第132話:江戸の情報網
新政府樹立に向けて動き出した新八。
しかし、薩長の動きを掴まねば先手は打てません。
そこで彼が頼ったのは、かつて共に汗を流した剣友たちでした。
第132話:江戸の情報網
江戸、神田お玉ヶ池。
北辰一刀流玄武館の道場には、今日も竹刀の音が響き渡っていた。
だが、その奥の間では、剣術の稽古とは異なる、静かだが熱を帯びた話し合いが行われていた。
「……なるほど。新八の狙いは、そこにあったのか」
千葉重太郎が、腕組みをして唸った。
彼の目の前には、俺が広げた一枚の地図がある。
日本列島が描かれたその地図には、主要な街道と、諸藩の城下町が朱色で印されていた。
「はい。公議政体への移行は、時間との勝負です。薩長が『大政奉還』という切り札を切る前に、我々が先手を打たねばなりません」
俺は、重太郎と佐那に向かって語りかけた。
「そのためには、敵の動きをいち早く察知する『耳』が必要です。……それも、幕府の隠密のような公の組織ではなく、民間に溶け込んだ、目立たぬ耳が」
家茂公との会談で『公議政体構想』が承認された翌日。
俺はすぐに玄武館を訪ねていた。
幕府の組織改革は家茂公と勝海舟に任せるとして、俺には俺の役割がある。
それは、薩長の陰謀を未然に防ぐための、諜報網の構築だ。
「そこで、玄武館のお力を借りたいのです」
俺は頭を下げた。
「北辰一刀流の門弟は、全国に三千人とも言われます。その組織網を、新しい日本のために使わせていただけないでしょうか」
重太郎は、少し困ったような顔をした。
「うーむ。確かに門弟は多いが、彼らは剣を学ぶために集まった者たちだ。間諜のような真似をさせるのは、いささか気が引けるが……」
武人としての矜持が、彼を躊躇させているのだろう。
だが、その時。
「兄上」
凛とした声が、その迷いを断ち切った。
佐那だ。
彼女は、いつもの稽古着ではなく、清楚な着物姿で座っていたが、その瞳には剣士としての鋭い光が宿っていた。
「新八様のおっしゃる通りです。……剣は、人を殺めるためだけにあるのではありません。人を、国を守るために振るうものだと、伯父上も常々おっしゃっておりました」
佐那は、俺の方に向き直り、居住まいを正した。
「新八様。……私に、やらせてください」
「佐那殿?」
「門弟たちの中には、武士だけでなく、商人や職人、農民も多くおります。彼らは、それぞれの土地で、日々の暮らしを営んでおります。……その暮らしの中にこそ、真の情報が隠されているのではないでしょうか」
俺は、ハッとした。
佐那の言う通りだ。
武士の動きだけを追っていては、薩長の本当の狙いは見えてこない。
武器の輸送、食料の買い占め、人の流れの変化。
そういった市井の動きこそが、戦争の前兆となるのだ。
「それに……」
佐那は、少し頬を染めて、俯いた。
「新八様は、京で命がけの戦いを続けてこられました。……私は、江戸でただ無事を祈ることしかできませんでした。それが、どれほど歯痒かったか……」
彼女の声が、微かに震える。
「もう、祈るだけは嫌なのです。……私も、戦いたい。新八様の、お役に立ちたいのです」
その言葉に込められた、熱い想い。
俺は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女を危険な目に合わせたくないという思いはある。
だが、今の彼女の瞳を見て、それを拒むことはできなかった。
それは、彼女の覚悟を侮辱することになるからだ。
「……わかりました。佐那殿にお任せします」
俺は深く頭を下げた。
「貴女が、俺の『目』となり『耳』となってください」
「はい!」
佐那は、花が咲いたような笑顔を見せた。
それからの佐那の動きは、迅速かつ的確だった。
彼女はまず、江戸市中に住む信頼できる門弟たちを集め、情報の集約拠点をいくつか設けた。
米問屋、飛脚宿、旅籠、そして髪結い床。
人が集まり、噂話が飛び交う場所を、彼女は巧みにネットワークに組み込んでいった。
「情報は、鮮度が命です」
数日後、佐那は俺に報告書を見せながら言った。
そこには、薩摩藩邸への出入り業者や、長州藩士らしき人物の目撃情報などが、詳細に記されていた。
「江戸の薩摩屋敷に、大量の火薬が運び込まれたようです。表向きは『花火用』とのことですが、時期外れですし、量が多すぎます」
「……さすがだな」
俺は舌を巻いた。
これほどの情報を、短期間で集めるとは。
彼女には、剣の才能だけでなく、組織を運営し、情報を分析する才覚もあったのだ。
まさに『千葉の小町』ならぬ『千葉の女軍師』だ。
「それと、もう一つ」
佐那は、少し声を潜めた。
「横浜の外国人居留地にも、手の者を潜り込ませました。……イギリス商人のグラバーが、薩摩の五代友厚と頻繁に接触しているようです」
「グラバーか……」
やはり、薩長の後ろにはイギリスがいる。
史実通りとはいえ、厄介な相手だ。
だが、こうして動きが分かれば、対策も打てる。
「佐那殿、ありがとう。これは大きな収穫だ」
「いいえ、まだ始まったばかりです」
佐那は気を緩めずに言った。
「兄上も、地方の道場主たちに手紙を書いて協力をお願いしてくれています。……いずれは、全国規模の情報網が出来上がるはずです」
重太郎も、最初は渋っていたが、妹の熱意にほだされ、今では積極的に協力してくれているらしい。
玄武館の兄貴分が、これほど頼もしい味方になるとは。
「新八様」
ふと、佐那が俺を見つめた。
その瞳には、先ほどまでの厳しい光はなく、どこか潤んだような、甘い色が宿っていた。
「……少しは、見直していただけましたか?」
「え?」
「ただの道場娘ではなく……新八様を支える、お力になれる者として」
ドキリとした。
彼女の想いは、痛いほど伝わってくる。
俺も、彼女のことが嫌いなわけではない。
むしろ、これほど才色兼備で、気立ても良い女性はいないだろう。
だが、俺にはまだ、やるべきことがある。
日本の未来を変えるという、途方もない大仕事が。
「……ああ。見直すどころか、頭が上がらないよ」
俺は、照れ隠しに笑った。
「佐那殿がいなければ、俺はとっくに薩長に出し抜かれていたかもしれない。……君は、俺にとってなくてはならない存在だ」
それは、嘘偽りのない本心だった。
佐那の顔が、ボッと赤くなる。
「な、なくてはならない……」
彼女は口元を手で覆い、嬉しそうに目を細めた。
「……そのお言葉だけで、私はどんな苦労も乗り越えられます」
その夜、俺は玄武館に泊まることになった。
夜更け、縁側で涼んでいると、佐那がやってきた。
手には、二つの湯呑みが載った盆を持っている。
「眠れませんか?」
「ああ、少しな。……これからのことを考えると、気が高ぶってしまって」
俺は、佐那から茶を受け取った。
月明かりの下、彼女の横顔は神秘的なほどに美しかった。
「新八様」
佐那が、夜空を見上げながら呟いた。
「この戦いが終わったら……新八様は、どうされるのですか?」
「終わったら、か……」
俺は考えた。
「……蝦夷地に行ってみたいな」
俺は、遠い目をして呟いた。
「永倉の家は代々蝦夷地を治める松前藩に仕えてきたが、俺自身は江戸生まれの江戸育ちだ。一度も見たことがない……父や祖父が語っていた、広い空と海を」
史実の永倉新八は、明治の世になってから小樽に渡り、そこで晩年を過ごした。
もしかしたら、彼もずっと憧れていたのかもしれない。
先祖代々仕えてきた土地を、この目で見たいと。
「蝦夷地……」
佐那が、優しく微笑んだ。
「新八様のご先祖が守ってこられた土地ですね。いつか、私もご一緒させていただけますか?」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
それは、遠回しな求婚にも聞こえた。
いや、彼女にとっては、直球の告白なのだろう。
俺は、彼女の方を向いた。
彼女も、俺を見つめ返している。
その瞳には、揺るぎない決意と、深い愛情が湛えられていた。
「……佐那殿」
俺は、自然と彼女の手を取っていた。
「もし、すべてが無事に終わって……俺がまだ生きていたら。……その時は、一緒に来てくれるか?」
「はい……!」
佐那の目から、涙がこぼれ落ちた。
「喜んで……どこへでも、お供いたします」
俺たちは、月明かりの下で、静かに誓いを交わした。
それは、戦乱の世に咲いた、小さな、しかし確かな希望の約束だった。
この約束を守るためにも、俺は負けるわけにはいかない。
薩長の陰謀を打ち砕き、必ず生きて、彼女と共に新しい時代を迎えるのだ。
翌日、俺は京へ戻る準備を整えた。
江戸の情報網は、佐那と重太郎に任せておけば安心だ。
次は、京での戦いが待っている。
土方歳三、沖田総司、そして新選組の仲間たち。
彼らと共に、薩長の野望を阻止し、『公議政体』への道を切り拓く。
「行って参ります、佐那殿」
玄武館の門前で、俺は佐那に別れを告げた。
「ご武運を、お祈りしております。……新八様」
佐那は、深々と頭を下げた。
その姿を脳裏に焼き付け、俺は京への道を急いだ。
背中には、彼女の想いと、新しい日本の未来を背負って。
佐那の協力により、強力な情報網を手に入れた新八。
彼女の想いと覚悟が、新八を支える大きな力となります。




