第135話:勅許と新たなる敵
孝明天皇より「公議政体」への勅許が下り、新八たちの計画は最大の山場を越えたかに見えました。
しかし、歴史の修正力は容赦なく彼らに襲いかかります。
京都御所、小御所。
張り詰めた静寂の中、孝明天皇の声が朗々と響き渡った。
「公議政体への移行、これを是とする」
その一言は、二百六十年に及ぶ徳川幕府の歴史に終止符を打ち、同時に新たな日本の幕開けを告げる号砲だった。
家茂公と俺は、深く、深く頭を下げた。
畳に押し付けた額に、冷ややかな感触と、それとは対照的な熱い血潮の脈動を感じる。
「帝、かたじけなき幸せに存じます」
家茂公の声が、微かに震えていた。
無理もない。彼は今、自らの手で徳川の権力を手放し、全く新しい国家の形を作り上げようとしているのだ。その重圧と、それを乗り越えた安堵感は、計り知れないものがあるだろう。
「慶福よ。そちの覚悟、見事であった。これより先は、朝廷と幕府が一体となり、この神州を守り抜くのじゃ」
「はっ! 我が命ある限り、帝と日本のために尽くす所存です」
帝は満足げに頷くと、傍らに控えていた関白・二条斉敬に目配せをした。
二条関白が恭しく差し出したのは、金糸で刺繍が施された錦の袋に入った書状――勅許状だ。
「これを持て。これこそが、そちたちが進むべき道の証である」
家茂公が震える手でそれを受け取る。
この瞬間、薩長が掲げる「倒幕」という大義名分は、完全に消滅した。
幕府自らが政権を返上し、帝を中心とした新政府を作ることを、帝自身が認めたのだ。これに逆らう者は、それこそが「朝敵」となる。
俺たちが描いたシナリオは、完璧な形で結実した……はずだった。
◇
御所を退出した後、俺たちは二条城へと向かった。
家茂公の表情は晴れやかだったが、俺の胸中には、言いようのない不安が渦巻いていた。
あまりにも、順調すぎる。
歴史の修正力とでも言うべきか、大きな流れを変えようとする時、必ず反作用が働くものだ。
そして、その予感は最悪の形で的中することになる。
二条城の大広間。
そこには、老中や幕閣たちが集められていた。
家茂公が勅許状を掲げ、公議政体への移行を宣言すると、広間はどよめきに包まれた。
「馬鹿な! 徳川が政権を手放すなど!」
「上様、ご乱心か!」
「薩長に屈するなど、武門の恥!」
予想通りの反発だ。
特に、譜代大名や旗本たちの動揺は激しい。彼らにとって、徳川の権威こそが全ての拠り所なのだ。
だが、家茂公は一歩も引かなかった。
「静まれ!」
若き将軍の一喝が、広間の空気を切り裂いた。
「これは、帝のご意思である! 異国の脅威が迫る今、我々が内輪揉めをしている暇はない。徳川は、将軍職という殻を破り、日本最強の諸侯として、新しき世をリードするのだ! それが、真の徳川の誇りであると心得よ!」
その凛とした姿に、反対派も口をつぐまざるを得なかった。
家茂公の成長ぶりは、俺の想像を遥かに超えていた。
会議が終わり、俺が控えの間で一息ついていると、ふいに背後から声をかけられた。
「見事な手際だ、永倉君」
振り返ると、そこには勝海舟が立っていた。
いつもの飄々とした態度は影を潜め、その目は鋭く光っている。
「勝先生。……お褒めにあずかり光栄です」
「だがな、これで終わりじゃねえぞ。むしろ、ここからが正念場だ」
「分かっています。岩倉具視……そして薩長の動きですね」
勝はニヤリと笑った。
「話が早くて助かるよ。実はな、俺の耳に妙な噂が入ってきた。岩倉の野郎が、京の町で不穏な動きをしているらしい」
「不穏な動き?」
「ああ。『天誅組』の残党や、食い詰め浪人をかき集めて、何かデカいことを企んでるようだ。それに、薩摩の大久保と密会していたという情報もある」
俺の背筋に冷たいものが走った。
岩倉具視。
かつて帝の暗殺を企て、俺に阻止された男。
蟄居を命じられ、政治の表舞台から消えたはずの彼が、まだ諦めていないというのか。
「奴らは、この公議政体を『徳川の延命策』としか見ていない。自分たちが権力を握るためには、徳川を完全に潰す必要があると考えているんだ」
「武力による反乱……」
「その通りだ。奴らは、手段を選ばねえぞ」
勝の警告は、俺の懸念を裏付けるものだった。
平和的な政権移譲など、彼らにとっては都合の悪い話でしかないのだ。
◇
その夜。
俺は、新選組の屯所に戻り、土方歳三と近藤勇に事の次第を報告した。
「……なるほど。帝の勅許を得たか。これで大義名分は我らにある」
土方は腕を組み、満足げに頷いた。
だが、その表情はすぐに険しいものへと変わる。
「だが、岩倉が動いているとなると、話は別だ。奴は毒蛇のような男だ。一度噛みついたら、死ぬまで離さんぞ」
「ああ。それに、薩長も黙ってはいないだろう。特に長州は、高杉晋作を中心に軍備を増強していると聞く」
近藤が不安げに口を挟む。
「新八。我々はどう動けばいい?」
「まずは、京の警備を強化します。特に、御所と二条城周辺は厳重に。岩倉の手勢がいつ襲ってくるか分かりません」
「分かった。総司と斎藤に指示を出そう」
土方が即座に動き出す。
その時、ふいに障子の外から声がした。
「失礼します。山崎です」
監察方の山崎烝だ。
その声には、珍しく焦りの色が混じっていた。
「入れ」
山崎が入室し、平伏する。
「報告します。岩倉具視の潜伏先を突き止めました。洛北の岩倉村にある、古びた寺です」
「でかした!」
土方が膝を叩く。
だが、山崎の報告はそれで終わりではなかった。
「しかし……そこには、薩摩藩士の姿もありました。それも、ただの藩士ではありません。大久保利通の側近、中村半次郎です」
中村半次郎。後の桐野利秋。
「人斬り半次郎」の異名を持つ、薩摩示現流の使い手だ。
岩倉と薩摩が、直接手を結んでいる。
それは、最悪のシナリオが現実になりつつあることを意味していた。
「……奴ら、本気でやる気か」
俺は拳を握りしめた。
勅許という最強の盾を得た我々に対し、彼らはなりふり構わぬ暴力という矛で挑んでくるつもりだ。
「新八。どうする?」
土方の問いに、俺は迷わず答えた。
「先手を打ちます。岩倉と薩摩の連携を断ち切る。そのためには……」
俺の脳裏にある男の顔が浮かんだ。
長州の奇才、高杉晋作。
直接相まみえたことはないが、その名は轟いている。
功山寺挙兵で藩論をひっくり返し、幕府軍を散々に打ち破った軍略の天才。
狂気と理性が同居し、三味線を弾きながら戦場を駆けるという破天荒な男。
だが、俺が知る史実の彼は、単なる狂人ではない。
誰よりも早く「上海」を見て、欧米列強の脅威を肌で感じ、日本が植民地化されることを何よりも恐れていたリアリストだ。
彼ならば、薩摩の暴走を止められるかもしれない。
「……いや、まずは情報を集めます。岩倉たちが具体的に何を企んでいるのか。それを知らなければ、動きようがありません」
俺は慎重策を選んだ。
焦って動けば、相手の思う壺だ。
今は、家茂公と帝を守ることが最優先。
「山崎。引き続き、岩倉と薩摩の動向を監視せよ。ただし、深入りはするな。奴らは手練れだ」
「はっ!」
山崎が姿を消した後、俺は土方と近藤に向き直った。
「トシさん、近藤さん。これからが本当の戦いです。歴史を変えるための、最後の試練かもしれません」
「望むところだ。新選組の誠の旗、泥にまみれさせるわけにはいかんからな」
「ああ。俺たちの夢、ここで終わらせてたまるか」
三人の拳が、固く合わされた。
◇
数日後。
京の町に、不気味な噂が流れ始めた。
「徳川が帝を騙し、政権を独占しようとしている」「公議政体は偽りだ」という、根も葉もないデマだ。
明らかに、岩倉たちの情報操作だ。
民衆の不安を煽り、幕府への不信感を植え付ける。古典的だが、効果的な手口だ。
そんな中、俺の元に一通の密書が届いた。
差出人は不明。だが、その筆跡には見覚えがあった。
かつて江戸で剣を交えた、あの男装の麗人・中沢琴のものだ。
『長州にて、奇妙な動きあり。高杉晋作、床に臥すも、その命を狙う者あり』
短い文面だが、俺の心臓を鷲掴みにするには十分だった。
高杉が病気? しかも狙われている?
誰に? 幕府か? それとも……。
俺の中で、パズルのピースが組み合わさっていく。
岩倉と薩摩は、長州をも巻き込んで、巨大な反幕府連合を作ろうとしている。だが、現実主義者の高杉は、無謀な内戦には反対する可能性がある。
だから、邪魔な高杉を消そうとしているのか?
もし高杉が死ねば、長州は過激派が主導権を握り、暴走するだろう。そうなれば、薩摩と手を組み、武力倒幕へと突き進む。
それを阻止するためには、高杉を生かさなければならない。
敵であるはずの男を、救わなければならないのだ。
俺は天を仰いだ。
神様とやらは、どこまで俺に難題を突き付ければ気が済むんだ。
「……やるしかないか」
俺は決断した。
家茂公と帝を守るため、そして日本の未来を守るため。
俺は、宿敵・岩倉具視の陰謀を打ち砕くべく、次なる一手を打つ。
たとえそれが、火中の栗を拾うような危険な賭けだとしても。
京の冬空に、不吉な赤黒い雲が広がり始めていた。
本当の嵐は、すぐそこまで迫っている。
勝海舟がもたらした不穏な情報、そして動き出す「毒蛇」の影とは。
ついに岩倉具視が動き出しました。
平和的な解決を望まない勢力の存在が、物語を一気にきな臭くさせます。




