表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
132/143

第132話:江戸の情報網

新政府樹立に向けて動き出した新八。

しかし、薩長の動きを掴まねば先手は打てません。

そこで彼が頼ったのは、かつて共に汗を流した剣友たちでした。

第132話:江戸の情報網

 江戸、神田お玉ヶ池。

 北辰一刀流玄武館の道場には、今日も竹刀の音が響き渡っていた。

 だが、その奥の間では、剣術の稽古とは異なる、静かだが熱を帯びた話し合いが行われていた。


「……なるほど。新八の狙いは、そこにあったのか」

 千葉重太郎が、腕組みをして唸った。

 彼の目の前には、俺が広げた一枚の地図がある。

 日本列島が描かれたその地図には、主要な街道と、諸藩の城下町が朱色で印されていた。


「はい。公議政体への移行は、時間との勝負です。薩長が『大政奉還』という切り札を切る前に、我々が先手を打たねばなりません」

 俺は、重太郎と佐那に向かって語りかけた。

「そのためには、敵の動きをいち早く察知する『耳』が必要です。……それも、幕府の隠密のような公の組織ではなく、民間に溶け込んだ、目立たぬ耳が」


 家茂公との会談で『公議政体構想』が承認された翌日。

 俺はすぐに玄武館を訪ねていた。

 幕府の組織改革は家茂公と勝海舟に任せるとして、俺には俺の役割がある。

 それは、薩長の陰謀を未然に防ぐための、諜報網の構築だ。


「そこで、玄武館のお力を借りたいのです」

 俺は頭を下げた。

「北辰一刀流の門弟は、全国に三千人とも言われます。その組織網を、新しい日本のために使わせていただけないでしょうか」


 重太郎は、少し困ったような顔をした。

「うーむ。確かに門弟は多いが、彼らは剣を学ぶために集まった者たちだ。間諜のような真似をさせるのは、いささか気が引けるが……」

 武人としての矜持が、彼を躊躇させているのだろう。

 だが、その時。

「兄上」

 凛とした声が、その迷いを断ち切った。

 佐那だ。

 彼女は、いつもの稽古着ではなく、清楚な着物姿で座っていたが、その瞳には剣士としての鋭い光が宿っていた。


「新八様のおっしゃる通りです。……剣は、人を殺めるためだけにあるのではありません。人を、国を守るために振るうものだと、伯父上も常々おっしゃっておりました」

 佐那は、俺の方に向き直り、居住まいを正した。

「新八様。……私に、やらせてください」


「佐那殿?」

「門弟たちの中には、武士だけでなく、商人や職人、農民も多くおります。彼らは、それぞれの土地で、日々の暮らしを営んでおります。……その暮らしの中にこそ、真の情報が隠されているのではないでしょうか」


 俺は、ハッとした。

 佐那の言う通りだ。

 武士の動きだけを追っていては、薩長の本当の狙いは見えてこない。

 武器の輸送、食料の買い占め、人の流れの変化。

 そういった市井の動きこそが、戦争の前兆となるのだ。


「それに……」

 佐那は、少し頬を染めて、俯いた。

「新八様は、京で命がけの戦いを続けてこられました。……私は、江戸でただ無事を祈ることしかできませんでした。それが、どれほど歯痒かったか……」

 彼女の声が、微かに震える。

「もう、祈るだけは嫌なのです。……私も、戦いたい。新八様の、お役に立ちたいのです」


 その言葉に込められた、熱い想い。

 俺は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 彼女を危険な目に合わせたくないという思いはある。

 だが、今の彼女の瞳を見て、それを拒むことはできなかった。

 それは、彼女の覚悟を侮辱することになるからだ。


「……わかりました。佐那殿にお任せします」

 俺は深く頭を下げた。

「貴女が、俺の『目』となり『耳』となってください」

「はい!」

 佐那は、花が咲いたような笑顔を見せた。


 それからの佐那の動きは、迅速かつ的確だった。

 彼女はまず、江戸市中に住む信頼できる門弟たちを集め、情報の集約拠点をいくつか設けた。

 米問屋、飛脚宿、旅籠、そして髪結い床。

 人が集まり、噂話が飛び交う場所を、彼女は巧みにネットワークに組み込んでいった。


「情報は、鮮度が命です」

 数日後、佐那は俺に報告書を見せながら言った。

 そこには、薩摩藩邸への出入り業者や、長州藩士らしき人物の目撃情報などが、詳細に記されていた。

「江戸の薩摩屋敷に、大量の火薬が運び込まれたようです。表向きは『花火用』とのことですが、時期外れですし、量が多すぎます」


「……さすがだな」

 俺は舌を巻いた。

 これほどの情報を、短期間で集めるとは。

 彼女には、剣の才能だけでなく、組織を運営し、情報を分析する才覚もあったのだ。

 まさに『千葉の小町』ならぬ『千葉の女軍師』だ。


「それと、もう一つ」

 佐那は、少し声を潜めた。

「横浜の外国人居留地にも、手の者を潜り込ませました。……イギリス商人のグラバーが、薩摩の五代友厚と頻繁に接触しているようです」

「グラバーか……」

 やはり、薩長の後ろにはイギリスがいる。

 史実通りとはいえ、厄介な相手だ。

 だが、こうして動きが分かれば、対策も打てる。


「佐那殿、ありがとう。これは大きな収穫だ」

「いいえ、まだ始まったばかりです」

 佐那は気を緩めずに言った。

「兄上も、地方の道場主たちに手紙を書いて協力をお願いしてくれています。……いずれは、全国規模の情報網が出来上がるはずです」


 重太郎も、最初は渋っていたが、妹の熱意にほだされ、今では積極的に協力してくれているらしい。

 玄武館の兄貴分が、これほど頼もしい味方になるとは。


「新八様」

 ふと、佐那が俺を見つめた。

 その瞳には、先ほどまでの厳しい光はなく、どこか潤んだような、甘い色が宿っていた。

「……少しは、見直していただけましたか?」

「え?」

「ただの道場娘ではなく……新八様を支える、お力になれる者として」


 ドキリとした。

 彼女の想いは、痛いほど伝わってくる。

 俺も、彼女のことが嫌いなわけではない。

 むしろ、これほど才色兼備で、気立ても良い女性はいないだろう。

 だが、俺にはまだ、やるべきことがある。

 日本の未来を変えるという、途方もない大仕事が。


「……ああ。見直すどころか、頭が上がらないよ」

 俺は、照れ隠しに笑った。

「佐那殿がいなければ、俺はとっくに薩長に出し抜かれていたかもしれない。……君は、俺にとってなくてはならない存在だ」


 それは、嘘偽りのない本心だった。

 佐那の顔が、ボッと赤くなる。

「な、なくてはならない……」

 彼女は口元を手で覆い、嬉しそうに目を細めた。

「……そのお言葉だけで、私はどんな苦労も乗り越えられます」


 その夜、俺は玄武館に泊まることになった。

 夜更け、縁側で涼んでいると、佐那がやってきた。

 手には、二つの湯呑みが載った盆を持っている。


「眠れませんか?」

「ああ、少しな。……これからのことを考えると、気が高ぶってしまって」

 俺は、佐那から茶を受け取った。

 月明かりの下、彼女の横顔は神秘的なほどに美しかった。


「新八様」

 佐那が、夜空を見上げながら呟いた。

「この戦いが終わったら……新八様は、どうされるのですか?」

「終わったら、か……」

 俺は考えた。

「……蝦夷地に行ってみたいな」

 俺は、遠い目をして呟いた。

「永倉の家は代々蝦夷地を治める松前藩に仕えてきたが、俺自身は江戸生まれの江戸育ちだ。一度も見たことがない……父や祖父が語っていた、広い空と海を」

 史実の永倉新八は、明治の世になってから小樽に渡り、そこで晩年を過ごした。

 もしかしたら、彼もずっと憧れていたのかもしれない。

 先祖代々仕えてきた土地を、この目で見たいと。

「蝦夷地……」

 佐那が、優しく微笑んだ。

「新八様のご先祖が守ってこられた土地ですね。いつか、私もご一緒させていただけますか?」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 それは、遠回しな求婚プロポーズにも聞こえた。

 いや、彼女にとっては、直球の告白なのだろう。

 俺は、彼女の方を向いた。

 彼女も、俺を見つめ返している。

 その瞳には、揺るぎない決意と、深い愛情が湛えられていた。


「……佐那殿」

 俺は、自然と彼女の手を取っていた。

「もし、すべてが無事に終わって……俺がまだ生きていたら。……その時は、一緒に来てくれるか?」

「はい……!」

 佐那の目から、涙がこぼれ落ちた。

「喜んで……どこへでも、お供いたします」


 俺たちは、月明かりの下で、静かに誓いを交わした。

 それは、戦乱の世に咲いた、小さな、しかし確かな希望の約束だった。

 この約束を守るためにも、俺は負けるわけにはいかない。

 薩長の陰謀を打ち砕き、必ず生きて、彼女と共に新しい時代を迎えるのだ。


 翌日、俺は京へ戻る準備を整えた。

 江戸の情報網は、佐那と重太郎に任せておけば安心だ。

 次は、京での戦いが待っている。

 土方歳三、沖田総司、そして新選組の仲間たち。

 彼らと共に、薩長の野望を阻止し、『公議政体』への道を切り拓く。


「行って参ります、佐那殿」

 玄武館の門前で、俺は佐那に別れを告げた。

「ご武運を、お祈りしております。……新八様」

 佐那は、深々と頭を下げた。

 その姿を脳裏に焼き付け、俺は京への道を急いだ。

 背中には、彼女の想いと、新しい日本の未来を背負って。


佐那の協力により、強力な情報網を手に入れた新八。

彼女の想いと覚悟が、新八を支える大きな力となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ