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第119話:薩長同盟への介入

 三つの手が固く握り締められ、そして解かれた。

 京の隠れ家に灯る、頼りない蝋燭の光が、俺たち三人の顔を映し出す。坂本龍馬、中岡慎太郎、そして俺、永倉新八。今この瞬間、この国で最も危険で、そして最も大望を抱いた密約が成立したのだ。


 熱気は、まだ部屋の中に渦巻いていた。だが、俺たちの頭は驚くほど冷静だった。成すべきことの途方もない大きさが、感傷に浸ることを許さない。


「さて、龍馬」

 俺が口火を切ると、龍馬は待ってましたとばかりにニヤリと笑った。

「おう、分かっちゅう。最初の仕事じゃな。あの犬猿の仲の薩摩と長州を、同じ席に着かせる。わしに任せろと言うたが……新八、おんしはただ『任せる』で済ます男じゃないろう?」


 さすがに付き合いが長くなってきただけある。俺の思考を正確に読み当ててきた。

 中岡が、真剣な眼差しで俺と龍馬を交互に見る。彼にとっても、薩長の和解は悲願の一つだったはずだ。だが、その目的が、これまでの倒幕一辺倒のものとは全く違う。


「その通りだ。龍馬、あんたの交渉の腕は天下一品だ。だが、今回の相手は一筋縄ではいかん。特に、両藩の肝となる人物……薩摩の西郷吉之助(隆盛)と、長州の木戸貫治(孝允)。この二人をどう動かすかで、全てが決まる」


 俺は、脳内にある「詳説日本史研究」のページをめくる。そこに記されているのは、単なる歴史上の事実ではない。後世から分析された、彼らの詳細な人物像だ。それは、この時代を生きる誰も持ち得ない、最強の武器だった。


「龍馬、これから俺が話すことを、一言一句違わずに覚えろ。これは、あんたが西郷と木戸を御するための、俺からの手土産だ」


 龍馬はごくりと喉を鳴らし、その場にあぐらをかいた。中岡も、固唾を飲んで俺の言葉を待っている。俺はまず、南国の巨漢の姿を思い浮かべながら語り始めた。


「まずは薩摩の西郷吉之助。あの男は、一言で言えば『情と大義』の塊だ」

「情と、大義……」

 龍馬が、俺の言葉を繰り返す。


「そうだ。あの男を動かすのは、理屈じゃない。ましてや金でもない。『天下国家のため』『万民のため』という、一点の私心もなき大義名分。そして、その大義を共有できると信じた相手に見せる、底なしの情だ。あの男の前で、小手先の駆け引きは通用せん。むしろ、腹の底まで見透かされると思え」


 史実の西郷は、清濁併せ呑む度量を持ちながら、一度敵と見なしたものには容赦しない冷徹さも兼ね備えている。単純なお人好しではない。だが、彼の行動原理の根幹にあるのは、常に「公」への意識だ。


「龍馬、あんたが西郷に会う時は、絶対に策を弄するな。あんたが持つ『新しい日本を創る』という夢を、ありのまま、真っ直ぐにぶつけるんだ。『戦で血を流すことなく、帝を中心とした新しい政の仕組みを創りたい。そのためには、薩摩の力が必要だ』と。その言葉に、あんた自身の私心がなければ、西郷は必ず耳を傾ける」


「わしの、私心……」

「ああ。亀山社中の利益でも、土佐藩での出世でもない。ただ純粋に、この国を思う気持ち。それがあんたの最大の武器になる。西郷は、そういう匂いを嗅ぎ分ける天才だ。そして一度『こいつは信じられる』と思わせれば、彼はどこまでもあんたを信じ、力を貸してくれるだろう」


 ただし、と俺は付け加える。


「気をつけろ。あの男は、人を信じやすい分、裏切られたと感じた時の怒りと失望は計り知れない。寺田屋の一件で、薩摩藩の一部があんたに敵意を向けているのは知っているな? 西郷自身がどう考えているかは分からんが、彼らの猜疑心を刺激するような動きは禁物だ。あくまで誠実に、公明正大に振る舞え。それが、あの巨人を動かす唯一の方法だ」


 龍馬は、黙って腕を組んだまま、じっと聞いていた。彼の頭の中で、俺の言葉が何度も反芻されているのが分かる。


「……分かった。西郷のことは、よう分かった。問題は、もう一人の方じゃな」

 龍馬の目が、探るように俺を射抜く。

「長州の木戸孝允。あの男はどうじゃ?」


 その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に、血と鉄の匂いが立ち込めるあの夜の光景が鮮やかに蘇った。池田屋の二階、燃え盛る火鉢を背に、静かに剣を構えていた男。桂小五郎、今の木戸孝允だ。


「……そいつが、一番の難物だ」

 俺の声が、自分でも気づかぬうちに低くなっていた。


「奴とは、池田屋で剣を交えた」

「なに?」

「俺が二階に踏み込んだ時、奴は吉田稔麿たちを逃がすため、俺の前に立ちはだかった。神道無念流の免許皆伝……その剣は、沖田君とは違う意味で底が見えなかった」


 俺は、あの時の対峙を思い出していた。桂の剣は、俺を殺すためのものではなかった。あくまで俺の動きを封じ、文書を処分する時間を稼ぐための、怜悧な刃。


「数合斬り結んだが、奴は俺の剣筋から、俺の狙いが志士たちの首ではなく『機密文書』にあることを見抜いていた。そして俺も、奴の剣から、奴がただの過激な攘夷志士ではないことを悟った。あの男は、あの修羅場の真っ只中で、俺に問いかけさえした。『その剣は、何を守るためのものだ?』と」


「……ほう」

 龍馬が、俄然興味深そうに身を乗り出した。

「斬り合いの最中に、そんな問答を……。つまり、おんしらは互いに、相手がただ者ではないと見抜いたわけか」


「そうだ。奴にとって俺は、仲間を斬った新選組の憎き敵。だが同時に、その目的と思考が読めない不気味な存在でもあるはずだ。その因縁を、逆手に取る」

「面白い! 聞かせてみい!」


 俺は、龍馬に悪魔の囁きにも似た交渉シナリオを授け始めた。


「まず、最初は俺の名を出すな。これまで通り、薩長が手を結ぶことの利を、冷静に、論理的に説け。木戸は『慎重居士』だ。情に訴えても動かん。俺たちの『帝国議会』の構想が、いかに合理的で、長州にとってどれほどの利益をもたらすかを、筋道立てて説明するんだ」


「うむ。理と利で説く、じゃな」


「だが、木戸は必ずあんたの背後を探る。そこで初めて、俺の名を出すんだ。『この策を授けたのは、新選組の永倉新八だ』と」


「無茶だ、新八!」

 案の定、中岡が血相を変えた。

「木戸殿が激高するに決まっている!」


「ああ、するだろうな。だが、そこからが本番だ。木戸が激怒するか、あるいは蛇のような目で値踏みしてきたら、龍馬、あんたは静かにこう言うんだ」


 俺は、龍馬の目を真っ直ぐに見据えた。


「『永倉は言っていた。池田屋で対峙した時、木戸殿の剣は、ただ人を斬る剣ではなかった。国を憂う者の剣だった、と。だからこそ、信じられる』と」


 部屋の空気が、シンと静まり返った。


「そして、こう続けろ。『あの夜、永倉の狙いはあんたの首ではなかった。文書を手に入れ、京に潜む過激派の繋がりを断つことじゃった。あの男は、あの時からもう、新選組という立場を超えて、国全体を見て動いていた。寺田屋で、このわしを助けたのが何よりの証拠じゃ』と」


 俺と木戸、二人にしか分からない池田屋での濃密な対峙。その記憶を揺さぶることで、単なる敵対関係ではない、別の繋がりを意識させるのだ。


「そして、最後の一押しだ。こう言うんだ。『あの夜、あんたは永倉に言うたそうじゃな。「その剣は、何を守るためのものか」と。この薩長を結びつけ、内戦を避け、帝の下に新しい政を創るという策こそが、その問いへの永倉の答えだ』と」


 俺たちの構想が、あの夜の禅問答への「返歌」であると示す。そうすれば、木戸は俺を単なる幕府の犬ではなく、同じ地平で国を憂う、恐るべき「好敵手」として認めざるを得なくなる。そして、その好敵手が提示する危険な遊戯に、興味を抱かないはずがない。


「……はっ、ははは! こりゃあ、たまげた!」

 沈黙を破って大笑したのは、龍馬だった。

「おんしは本当に面白い男じゃ! 敵じゃった男との因縁を、ここまで利用し尽くすか! あの夜の問答の答え、ねえ! 面白い! 最高に面白いぜよ!」


 龍馬は立ち上がると、俺の肩を力任せに叩いた。その目には、困難な役どころを与えられた名優のように、交渉人としての歓喜の光が燃え盛っていた。

「やっちゃる! やっちゃるぜよ! この坂本龍馬の生涯を懸けた大芝居、とくと見せちゃるわ!」


 その背中は、自信に満ち溢れていた。

「龍馬、頼んだぞ。あんたの双肩に、この国の未来が懸かっている」

「おうさ! 心配せんでもえい。わしはただの使い走りじゃない。おんしらの同志じゃき。必ずや、あの慎重居士の度肝を抜いて、薩長を同じ席に着かせてみせる!」


 龍馬はそう言うと、お龍さんに目配せし、身支度を整え始めた。

 やがて、龍馬は中岡の肩を力強く叩き、俺に向かって片目を瞑って見せた。

「じゃあ、行ってくる。慎太、あとのことは頼んだぜよ。新八……あんまり無茶はするなよ」

「お前にだけは言われたくないな」


 軽口を叩き合い、俺たちは夜の闇に消えていく龍馬の背中を見送った。戸が閉められ、部屋には再び俺と中岡、そして静かに佇むお龍さんの三人が残された。


「……新八」

 中岡が、絞り出すように言った。

「あまりに、危うい綱渡りではないか?」


「ああ、そうだな」

 俺は、正直に認めた。

「龍馬が結ばせるのは、おそらく『偽りの同盟』になるだろう。互いに腹に一物を抱え、牽制し合い、隙あらば相手を出し抜こうとする、薄氷の上の合意だ」


 それをコントロールし、内戦という最悪の結末を避けながら、日本を一つの方向にまとめ上げる。なんと困難な舵取りだろうか。俺は、自ら選んだ道の険しさに、改めて身震いする思いだった。


 これは、夜明け前の、最も深い闇。

 俺は、この偽りの夜明けの先に、真の光をもたらすことができるのだろうか。


 それぞれの思いが、この京の空の下で交錯する。

 俺たちの到達点は未だ見えなかった。


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