第131話:最後の将軍の決断
激動の時代、国を背負う若き将軍が、ただ一人心を許せる場所へ向かいます。
その夜、語られる真実と、試される夫婦の絆。
静かなる夜の語らいです。
夜の帳が下りると、広大な城郭は静寂に包まれる。
だが、その静けさは、嵐の前のそれのように、どこか張り詰めた空気を孕んでいた。
永倉新八との会談を終えた徳川家茂は、一人、廊下を歩いていた。
足音だけが、板張りの床に響く。
その足取りは、いつになく重く、しかし迷いはなかった。
向かう先は、御台所・和宮の部屋である。
襖の向こうから、微かに衣擦れの音が聞こえた。
「上様でございますか?」
鈴を転がしたような、涼やかな声。
家茂は一度深呼吸をしてから、静かに答えた。
「ああ、宮。入ってもよいか」
「はい、お待ちしておりました」
襖が開くと、そこには行灯の柔らかな光に照らされた和宮の姿があった。
彼女は文机に向かっていたようだが、家茂の姿を認めると、すぐに立ち上がり、優雅に頭を下げた。
その所作の一つ一つに、京の雅と、武家の妻としての慎ましさが同居している。
「夜分にすまぬ。……少し、話がしたくてな」
家茂は、和宮の向かいに座った。
和宮は、何も聞かずに茶を淹れた。
湯気が立ち上り、茶の香りが部屋に広がる。
その香りが、家茂の張り詰めた神経を少しだけ和らげた。
「……永倉殿と、お会いになっていたのですね」
和宮が、茶碗を差し出しながら言った。
その瞳は、すべてを見透かしているかのように澄んでいる。
「ああ。……あやつは言いおった」
家茂は苦笑した。
「いよいよ幕府を、解体する。将軍職を廃止するとな……」
カチャリ。
和宮が茶碗を置く音が、静寂の中で小さく響いた。
だが、彼女は動揺を見せなかった。
ただ、じっと家茂の顔を見つめている。
「それで、上様は……なんと?」
「予は……その策に乗ることにした」
家茂は、膝の上に置いた拳を握りしめた。
言葉にすれば、それはあまりにも重い。
二百六十年続いた徳川の世を、自分の代で終わらせる。
それは、先祖に対する裏切りであり、幕臣たちに対する背信行為とも取れる。
だが、家茂は続けた。
「薩長は、『大政奉還』を狙っている。政権を朝廷に返上させ、徳川を無力化する腹積もりだ。……だが、それでは国は乱れる。朝廷には、政を行う力も、組織もない」
「はい……。兄上(孝明天皇)も、それを案じておられました」
和宮が小さく頷く。
「だからこそ、予が動く。……将軍職を廃し、幕府を解体する。その上で、新しい政府を作るのだ。帝を象徴とし、議会と内閣が国を動かす、新しい仕組みを」
家茂は、永倉が描いた『公議政体構想』を、熱っぽく語った。
徳川家は、将軍家としてではなく、一貴族として、そして政治家として、新政府の中枢を担う。
それは、徳川の権威を守るためではなく、日本の独立と安寧を守るための、唯一の道。
「予は、将軍の座を降りる。……そして、一人の人間として、この国のために働くつもりだ」
家茂は、和宮の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だが、それは……宮、そなたを『将軍の妻』ではなく、『一政治家の妻』にしてしまうということだ。……許してくれるか?」
和宮は、しばらく沈黙していた。
彼女が京から江戸へ下ったのは、公武合体のため。
朝廷と幕府の架け橋となり、日本を一つにするためだった。
そのために、彼女は多くのものを犠牲にし、慣れない江戸の風習に耐えてきた。
将軍の妻としての誇りも、責任も、彼女の中には深く根付いているはずだ。
やがて、和宮はふわりと微笑んだ。
それは、春の日差しのように温かく、そしてどこか儚げな笑みだった。
「上様。……わらわが、なぜこの江戸へ参ったか、覚えておいでですか?」
「公武合体のため……であろう?」
「はい。ですが、それだけではありませぬ」
和宮は、家茂の手をそっと包み込んだ。
その手は小さく、しかし驚くほど温かかった。
「わらわは、この国の民が、戦火に怯えることなく暮らせる世を願って参りました。……上様が選ばれた道は、まさにその願いを叶えるもの。徳川の名を捨ててでも、日本を守ろうとするそのお覚悟……わらわは、誇りに思います」
「宮……」
家茂の胸に、熱いものが込み上げてきた。
彼女は、理解してくれたのだ。
自分の苦悩も、決断も、すべてを。
「それに……」
和宮は、少し悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「将軍職を降りれば、あのような堅苦しい儀式や、しきたりからも解放されるのでございましょう?」
「あ、ああ。……そうなるな」
「ならば、ようございました。……これでようやく、貴方様はただの『家茂様』になれるのですね」
その言葉に、家茂はハッとした。
幼くして将軍となり、常に重圧の中に生きてきた彼にとって、「ただの家茂」である時間は、これまで一度もなかった。
和宮は、誰よりもその孤独を理解し、寄り添ってくれていたのだ。
「……そうか。予は、ただの家茂に……」
家茂の目から、涙が溢れた。
それは、悲しみの涙ではない。
長い間背負ってきた重荷を下ろした安堵と、妻の深い愛情に触れた喜びの涙だった。
和宮は、そっと家茂の背中に手を回し、彼を抱きしめた。
「泣いてもようございますよ。……今宵だけは、将軍ではなく、わらわの夫として」
家茂は、妻の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
窓の外では、月が静かに二人を照らしていた。
その光は、欠けることなく、満ち足りていた。
しばらくして、家茂は顔を上げた。
その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「ありがとう、宮。……予は、もう迷わぬ」
「はい」
「明日から、忙しくなるぞ。……薩長、そして朝廷。説得せねばならぬ相手は山ほどいる」
「わらわも、お手伝いいたします。……兄上への手紙は、わらわが書きましょう」
和宮の提案に、家茂は驚いた。
「宮が……?」
「はい。兄上は、頑固なところがございますが、情には厚いお方。……妹の頼みとあらば、無下にはなさいますまい」
和宮は、凛とした表情で言った。
その姿は、か弱き深窓の姫君ではなく、一人の強い女性そのものだった。
「頼もしいな。……そなたがいてくれれば、百人力だ」
家茂は、和宮の手を強く握り返した。
この夫婦の絆がある限り、どんな困難も乗り越えられる。
そう確信した瞬間だった。
翌朝。
家茂は、再び永倉を呼び出した。
御座所に現れた家茂の顔には、昨日のような悲壮感は微塵もなかった。
そこにあるのは、新しい時代を切り拓くリーダーとしての、力強い眼差しだった。
「永倉。……昨夜、宮とも話した」
家茂は、晴れやかな声で告げた。
「予の決意は固まった。……『公議政体』の樹立に向けて、全力を尽くす」
「はっ!」
俺は平伏した。
家茂の纏う空気が、昨日とは明らかに違っていた。
迷いが消え、芯の通った強さが漲っている。
和宮様が、彼を支えてくれたのだ。
「まず、帝への奏上を行う。……宮も、協力してくれるそうだ」
「なんと……御台所様が」
「ああ。……彼女は、予の最強の味方だ」
家茂は、誇らしげに微笑んだ。
俺は、胸が熱くなるのを感じた。
史実では、悲劇的な別れを迎えた二人。
だが、この世界では、二人は手を取り合い、共に未来へ歩み出そうとしている。
この夫婦がいれば、日本は変われる。
薩長の陰謀など、恐るるに足らない。
「では、公方様。……具体的な手順について、ご説明いたします」
「うむ。頼むぞ、永倉」
こうして、歴史の歯車は大きく動き出した。
最後の将軍・徳川家茂と、その妻・和宮。
そして、未来を知る男・永倉新八。
彼らが紡ぐ新しい歴史は、まだ誰も見たことのない、希望の光に満ちていた。
史実の悲劇を乗り越え、最強の夫婦が誕生しました。
和宮様の協力も得て、いよいよ新政府樹立へ向けて動き出します。




