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第134話:帝への上奏

いに新八と家茂公が動きます。目的は京、帝への「公議政体」の上奏。

それは徳川幕府を自ら解体するに等しい、命がけの大博打です。

 江戸城西の丸、大奥。

 張り詰めた冷気が、広大な廊下を支配していた。だが、その冷たさは季節のせいだけではない。これから始まろうとしている事の重大さが、空気そのものを凍てつかせているようだった。


 俺は、将軍・徳川家茂公の居室の前で平伏していた。

 今日、我々は京へ向けて出立する。

 目的はただ一つ。帝への「公議政体」の上奏である。


 これは、二百六十年続いた徳川幕府という巨大なシステムを、自らの手で解体し、再構築するという、正気の沙汰とは思えない大博打だ。

 失敗すれば、俺たちは逆賊として歴史から抹殺されるだろう。薩長に倒幕の口実を与えるどころか、幕臣たちからも裏切り者として糾弾される可能性すらある。


 だが、やるしかない。

 薩長同盟が成立してしまった今、悠長に構えている時間はないのだ。彼らが「武力倒幕」というカードを切る前に、幕府側から「平和的な政権移譲と新体制の構築」という最強のカードを切る。

 それこそが、日本を内戦の泥沼から救う唯一の道だと、俺は確信していた。


「新八、待たせたな」


 襖が開き、家茂公が姿を現した。

 旅装束に身を包んでいるが、その佇まいには隠しきれない気品がある。そして何より、その瞳には以前のような迷いはなく、澄み切った覚悟の光が宿っていた。


「上様、ご準備は」

「ああ、万端だ。……と言いたいところだが、やはり心残りは尽きぬな」


 家茂公が視線を向けた先には、御簾の向こうに佇む人影があった。

 御台所、和宮様だ。


 今回の京行きは、表向きは「長州征伐に関する軍議」とされているが、実際には国家の形を変えるための極秘行だ。危険は極めて高い。

 家茂公は、和宮様に近づき、何か言葉を交わされている。俺は非礼にならぬよう、深く頭を下げて気配を消した。


 数分の後、衣擦れの音が近づいてきた。

 顔を上げると、そこには和宮様が立っていた。

 かつて俺を「得体の知れない浪人」と警戒していたその瞳は今、涙を堪えつつも、強い意志を湛えて俺を見据えていた。


「永倉」

「はっ」

「そなたに、これを託します」


 和宮様が差し出したのは、白木の鞘に収められた一振りの短刀だった。

 装飾は質素だが、ただならぬ品格を感じさせる。


「これは……」

「私の守り刀です。降嫁の折、母君より賜った大切な品……」


 和宮様の声が、わずかに震えた。

 彼女にとって、この江戸城は敵地のようなものだったはずだ。公武合体という政治の道具として嫁ぎ、慣れない武家の風習に苦しんだ日々。そんな彼女の心を溶かし、支え続けてきたのが、他ならぬ夫・家茂公の誠実な愛だった。

 そして彼女は、兄である孝明天皇からの手紙を通じて、俺が帝の「家庭教師」を務めていることを知っている。兄を変え、そして夫を変えた男として、俺に希望を託そうとしているのだ。


「兄上からのふみにありました。『永倉は、面白き男だ』と。……上様だけでなく、兄上の心まで動かしたそなたを、私は信じます」


「勿体なきお言葉」


「上様をお守りして。あの方は、私の全てなのです」


 その言葉は、単なる主君への忠義を求める命令ではなかった。一人の妻としての、悲痛なまでの願いだった。

 史実を知る俺の胸に、その言葉は鋭い痛みとなって突き刺さる。

 本来の歴史であれば、家茂公はこの第二次長州征伐の最中に、大阪城で脚気衝心により二十一歳の若さで崩御する。そして和宮様は、悲しみのあまり落飾し、静寛院宮として余生を送ることになるのだ。


 そんな悲劇は、絶対に繰り返させない。

 俺はそのために、この時代に来たのだから。


 俺は両手で短刀を押し頂き、額につけた。


「我が命に代えても。……必ずや、上様をご無事で江戸へお連れいたします。そして、お二人が笑って暮らせる新しい日本を、必ず作り上げます」


 俺の言葉に、和宮様は一瞬驚いたように目を見開き、やがてふわりと、花が咲くように微笑んだ。


「頼みましたよ、永倉」


 その笑顔は、俺の背中を強く押した。

 もう、迷いはない。

 俺は短刀を懐に深くしまい込み、家茂公と共に立ち上がった。


「参りましょう、上様。歴史を変えに」


 今回の上洛には、幕府海軍の最新鋭蒸気船「翔鶴丸」が使われた。

 陸路での東海道下りは日数がかかりすぎる上に、警備上のリスクも高い。何より、家茂公の体力を温存する必要があった。

 俺は現代知識を総動員して、家茂公の食事療法を徹底していた。ビタミンB1を含む豚肉や玄米、豆類を中心としたメニューを専属の料理人に作らせ、甘味の過剰摂取を厳しく制限している。

 その甲斐あってか、家茂公の顔色は良く、脚気の兆候も見られない。


 船上、甲板にて。

 海風を受けながら、家茂公は水平線の彼方を見つめていた。


「広いな、海は」

「はい。この海の向こうには、我々の想像を絶する列強諸国がひしめいています」

「かつては、この海が日本を守る壁だと思っていた。だが今は、世界へと続く扉に見えるよ」


 家茂公は手すりを握りしめた。


「新八。……私は、怖いのだ」


 不意に漏らされた弱音。だが、それは将軍としての弱さではなく、一人の人間としての正直な吐露だった。


「徳川の世を終わらせる。その決断が、本当に正しいのか。ご先祖様に対して、申し開きができるのか。夜も眠れぬことがある」

「上様」

「だがな、和宮の顔を見ると、思うのだ。彼女が、そして民が、戦火に怯えることなく暮らせるなら、徳川の名などどうでもよいと」


 家茂公は俺の方を向き、力強く頷いた。


「私は、将軍である前に、日本国の主でありたい。そちが教えてくれた『立憲君主』とは、そういうことだろう?」


 俺は胸が熱くなるのを感じた。

 この若き将軍は、俺が教えた知識を、単なる知識としてではなく、自らの血肉として咀嚼し、昇華させている。

 彼こそが、新しい日本のリーダーにふさわしい。


「その通りです。徳川家は『統治権』を朝廷にお返ししますが、それは権力を手放すことではありません。新たな議会政治の中で、最大最強の『諸侯』として、実質的に日本をリードしていくのです。形は変われど、徳川の精神は生き続けます」


「うむ。……頼りにしているぞ、我が師よ」


 蒸気船は黒煙を上げ、波を蹴立てて西へと進む。

 その先には、千年の都が待っている。


 京に入った我々は、二条城には入らず、極秘裏に京都御所へと向かった。

 通常であれば、将軍の上洛は大行列を伴う一大イベントだが、今回は少数の側近と、俺たち護衛のみの隠密行動に近い。

 京の街は、表面上は静かだったが、どこかピリピリとした緊張感が漂っていた。新選組や見廻組が目を光らせているとはいえ、不穏な分子が潜伏している気配は消えていない。


 御所、小御所。

 厳重な警備の中、俺と家茂公は、帝との謁見の間に通された。

 御簾の向こうに、その方はおわした。

 第百二十一代、孝明天皇。

 かつて俺が暗殺の危機から救い出し、その後、世界のことわりを説き続けてきた、この国の頂点。


慶福よしとみ。よくぞ参った」


 御簾が上げられ、孝明天皇が姿を現す。

 鋭い眼光。だが、その奥には義弟である家茂公への深い慈愛が見て取れた。そして、その視線が俺に向けられると、わずかに口元が緩んだように見えた。


「帝におかせられましても、ご機嫌麗しく」

「堅苦しい挨拶はよい。……永倉、久しいな。息災であったか」


 帝の言葉に、俺は深く頭を下げたまま答える。


「はっ。帝より賜りました密命、片時も忘れたことはございません。本日は、その答えをお持ちいたしました」


「うむ。待っておったぞ」


 帝は満足げに頷くと、再び家茂公に向き直った。

 俺が帝に吹き込んだ「近代国家」の概念。それを実現するための具体的な手段を、今まさに将軍自身が提示しようとしているのだ。


「義兄上。私は決断いたしました」


 家茂公は居住まいを正し、帝を真っ直ぐに見つめた。


「徳川は、政権をお返しいたします」


 その場の空気が、完全に止まった。

 側近の公家たちが息を呑む音が聞こえる。だが、帝だけは動じなかった。まるで、そう来ることを予期していたかのように。


「……大政奉還、か。慶福、そちは徳川を潰すのか」

「いいえ。徳川を、そして日本を守るためです」


 家茂公は、俺と練り上げた「公議政体構想」の書状を差し出した。


「政権を朝廷にお返しし、帝を頂点とした新たな政府を樹立します。しかし、まつりごとは一部の公家や武家だけで行うものではありません。諸藩の代表、そして広く民意を反映した『議会』によって決定するのです」


「議会……。永倉が説いておった、あの仕組みか」


 帝が俺に視線を流す。俺は無言で頷いた。

 かつて俺が進講した際、帝は「民の声を聞くなど、混乱を招くだけではないか」と懸念を示されていた。しかし、俺は粘り強く説いたのだ。民意を汲み上げぬ政治はいずれ瓦解する、と。


「はい。徳川は将軍職を辞しますが、日本最大の諸侯として議会に参加し、その筆頭として新政府を支えます。これならば、薩長も文句は言えません。彼らが望む『帝を中心とした国づくり』が実現するのですから。戦う大義名分を失うのです」


 帝は書状を手に取り、食い入るように見つめた。

 そこには、立法・行政・司法の三権分立、二院制議会、そして天皇を国家元首と規定する憲法の草案までもが記されていた。

 それは、明治維新後に数十年かけて作られたシステムを、先取りしたものだ。


「帝。私は、征夷大将軍という古き衣を脱ぎ捨て、一人の日の本の民として、この国の未来に尽くしたいのです。どうか、この策をご裁可ください」


 家茂公が深く頭を下げる。

 俺もそれに倣い、額を畳に擦り付けた。


「恐れながら、申し上げます。この策は、徳川のためだけではありません。万世一系の皇統を、未来永劫守り抜くための盾ともなります。異国の脅威に対抗できるのは、一つにまとまった強固な国民国家のみ。帝がその象徴として君臨されることで、日本は初めて『近代国家』として世界に認められるのです」


 長い、長い沈黙が流れた。

 聞こえるのは、庭の鹿威しの音だけ。

 だが、俺の心には不思議な落ち着きがあった。帝は、分かってくれているはずだ。これまで積み重ねてきた講義の日々は、無駄ではなかったと。


「……慶福よ」


 やがて、帝が静かに口を開いた。


「そちは、変わったな。以前は、ただ誠実で、少し頼りなげな義弟おとうとであったが……今は、頼もしい男の顔をしておる」


「義兄上……」


「永倉よ。そちの教え、確かに慶福に根付いておるようだな」


 帝は書状を畳に置くと、力強く言い放った。


「よかろう。この『公議政体』、朕が認めよう。徳川が先頭に立ち、諸藩と手を取り合って国を治める。それこそが、真の『公武合体』であるとな」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の目から熱いものがこみ上げてきた。

 やった。

 歴史が、変わった。

 鳥羽・伏見の戦いも、戊辰戦争も、回避できる道が開かれたのだ。


「ありがたき幸せ……!」


 家茂公の声も震えている。

 帝はふっと表情を緩め、穏やかに微笑まれた。


「だが、油断はするなよ。この決定を面白く思わぬ者たちも、必ずやおるはずだ。特に、岩倉の動きが不穏だと聞く」


 帝の指摘に、俺はハッとして顔を上げた。

 かつて帝の命を狙った岩倉具視。俺がその計画を阻止し、帝に報告したあの時から、奴との因縁は続いている。


「心得ております。そのために、私のような番犬がいるのですから」


 俺の言葉に、帝は声を上げて笑った。


「番犬か。……いや、そちはもはや、朕にとっても慶福にとっても、かけがえのない『師』であろう」


 その過分な言葉に、俺はただ平伏するしかなかった。


「慶福を、頼んだぞ」

「はっ!」


 こうして、歴史的な密談は終わった。

 家茂公と俺が退出した後、京の空を見上げると、厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。

 だが、その光が照らし出すのは、希望だけではない。

 岩倉具視、そして薩摩の大久保、長州の木戸。

 彼らがこの情報を知った時、どのような牙を剥くか。


 俺は懐の守り刀の感触を確かめた。

 和宮様の願い、家茂公の夢、そして帝の信頼。

 全てを守り抜くために、俺は鬼にでもなる覚悟を決めた。


 次なる戦場は、政治という名の修羅場だ。


和宮様の想いと、家茂公の覚悟に胸が熱くなります。

史実の悲劇を回避するため、新八の知識がフル活用されていきます。

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