第118話:三者の密約
俺と龍馬が交わした杯が、まだ互いの体内で熱を放っている、その時だった。
隠れ家の戸が、控えめながらも切迫した様子で叩かれた。龍馬と俺は顔を見合わせ、一瞬で緊張が走る。お龍さんが息を飲み、俺はいつでも刀に手が届くよう、腰をわずかに浮かせた。
「……誰じゃ?」
龍馬が声を潜めて問う。戸の向こうから返ってきたのは、待ち望んでいた男の声だった。
「わしじゃ、慎太じゃ! 龍馬、無事か!?」
その声を聞いた瞬間、龍馬の顔がぱっと輝いた。お龍さんが安堵のため息をつきながら、急いで戸の閂を外す。
勢いよく開けられた戸口に立っていたのは、息を切らせ、髪を振り乱した中岡慎太郎だった。彼は部屋に駆け込むなり、龍馬の姿を認め、その両肩を掴んで力任せに揺さぶった。
「龍馬! ああ、龍馬! 無事じゃったか! 心配したぜよ、本当に……!」
「おお、慎太! 大丈夫じゃ、この通りピンピンしちゅう!」
再会を喜ぶ二人の姿は、まるで生き別れの兄弟のようだった。中岡は、俺がこれまで見たことがないほど感情を露わにし、その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。彼にとって、坂本龍馬という存在がいかに大きいかを、改めて思い知らされた。
一通り龍馬の無事を確認し、興奮が少し収まった中岡は、そこでようやく、部屋の奥に座る俺の存在に気がついた。彼の動きが、ぴたりと止まる。驚き、困惑、そして理解が、その実直な顔の上を駆け巡っていく。
「永倉……さん。あんたが、なぜここに……。いや、まさか……」
龍馬が、にやりと笑って中岡の肩を叩いた。
「そうじゃ、慎太。わしがこうして生きておるのは、この男のおかげぜよ」
その言葉が、中岡の中で最後のパズルのピースを嵌めたようだった。彼は、俺の方へゆっくりと向き直ると、その場に崩れるようにして両手をついた。龍馬がしたのと同じように、深く、深く、頭を下げたのだ。
「永倉さん……!」
絞り出すような声だった。
「龍馬を救うため、新選組の立場を顧みず、たった一人で伏見奉行所と渡り合ったと聞いた……! あんたという人は……! わしらのために、ここまで……!」
声が震えている。それは過去の不信を詫びるものではない。既に盟友と認めた男が、自分たちの想像をはるかに超える覚悟と自己犠牲を示したことへの、純粋な衝撃と感謝の念だった。
「以前、わしの命を救っていただいたご恩も返せぬまま、またしても、これほどの……! この中岡慎太郎、あんたへの恩義、どう返せばよいのか、言葉も見つからん……!」
俺は、数日前に見た光景のデジャヴに、苦笑するしかなかった。どうやら、この土佐の男たちは、感謝を示す作法として土下座が標準装備されているらしい。
「慎太郎さん、頭を上げてくれ。俺は、俺がすべきだと思ったことをしただけだ。それに、あんたたちの命は、この日本の未来にとって、俺の命よりもずっと価値がある」
「そんなことはない!」
俺の言葉を遮り、中岡は顔を上げた。その目は、炎が宿ったかのように真っ直ぐに俺を捉えていた。
「あんたのその行動が、どれほどの覚悟を要するものか、わからぬわしではない! あんたは、わしらが持つ『志』というものを、命を懸けて信じてくれた! その信頼に、わしは……わしらは、どう応えればいい!」
彼の言葉には、もはや一片の疑いも迷いもない。あるのは、友が友のために命を賭したという事実に対する、魂からの感謝だけだった。俺は静かに立ち上がると、彼の前に進み出て、その肩に手を置いた。
「慎太郎さん。あんたの気持ちは分かった。だが、大げさに考えるな。俺たちは、仲間だ。違うか?」
その言葉に、中岡ははっとしたように目を見開いた。そして、彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼は慌ててそれを手の甲で拭うと、何度も、何度も、力強く頷いた。
「……ああ。ああ、そうじゃ! わしらは、仲間じゃ! 同志じゃ!」
ようやく、三つの歯車が完全にかみ合った瞬間だった。
新選組副長助勤、永倉新八。
亀山社中社主、坂本龍馬。
陸援隊隊長、中岡慎太郎。
立場も、身分も、育ちも違う三人の男が、京の薄暗い隠れ家で、初めて一つの魂として繋がった。
「さて、と」
俺は改めて座り直し、二人に声をかけた。
「感傷に浸るのはここまでだ。俺たちには、やるべきことがある」
その言葉に、龍馬と中岡の顔が引き締まる。
龍馬が、先ほど俺と話していた内容を中岡に説明し始めた。武力に頼らず、幕府が自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還」。そして、その先に、身分に関係なく賢人たちが国を動かす「議会政治」を創設するという、壮大な計画を。
中岡は、最初こそ驚きに目を見張っていたが、話が進むにつれて、その表情は興奮と期待に変わっていった。
「大政奉還……そして議会……。なんと、なんと壮大な策じゃ……!」
彼は、俺が最初にこの構想を語った時よりも、ずっと深く、その意味を理解しているようだった。
「それならば、薩長が血気にはやって戦を起こす必要もなくなる。いや、それこそが、真の『尊王』の姿じゃ! 幕府を潰すことが目的ではない。帝を中心とした、新しい国を創ることこそが、我らの目指すべき道じゃったんじゃ!」
中岡は、自らの理想が、明確な形となって目の前に現れたことに、打ち震えているようだった。
俺は、そんな彼に問いかけた。
「慎太郎さん。あんたがまとめている陸援隊の連中は、この話を受け入れられるか? 彼らの多くは、俺と同じ『幕府』の人間を憎んでいるはずだ」
俺の問いに、中岡は力強く頷いた。
「任せてほしい。わしが、命を懸けて彼らを説き伏せる。我らの真の敵は幕府ではない。この国を旧態依然とした仕組みに縛り付け、世界の流れから目を背けさせる全ての者たちじゃと! そして、永倉殿、あんたという存在こそが、その何よりの証になる!」
頼もしい言葉だった。これで、駒は揃った。
俺は、三者の役割分担を明確にすることにした。
「いいだろう。では、これからの俺たちの役割を確認する」
俺は、文机の上に広げられた紙に、指で三つの点を描いた。
「まず、俺は引き続き新選組に身を置き、幕府内部から情報を集め、改革の機運を高める。特に、将軍・家茂公と思想を共有し、彼に『大政奉還』を決断させるための道筋を作る」
次に、龍馬を指す。
「龍馬、あんたは『亀山社中』を使い、海と経済を握れ。交易で富を蓄え、それを新しい国づくりのための資金とする。そして、あんたのその人脈で、薩摩をはじめとする雄藩の重役たちと渡りをつけ、彼らを武力倒幕ではない、新しい政の話し合いの場に着かせるんだ」
最後に、中岡を指す。
「慎太郎さん、あんたは『陸援隊』を率い、陸を抑えろ。全国に散らばる志士たちをまとめ、俺たちの思想を広める。彼らの有り余る力を、破壊ではなく、新しい国を創る力に変えるんだ。特に、凝り固まった長州の連中を説得できるのは、あんたしかいない」
内からの改革を進める、俺。
海と経済から外堀を埋める、龍馬。
陸と人で世論を形成する、中岡。
三つの力が、一つの目標――「武力によらない、新しい日本の創設」――に向かって、有機的に連動する。それは、歴史の教科書には決して載ることのない、俺たちだけの維新のシナリオだった。
「……すさまじい。まるで、神の視点じゃな」
龍馬が、感嘆の声を漏らす。
「わしらがそれぞれバラバラにやりよったことが、あんたの一言で、一つの巨大な絵になった」
「そうだ」と俺は頷いた。
「俺たちは、もう一人じゃない。情報を共有し、互いに助け合い、一つの目的のために動く。今日、この瞬間から、俺たちは運命共同体だ」
俺は、すっくと立ち上がった。
そして、二人に右手を差し出す。
「誓おう。この身がどうなろうと、必ずや、血の流れない新しい日本を創り上げることを」
俺の行動の意図を察し、龍馬が笑いながら俺の手に自分の手を重ねた。
「面白い! 乗ったぜよ! この坂本龍馬、あんたたちのために、この魂、燃やし尽くしちゃる!」
最後に、中岡が、その二人分よりも大きな手で、俺たちの手を力強く握りしめた。その目には、もはや涙はなく、鋼のような決意が宿っていた。
「この中岡慎太郎、我が命、お二方と、そして日本の夜明けのために捧げよう!」
固く、固く握りしめられた三つの手。
新選組、脱藩浪士、土佐勤王党。
本来ならば、刀を交えることこそあれ、決して手を組むことのなかったであろう男たちが、今、確かに一つになった。
歴史の教科書が語る「明治維新」とは、まったく違う流れが、この京の片隅で産声を上げた。薩長の武力倒幕でもなければ、幕府の延命策でもない。第三の道。俺たちが創る、真の維新への道が。
俺たちの背後で、お龍さんが静かにその光景を見守っている。彼女こそが、この歴史的な密約の、唯一の証人だった。
握りしめた手から、二人の熱い血潮が伝わってくる。
そうだ、ここからだ。ここから、俺たちの戦いが始まる。
「さて、同志諸君」
俺は手を解き、改めて二人の顔を見回した。
「最初の仕事だ。この新しい日本の形を実現するためには、どうしても薩摩と長州の力が必要になる。だが、今のあの二藩は犬猿の仲だ。まずは、あの二つを同じテーブルに着かせなければ、話が始まらん」
俺の言葉に、龍馬が待ってましたとばかりに胸を叩いた。
「それなら、わしに任せろ。ちょうど、薩摩の小松帯刀様から、長州の桂小五郎との間を取り持ってくれんかと頼まれちょったところじゃ」
史実通り。だが、その目的は、俺たちの手によって大きく書き換えられる。
「いいだろう。龍馬、あんたが薩長同盟の斡旋役だ。だが、目的は軍事同盟じゃない。あくまで、俺たちの『帝国議会』構想に、両藩を参加させるための同盟だ。いいな?」
「承知!」
歴史の裏側で、真の維新の担い手たちが、今、誕生した。
俺たちの密約が、この国の未来をどう変えていくのか。それはまだ、誰にも分からない。だが、確かなことは一つだけ。
俺にはたくさんの仲間がいる。俺は一人じゃない。




