第136話:見えざる時限爆弾
江戸の佐那から届いた密書。
そこには、長州の英雄・高杉晋作が病に倒れたという衝撃の事実が記されていました。
京の冬は、骨身に沁みる。
だが、俺の心を冷やしていたのは、鴨川から吹き付ける風ではなかった。
手元にあるのは、中沢琴からの密書に続き、江戸から届いた一通の密書。そこに記された内容が、俺の思考を凍り付かせていた。
「……高杉晋作が、労咳だと」
屯所の一室。火鉢を囲む俺、土方歳三、近藤勇の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
密書は、江戸にいる千葉佐那からのものだ。彼女が築き上げた情報網は、今や幕府の隠密組織をも凌ぐ精度を誇っている。その彼女が「確度高し」と添えている以上、間違いはないだろう。
「あの奇兵隊を率いた男が、病か」
近藤が、信じられないといった面持ちで呟く。
「皮肉なもんだな。戦場では死なず、病に倒れるとは」
土方が吐き捨てるように言ったが、その目には複雑な色が浮かんでいた。
史実を知る俺にとって、高杉の死は「確定事項」だ。
本来の歴史では、彼は来年、慶応三年の四月に亡くなる。享年二十七。あまりにも早すぎる死だ。
だが、問題はそこではない。
今のこの状況下で、高杉が死ぬことの意味だ。
「もし高杉が死ねば、長州はどうなる?」
土方の問いに、俺は即答した。
「暴走します。間違いなく」
高杉は、過激な言動とは裏腹に、極めて冷徹なリアリストだ。
彼は薩長同盟を結びつつも、薩摩の思惑を完全には信用していない。そして何より、無益な内戦で日本が疲弊し、列強の餌食になることを誰よりも恐れている。
だからこそ、俺たちが提示した「公議政体」という選択肢に、彼ならば理を見出す可能性がある。
だが、彼がいなくなれば?
長州の主導権を握るのは、大村益次郎や、さらに過激な攘夷派たちだ。彼らは薩摩の大久保や岩倉具視と結託し、「武力倒幕」へと一直線に突き進むだろう。
そうなれば、俺たちが積み上げてきた平和的な政権移譲のシナリオは崩壊する。
日本は、血で血を洗う内戦の泥沼に沈むことになるのだ。
「つまり、高杉晋作という男は、今の日本にとって『安全弁』のような存在だということか」
近藤が腕を組み、唸るように言った。
「はい。敵ではありますが、話が通じる相手です。彼を失うことは、我々にとっても致命的な損失になりかねません」
俺は拳を握りしめた。
葛藤が、胸の中で渦巻く。
高杉は敵だ。長州征伐で幕府軍を散々に打ち破り、徳川の権威を地に落とした張本人だ。
その男を救う?
普通に考えれば、狂気の沙汰だ。敵の将が病に倒れるなど、願ってもない好機ではないか。
だが、俺の中の「現代人」としての理性が叫ぶ。
ここで高杉を見殺しにすれば、その先に待っているのは数万、数十万の命が失われる戊辰戦争だ。
俺は、その未来を変えるためにここに来たのではないのか。
「……助けましょう」
俺の言葉に、二人が息を呑んだ。
「新八、正気か?」
土方の目が鋭く光る。
「敵に塩を送るどころの話じゃねえぞ。虎に餌をやって、噛み殺されるかもしれんのだぞ」
「分かっています。ですが、飢えた虎より、手負いの虎の方が危険です。高杉がいなくなれば、長州という虎は制御を失い、見境なく暴れ回るでしょう。それを止める手綱を握れるのは、高杉だけなんです」
俺は土方を真っ直ぐに見据えた。
土方はしばらく俺を睨みつけていたが、やがてふっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「……お前の『未来予知』じみた勘には、今まで何度も助けられてきたからな。今回も、それに賭けるか」
「トシ!」
近藤が驚きの声を上げるが、土方は片手を挙げて制した。
「ただし、条件がある。我々が直接動くわけにはいかん。幕府が長州の敵将を治療したなどと知れれば、それこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになる」
「もちろんです。……心当たりがあります」
俺の脳裏に、ある人物の顔が浮かんでいた。
幕府奥医師頭取、松本良順。
西洋医学の権威であり、かつて沖田総司の結核治療に協力してくれた人物だ。
彼ならば、この無茶な相談に乗ってくれるかもしれない。
本来、彼の拠点は江戸の医学所だが、幸いなことに今は上様に同行して京に滞在中だ。
「松本先生か。……そういえば、今回の上様のご上洛に合わせて、先生も京に入っておられたな」
近藤が納得したように頷く。
「はい。上様の健康管理のため、二条城近くの宿所に詰めておられるはずです。彼ならば、この無茶な相談に乗ってくれるかもしれません」
「あの方なら、あるいは……。だが、どうやって長州に治療法を伝える? 直接乗り込むわけにもいくまい」
「そこは、千葉の情報網を使います。佐那さんの配下には、長州に出入りできる商人もいるはずです。彼らを通じて、あくまで『匿名の医師からの助言』として届けるのです」
俺は懐から手帳を取り出した。
そこには、現代知識に基づく結核の治療法――栄養療法、安静療法、そして衛生管理の要点が記されている。
ストレプトマイシンなどの抗生物質がないこの時代、結核は死の病だ。だが、適切な対処を行えば、延命、あるいは寛解に持ち込むことは不可能ではない。
実際、沖田総司も俺の指導と松本先生の治療により、小康状態を保っている。
「高杉晋作という時限爆弾。爆発させるか、解体するか。……俺たちがそのスイッチを握っている」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
これは賭けだ。
高杉が回復した後、再び牙を剥く可能性は十分にある。
だが、彼という「理性」を失った長州と戦うよりは、まだ勝機があるはずだ。
「よし、決まりだ。新八、すぐに松本先生の元へ走れ。俺たちは、その間の京の守りを固める」
土方の号令に、俺は力強く頷いた。
「行ってきます!」
◇
松本良順の滞在先は、二条城からほど近い静かな寺院の一角にあった。
夜道を急ぐ俺の足取りは、不思議と軽かった。
迷いが消えたからだろうか。
「誰を救い、誰を見捨てるか」。その神のような選択に押し潰されそうになることもある。だが、今は目の前の命を救うことが、結果として多くの命を救うことに繋がると信じられる。
門を叩くと、警護の者が顔を出したが、俺が新選組の永倉だと名乗ると、すぐに奥へ通してくれた。
将軍の主治医として随行しているため、警備は厳重だが、新選組の顔パスは効く。
「こんな夜更けに、どうされましたか? まさか、沖田君の容態が……」
奥から現れた松本良順は、白衣姿のまま緊張した面持ちで尋ねてきた。
「いえ、総司は元気です。今日は、先生に折り入ってお願いがありまして」
俺は単刀直入に切り出した。
高杉晋作が結核であること。
彼を救うことが、日本の内戦を防ぐために必要であること。
そして、そのために先生の力を借りたいこと。
全てを聞き終えた松本良順は、しばらくの間、腕を組んで天井を仰いでいた。
部屋には、古時計の秒針の音だけが響く。
「……永倉さん。あなたは、とんでもないことを仰る」
ようやく口を開いた松本先生の声は、低く、重かった。
「私は幕府の奥医師ですぞ。敵将を救え、と。それが幕府のため、ひいては日本のためになると」
「はい。詭弁に聞こえるかもしれませんが、本気です」
松本先生は、じっと俺の目を見つめた。
その瞳は、医師としての冷徹な観察眼と、人間としての温かみを同時に宿していた。
敵将の死は幕府にとって好機のはず。しかし、新八は意外な行動に出ます。
暴走する長州を抑えるためには、高杉という「理性」が必要不可欠。
松本良順先生の協力が得られるかどうかが鍵となりそうです。




