第124話:玄武館の再訪
激動の江戸城から一転、新八が訪れたのは懐かしき剣の故郷。
張り詰めた政治の舞台を離れ、一人の男として、そして一人の剣士として、彼は何を見つめ直すのか。
神田お玉ヶ池。
江戸の町は、京の張り詰めた空気とは異なり、どこか享楽的で、それでいて活気に満ちていた。
だが、その喧騒を一歩離れた路地の奥に、凛とした静寂を湛える場所がある。
北辰一刀流、玄武館。
かつて俺が剣の腕を磨き、汗を流した道場であり、今では俺にとって江戸における「家」とも呼べる場所だ。
門前に立つと、激しく竹刀を打ち合う音が聞こえてきた。
「面ッ!」「胴ッ!」
裂帛の気合。床板を踏み鳴らす音。
俺は深く息を吸い込み、その空気を肺いっぱいに満たした。
将軍・家茂との国家改造計画、薩長との暗闘、そして未来への重圧。それらすべてが、一瞬だけ遠のくような気がした。
「たのもー」
俺は門をくぐり、声を上げた。
道場の中から、顔なじみの門弟が顔を出した。
「おや、永倉さん! いらしてたんですか!」
俺の顔を見ると、皆が明るい表情で迎えてくれる。
「ああ、邪魔するよ。先生は?」
「奥におられます。佐那さんも、ちょうど稽古を終えられたところです」
道場の奥へ進むと、稽古着姿の女性がこちらに気づき、パッと顔を輝かせた。
千葉佐那。
「千葉の小鬼」と恐れられる女剣士であり、俺が心を許せる数少ない存在だ。
「永倉様!」
彼女は小走りに駆け寄ってきた。その額には汗が光り、健康的な赤みが頬に差している。
「お戻りになられたのですね。城での御用は、もうお済みですか?」
「ああ、ひと段落ついたよ。……少し、顔が見たくなってね」
俺がそう言うと、佐那は嬉しそうに目を細めた。
「まあ。……お待ちしておりました」
その言葉には、単なる挨拶以上の温かさが込められていた。
道場の奥座敷。
千葉周作先生は、縁側で日向ぼっこをしていた。
前回の訪問時よりも、少し顔色が良さそうだ。
「おお、新八か。城勤めは板についたか?」
先生は、しわがれた声で笑いながら言った。
「勤めというよりは、話し相手のようなものです。……ですが、手応えはあります」
俺は座布団に座り、先生に向き直った。
「公方様は、本気です。この国を変える覚悟をお持ちです」
先生は目を細め、遠くを見るような目をした。
「そうか。……若き将軍が、立つか。乱世になるな」
「はい。避けては通れぬ道です」
「で、お前はどうする? その乱世の真ん中で、何をするつもりだ?」
先生の眼光が鋭くなる。
俺は背筋を正した。
「俺は……泥を被ります。公方様が光なら、俺は影となって、新しい時代を支える土台になります」
先生はしばらく俺を見つめていたが、やがて満足そうに頷いた。
「よかろう。……佐那」
「はい、父上」
お茶を運んできた佐那が答える。
「新八の相手をしてやれ。こやつの迷いを、お前の剣で断ち切ってやれ」
「……はい」
道場には、俺と佐那の二人だけ。
向かい合った瞬間、互いの空気が変わったのを感じた。
佐那が竹刀を構える。その姿は、相変わらず美しい。隙がなく、それでいてしなやかだ。
俺も竹刀を構えた。
「参ります!」
鋭い裂帛と共に、佐那が踏み込んでくる。
速い。
だが、今の俺には、その太刀筋がはっきりと見えた。
俺は竹刀でそれを受け流し、反撃に転じる。佐那はそれを読んでいたかのように躱し、再び打ち込んでくる。
竹刀が交錯する音だけが、道場に響く。
言葉はいらない。
剣を交えるだけで、互いの心が伝わってくる。
だが、今日の佐那の剣には、前回とは違う「問い」が含まれていた。
「……永倉様……いえ、新八さん!」
鍔迫り合いの最中、佐那が叫んだ。
「あなたは、また遠くへ行こうとしているのではありませんか!?」
「遠くへ?」
「はい。城での務め、公方様との謁見……あなたが語る言葉は、日に日に大きく、遠いものになっていきます。まるで、雲の上に登ってしまうかのように!」
佐那が竹刀を押し込んでくる。
彼女は感じ取っていたのだ。俺が、単なる一介の浪士から、国家の中枢に関わる存在へと変わりつつあることを。そして、それが俺を危険な場所へ連れて行くことを。
「……心配かけてすまない」
俺は竹刀を弾き、距離を取った。
そして、竹刀を下ろした。
「だが、俺は変わらない。俺は永倉新八だ。君が知っている、ただの剣客だ」
「嘘です!」
佐那の声が響いた。
「ただの剣客が、国の行く末を背負ったりしますか! あなたは……あなたは、自分を犠牲にしてまで、何かを成し遂げようとしている!」
図星だった。
俺は、史実を知る者として、この国の悲劇を回避する義務があると感じていた。そのためなら、自分の命など安いものだと思っていた。
だが、それは彼女にとっては「残酷な決意」だったのだ。
「佐那さん。……俺は、この国を守りたい。多くの人が笑って暮らせる未来を作りたいんだ」
「その中に、あなたはいるのですか?」
「え?」
「みんなが笑っている未来に、あなた自身はいるのですか!? あなただけが傷つき、泥にまみれて、それで……いなくなってしまうなんて、私は嫌です!」
佐那の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
俺はハッとした。
俺は、「誰を救うか」ばかり考えていて、「誰と共に生きるか」を考えていなかったのかもしれない。
俺の帰りを待ってくれる人がいる。
俺の身を案じてくれる人がいる。
その事実が、どれほど尊いことか。
「……すまない」
俺は佐那に歩み寄った。
「君を泣かせるつもりじゃなかった」
「……馬鹿! 新八さんは馬鹿です!」
佐那は涙を拭い、俺を睨みつけた。その目は赤いが、強い光を宿していた。
「私は、千葉周作の姪です。ただ泣いて待つだけの女だと思わないでください」
彼女は一歩、俺に近づいた。
「あなたが泥にまみれるなら、私も一緒に泥をかぶります。あなたが地獄へ行くなら、私もお供します。……だから、一人で行こうなんて思わないでください」
「佐那さん……」
「お待ちしておりました。ずっと、あなたのような人を。……いいえ、あなたを」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
前回の再会で感じた安らぎとは違う。もっと熱く、強い絆が、今ここで結ばれようとしている。
俺は、彼女の手を取った。
剣ダコのある、硬く、そして温かい手。
「……わかった」
俺は佐那の瞳を見つめ返した。
「約束する。俺は必ず戻ってくる。どんなに泥にまみれても、必ず君の元へ帰ってくる」
「はい。……信じています」
佐那の頬が、夕焼けのように赤く染まった。
その瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて嵌まった気がした。
孤独な戦いではない。
家茂がいる。和宮がいる。新選組の仲間がいる。
そして今、俺の「帰る場所」が、ここにある。
俺たちは道場の外に出た。
夕日が、江戸の町を黄金色に染めていた。
だが、その向こうには、黒い雲が湧き上がっている。
薩長という嵐。
そして、その背後に潜む岩倉具視という闇。
「行こう、佐那さん」
「はい、新八さん」
初めて名前で呼ばれたその響きは、どんな激励よりも俺の心を奮い立たせた。
俺たちは並んで歩き出した。
偽りの夜明けを切り裂くために。
佐那との再会、そして交わされた約束。
孤独な戦いではなく、守るべき人と共に歩む未来。
新八の「帰る場所」が確かなものとなりました。




