第120話:偽りの夜明け
薩長同盟がついに成立。だがそれは、薄氷の上に築かれた「偽りの夜明け」だった。
新八と龍馬が切り拓く未来、そして江戸の佐那と琴の決意。
それぞれの想いを乗せ、激動の第2部、ここに完結です。
数日後、京の隠れ家に、一陣の風が吹き込んだ。
風の正体は、坂本龍馬その人だった。やつれた顔には交渉の疲労が色濃く浮かんでいたが、その両目は、やり遂げた男だけが持つ達成感の光で爛々と輝いていた。
「……どうだった、龍馬」
俺と中岡慎太郎が固唾を飲んで見守る中、龍馬は卓に置かれた湯呑みを一気に呷ると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「決まったぜよ。薩摩と長州、手を結んだ。表向きは、な」
その言葉に、中岡の顔がぱっと輝く。だが、俺は龍馬の言葉に含まれた棘のような響きを聞き逃さなかった。「表向きは」という、含みのある一言を。
「まずは薩摩じゃ」
龍馬は、まるで昨日のことのように語り始めた。
薩摩藩邸に乗り込んだ龍馬を待っていたのは、西郷吉之助(隆盛)と、その傍らに控える大久保一蔵(利通)だった。寺田屋の一件以来、藩内には龍馬への不信感が渦巻いている。その冷ややかな空気を、龍馬はたった一人で受け止めた。
「西郷の旦那は、わしを一目見るなり、こう言うた。『坂本さぁ、おはんの真意はどこにある』と。あの巨体で睨まれると、肝が冷える思いじゃったわい」
龍馬は肩をすくめたが、その目は笑っていた。
「じゃき、わしは正直に言うた。『新しい日本の夜明けが見たい。ただそれだけじゃ』と。わしらの描く『帝国議会』の構想、天皇陛下の御名の下に、武士も公家も町人もない、誰もが国を支える世を創るという夢を、ありのままに語った」
小手先の交渉術ではない。ただ、真っ直ぐに。それが、俺たちが西郷に対して立てた唯一の策だった。
龍馬の言葉に、西郷はただ黙って聞き入っていたという。しかし、その隣で冷徹に算盤を弾いていたのが大久保だった。
「大久保の旦那は、実に厄介じゃった。『その夢物語、薩摩に何の利がある』と、理詰めでわしを追い込んでくる。亀山社中がもたらす海運の利、武器の融通……あらゆる実利を並べ立てても、あの男の目は少しも揺るがんかった」
絶え間ない大久保の追及に、ついに龍馬は切り札を切った。
「『利だけではない。これは、大義の戦いぜよ』と。わしは言うた。『このまま幕府が腐り落ちるのを待てば、待つのは異国に食い物にされる未来だけじゃ。薩摩が掲げる公武合体も、長州が叫ぶ尊王攘夷も、もはや古い。我らが目指すは、その先にある、新しい国の形じゃ』と」
その言葉に、初めて大久保の表情が動いたという。そして、それまで沈黙を守っていた西郷が、重々しく口を開いた。
「……よかろう。そん夢、信じてみもんそ」
最後は、情と大義。西郷吉之助という男は、どこまでもそういう男だった。
「で、問題の長州じゃ」
龍馬は一息つき、今度は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「木戸貫治……あの男、噂に違わぬ慎重居士じゃった。いや、蛇のように執念深い男じゃ」
龍馬は、俺の策に従い、まずは理と利で木戸を説いた。薩摩と手を結ぶことの軍事的、経済的メリット。そして、俺たちの「公議政体」構想がいかに長州の復権に繋がるかを。だが、木戸は全く乗ってこなかったという。
「奴はわしの目を見て、こう言うた。『坂本君、君の背後には誰がいるのかね』と。全てお見通しじゃった」
そこで龍馬は、俺の言った通りに告げた。
「『この策を授けたのは、新選組の永倉新八だ』と」
その瞬間、木戸の顔から能面のような表情が消え、凄まじい怒りと憎悪が浮かんだという。池田屋で仲間を斬られた記憶が、鮮やかに蘇ったのだろう。
「『新選組だと!? 貴様、長州を愚弄する気か!』と、今にも斬りかからんばかりの剣幕じゃった。じゃが、わしはあんたの言うた通り、静かに言葉を返した」
龍馬は、俺の目を真っ直ぐに見た。
「『永倉は言うとった。池田屋で対峙した時、木戸殿の剣は、ただ人を斬る剣ではなかった。国を憂う者の剣だった、と。だからこそ、信じられる』と」
木戸の動きが、ぴたりと止まった。
「そして続けた。『あの夜、永倉の狙いはあんたの首ではなかった。文書を手に入れ、京に潜む過激派の繋がりを断つことじゃった。あの男は、あの時からもう、新選組という立場を超えて、国全体を見て動いていた。寺田屋で、このわしを助けたのが何よりの証拠じゃ』と」
木戸は何も言わず、ただ龍馬を睨みつけていた。その脳裏で、池田屋の夜の光景が、俺の言葉が、再生されていたに違いない。
龍馬は、最後の一押しを放った。
「『あの夜、あんたは永倉に言うたそうじゃな。「その剣は、何を守るためのものか」と。この薩長を結びつけ、内戦を避け、帝の下に新しい政を創るという策こそが、その問いへの永倉の答えだ』……そう告げた瞬間、あの男、カカッと笑いおったわ」
それは、怒りでも嘲笑でもない。恐るべき好敵手を見出した、戦士の笑みだったと龍馬は言った。
「『面白い……面白い男だ、永倉新八という男は。よかろう、坂本君。その危険な遊戯、乗ってやろうじゃないか』と。奴は、あんたを好敵手と認めおったぜよ」
報告を聞き終えた俺の胸に去来したのは、安堵ではなかった。むしろ、これから始まる本当の戦いを前にした、身の引き締まるような緊張感だった。
「……そうか。ご苦労だった、龍馬」
「新八……」
中岡が、不安げな顔で俺を見る。
「これは、あまりに危うい綱渡りではないか?」
「ああ、そうだな」
俺は、正直に認めた。
「龍馬が結ばせたのは、おそらく『偽りの同盟』になるだろう。互いに腹に一物を抱え、牽制し合い、隙あらば相手を出し抜こうとする、薄氷の上の合意だ。西郷の『情』も、木戸の『好敵手』という認識も、大久保の『利』の前ではいつ覆されるか分からん」
それをコントロールし、内戦という最悪の結末を避けながら、日本を一つの方向にまとめ上げる。なんと困難な舵取りだろうか。俺は、自ら選んだ道の険しさに、改めて身震いする思いだった。
これは、夜明け前の、最も深い闇。
俺は、この偽りの夜明けの先に、真の光をもたらすことができるのだろうか。
◇
その頃、遠く離れた江戸では、二人の女性がそれぞれの思いを胸に、京の空を見上げていた。
一人は、千葉佐那。
神田於玉ヶ池の千葉道場。夜更けの道場に、凛とした気合と共に、竹刀が空を切る音だけが響いていた。汗を拭い、壁に立てかけてある愛刀に目をやる。それは、新八から江戸を発つ際に贈られた、守り刀だった。
(新八様……)
勝海舟や小栗忠順といった幕府の重鎮たちと渡り合い、この国の未来を語っていた彼の姿を思い出す。自分だけが知る、彼の孤独と葛藤。史実という名の運命に抗い、多くの命を救おうとしながら、その重圧に一人で耐えている。
「あの方の剣は、もう人を斬るためだけのものではありません。何かを、もっと大きなものを守るための剣……」
父にそう語った日のことを思い出す。自分にできることは、ただ信じて待つことだけ。そして、いつか彼が帰る場所であり続けること。佐那は、京の空に向かい、ただひたすらに彼の無事を祈り続けた。その祈りが、彼の心の盾となることを信じて。
もう一人は、中沢琴。
市ヶ谷の新徴組屯所。男ばかりのむさ苦しい環境の中にあっても、彼女の存在は涼やかな一輪の花のようだった。だが、その花は鋭い棘を隠し持っている。
「聞いたか? 京の新選組に、沖田総司っていう天才剣士がいるらしいぜ。病で伏せってたらしいが、最近回復したとかで、そりゃもう神業みてえな剣を振るうって話だ」
同僚たちの噂話が、琴の耳に突き刺さった。
沖田総司。その名は、江戸の剣客たちの間でも伝説のように囁かれていた。
琴の脳裏に、一人の男の姿が蘇る。
永倉新八。
自分の剣が、まるで赤子扱いされた、あの衝撃的な敗北。彼の剣は、自分が知るどの流派とも違っていた。力でも速さでもない、全てを見透かし、無駄なく急所を貫く、絶対的なまでの合理性。
(あの男……永倉殿は、沖田総司の病を治すために京と江戸を奔走していたと聞いた。そして、その沖田殿は、永倉殿と並び称されるほどの使い手……)
自分の剣は、まだ未熟だ。あの敗北が、それを教えてくれた。もっと強い者と立ち会いたい。己の剣の限界を知り、その先へ進みたい。
永倉新八という規格外の存在。そして、彼が認める沖田総司という天才。
(京へ行こう)
決意は、一瞬だった。
女であることの制約も、新徴組の任務も、今の彼女の渇望の前では些細なことに思えた。
「私の剣は、どこまで通じるのか。確かめなければならない」
噂に聞く天才の剣を、この目で見るために。そして、いつか必ず、永倉新八という高い壁を乗り越えるために。
中沢琴は、静かに、しかし燃えるような決意をその瞳に宿し、西の空を見据えていた。
愛する人の無事を祈る者。
最強の剣を求める者。
そして、偽りの同盟という危うい船を操り、荒れ狂う時代の海へと漕ぎ出そうとする者。
それぞれの思いが、京の空の下で交錯する。
(第2部 完)
龍馬の奔走によって薩長はひとまず手を結び、第二部は「偽りの同盟」という危うい均衡の上で幕を下ろします。
本作の世界の歴史はすでに大きく軌道を外れ、ここから先は一歩ごとに破滅と変革が隣り合わせとなります。
次話から始まる第3部は、本作で最も緊迫した展開が続く予定です。
新八たちが選び続けてきた「答え」が、いよいよ本格的に試されていきます。
引き続きよろしくお願いいたします。




