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第129話:「大政奉還」の否定

舞台は再び江戸城へ。

歴史の大きなうねりが、若き将軍と新八の前に押し寄せます。

国の未来を左右する決断の時です。

 江戸城、奥御殿。

 京で沖田総司と中沢琴の間に淡い恋心が芽生えていた頃、俺は、将軍・徳川家茂との謁見に臨んでいた。

 だが、今日の空気は、いつもの「講義」とは明らかに異なっていた。

 張り詰めた緊張感。

 家茂の表情も、かつてないほど険しい。


「……永倉。京の所司代から、急ぎの報せが入った」

 家茂が、卓上の書状を俺に示した。

「薩摩と長州が、朝廷工作を加速させている。彼らが画策しているのは『大政奉還』……すなわち、幕府から朝廷への政権返上を迫る建白書だ」


 大政奉還。

 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に苦いものが込み上げてきた。

 かつての俺は、それこそが日本を救う唯一の道だと信じていた。

 政権を朝廷に返し、広く人材を集めた議会を作る。それこそが理想だと。

 だが、現実は甘くなかった。

 坂本龍馬からの密書、そして京での情報収集によって、俺は薩長の真意を知ってしまったのだ。


「公方様。……彼らの狙いは、平和的な政権移譲ではありません」

 俺は、静かに、しかし力強く言った。

「彼らが唱える大政奉還は、毒饅頭です」


「毒饅頭、か」

 家茂が眉をひそめる。

「以前、そなたも言っていたではないか。議会を作り、合議によって国を決めるべきだと。彼らの主張も、表向きは同じ理屈だぞ?」


「はい。ですが、中身が違います」

 俺は、以前の講義で説明した「公議政体」の図面を再び広げた。

「私が公方様にお話ししてきた『公議政体』は、徳川家が筆頭諸侯として、新政府の中核を担うものです。行政能力を持つ幕府を解体・再編し、スムーズに新体制へ移行させる。これなら、国は乱れません」


 俺は一呼吸置き、言葉を継いだ。

「しかし、薩長の狙いは違います。彼らは、幕府に政権を投げ出させ、その後の政治的空白を狙っています。朝廷には政権運営の能力も、組織も、財源もない。必ず混乱します。その混乱に乗じて『王政復古』を宣言し、徳川を完全に排除する……それが彼らのシナリオです」


 史実の知識が、警鐘を鳴らしている。

 慶喜公が行った大政奉還の後、待っていたのは「辞官納地」の命令と、戊辰戦争という内乱だった。

 同じ轍を踏むわけにはいかない。


「つまり、そなたは……薩長の提案する『大政奉還』を拒否せよと言うのか?」

「いいえ。拒否すれば、彼らはそれを口実に『朝敵』として攻め込んでくるでしょう」

 俺は首を横に振った。

「拒否するのではなく、先手を打つのです。彼らが建白書を出す前に、こちらから『真の改革』を断行するのです」


 俺は、家茂の目を真っ直ぐに見つめた。

「公方様。以前の講義で申し上げた『立憲君主制』と『内閣制度』……あれを、絵空事ではなく、現実の策として実行に移す時が来ました」


 家茂の瞳が揺れた。

 彼は聡明だ。それが何を意味するか、痛いほど理解している。

 それは、徳川幕府という二百六十年の歴史に、自らの手で幕を引くことを意味する。


「……永倉。そなたは、予に『徳川を終わらせろ』と言うのだな」

「はい。徳川のためではなく、日本のために」

 俺は平伏した。

 広間に、重い沈黙が流れた。

 遠くで、庭の鹿威しが「カコン」と鳴る音だけが響く。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 家茂が、ふう、と息を吐いた。

「……予も、覚悟はしていた。そなたの講義を聞くたびに、この日が来ることを予感していたのだ」

 家茂は立ち上がり、窓の外の江戸の町を見下ろした。

「徳川の世は、もう限界だ。だが、どう終わらせればよいのか、わからなかった。……そなたが示したのは、徳川の『名誉ある最期』であり、新たな『始まり』なのだな」


 その夜。

 家茂は、御台所である和宮の部屋を訪れていた。

 二人は並んで座り、庭の月を眺めていた。


「宮」

 家茂が静かに口を開いた。

「はい、上様」

「予は……徳川幕府を、終わらせようと思う……」


 和宮の手が、ピクリと震えた。

 だが、彼女は取り乱さなかった。

 京から下り、激動の渦中に身を置いてきた彼女もまた、時代の変化を肌で感じていたのだろう。

「……永倉殿の、策でございますか?」

「ああ。あの男は、残酷なことを言う。だが、それが唯一の道だと、予の魂が告げているのだ」


 家茂は、自嘲気味に笑った。

「歴代の将軍に顔向けできぬな。徳川の世を終わらせた将軍として、歴史に名を残すかもしれぬ」

「いいえ」

 和宮は、きっぱりと否定し、家茂の手を強く握った。

「上様は、徳川のためではなく、日本のために決断されたのです。……わらわは、誇りに思います」


「宮……」

「わらわが京から下ったのは、公武合体のため。朝廷と幕府の架け橋となるためです。上様が選ばれた道は、まさにその悲願を叶えるもの。……兄上(孝明天皇)も、きっとわかってくださいます」


 和宮の言葉に、家茂の迷いが消えていく。

 彼は、妻の手を握り返し、月の光の中で誓った。

「ありがとう、宮。……予は、徳川の将軍としてではなく、一人の日の本の人間として生きたい。そして、そなたと共に、新しい日本を見てみたいのだ」

「はい。貴方様が選ぶ道なら、わらわはどこまでもお供します。……たとえそれが、修羅の道であろうとも」


二人は寄り添い、月を見上げた。

その月は、欠けることなく、満ち足りた光を放っていた。

だが、その光の先には、暗雲が立ち込めている。

薩長という名の嵐が、すぐそこまで迫っていた。

家茂公の悲壮な決意と、それを支える和宮様の愛。

史実の「大政奉還」とは異なる、徳川主導の改革への道が開かれました。

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