え。目にゴミが入っただけだ」
「へえ。で、その豆はどうすんだ?」
「これはな、上様の特効薬だ。日本で一番、効き目のある薬だよ」
俺は小豆の袋を大切に抱え上げた。
高杉への「塩」と、家茂公への「薬」。
二つの処方箋は、確実に届いた。
高杉が生き延びれば、長州の暴走は止まるかもしれない。
家茂公が健康であれば、幕府の改革は揺るがない。
歴史の修正力という巨大な壁に対し、俺は「医療」と「愛」という、意外な武器で楔を打ち込んだのだ。
翌日。
二条城の食卓には、少し不満そうな顔をしつつも、赤い小豆の入った麦飯を、一粒残さず平らげる家茂公の姿があったという。
その横顔は、以前よりも少しだけ血色が良く、そして何より、遠く江戸を想う優しい目に満ちていたと、近習から聞いた。
一方、長州。
下関の療養所にて、死の床にあった高杉晋作の元にも、一通の書状が届こうとしていた。
運命の分岐点は、もうすぐそこまで来ている。
松本良順先生、さすが名医の矜持です。
敵味方関係なく命を救う姿勢に痺れます。
そして新八は次なる一手、家茂公の健康問題へと動き出します。




